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第七章
皇太子裕仁
(その4)



シベリア出兵(32)

 満州を帝国の国土に加えようとの大正天皇の構想倒れの企みの直後、ドイツは、膠着したヴェルダン〔フランス北東部の要塞都市〕や侵略し終わったルーマニアから反転し、東へ向かった。そして、独露前線の崩壊と同時にロマノフ家の統治も崩壊した。1917年3月、ニコライ皇帝は皇位を捨て、すでに国内抗争で危機にひんしていたロシアの長く横たわった国境線は軍事的空白状態となった。日本人にとって、それは、ウィルヘルム皇帝が日本に働きかけ、日本が占領した青島のドイツ領租借料の支払いを要求してくるのも時間の問題かに見えた。
 1917年の初期、陸軍重鎮山縣は、砲艦外交の未熟な試みに対し、自分の背後に最も有力な人材を配置させていた。大正天皇は、顔を立てるため病気を口実にすねるように身を引いてしまった。そして東京時間の4月7日、アメリカがドイツに対抗して連合国側に参加し、また、大正天皇の病状も回復した。彼のブレーンである六人の親王たちは、ただちに、東シベリアを帝国の国土に加える可能性を説き始めた。西ロシアの革命勢力には、ウラジオストックを守る人員も資金もなかった。ドイツは、すべての戦力を西部戦線に集中させる必要があった。さらに、英国とフランス両政府は、ウラジオストックから軍を西へ移し、その東部戦線を支援するよう、1915年以来幾度も、日本に打診していた。日本は、今ようやくにこの要請を受け入れ、シベリアの永久保有は無理としても、少なくとも、勝利者たちに取り入り、戦後の講和会議における交渉を有利にしようと目論んでいた。
 1917年6月5日、大正天皇は、可能性を探るための外交特別顧問評議会を指名した。それと同時に彼は、戦略的状況を詳細に分析する準備に取り掛かるよう陸軍参謀に命じた。その陸軍の分析は1917年10月に提出され、英仏によって求められているように、東部前線の全長にわたる進撃は軍の補給を間に合わなくさせるが、中央シベリアのバイカル湖までの鉄道と拠点を確保するのみなら、完全に実行可能であることを示していた。
 山縣と西園寺親王は、シベリア出兵へ反対するよう全国の古参政治家を招集した。山縣が言うには、軍の諜報部は、シベリアには約30万人のオーストラリア、ドイツ、トルコ、およびブルガリアの捕虜が抑留されており、解放されればボルシェビイキに味方するもの、と予想していた。そのような状況のもとで、10万を下回る日本の遠征軍を送ることは無茶な試みで、悲惨な結果に終わると報告していた。
 1917年12月、ソビエト中央政府がウラジオストックに行政府を設置すると、英国は直ちにその地の自国権益を守るために英国艦スフォルクを派遣し、必要とあらば英国人の避難に備えた。山縣は、英国が何を行おうとも正当であると同意した。1918年1月には、日本は海軍小艦隊をウラジオストックに派遣し、現地の地方政府が白系ロシア政府のもとにあるままにさせようとした。
 1918年の春まで、日本はウラジオストックの上陸拠点を維持し、東京においては、それをそれ以上維持すべきかどうかについて深刻な政治的闘いが展開された。80歳の山縣は、ほとんど単独で、一方的な日本の行動へ反対し続けた。
 「我々は諸外国の見解に配慮せねばならず、その同意と承認を必要とする」と大正天皇に進言した。
 1918年4月23日、大正天皇は遂に彼の意見に従った。日本の海軍は艦船を引き上げ、4月25日、ソビエト政府がウラジオストックに設置され、レーニン・トロツキー政権の掌握下に入った。
 山縣が政治的戦いに勝利したちょうどその時、アメリカの面子問題で、全状況が変ろうとしていた。オーストリア・ハンガリー帝国の圧迫から自国を解放することを望んでロシアに投降したチェコ軍の5万人は、ロシア内で主を失くした傭兵同然と化し、帰国のために闘っていた。連合国は、彼らが西部戦線に達せるなら、彼らを迎え入れることに同意した。チェコ軍は、700ないし1,000人から成る60の列車に分乗し、1918年4月、西ロシアを出発し、シベリア横断鉄道で東に向かった。その東端のウラジオストックで、彼らは自分たちをフランスへと運ぶ連合軍が待っているものと期待していた。彼らがその旅を始めようとすると、英国は北ロシアのムルマンスクに海兵隊を上陸させ、ドイツ政府は彼らがその第二の前線に集結する恐れがあると、チェコ軍を武装解除させるようソビエト政府に要求した。赤軍がそれに応じようとすると、チェコ軍の後方隊はまだ西方のヴォルガにあり、それに発砲して拒絶した。そうして数週間のうちに、チェコ軍の長い列は、ヴォルガからウラジオストックまでの主要拠点をすべて掌握するように至り、彼らの平和な脱出はとんだ戦闘騒ぎとなった。赤軍だろうが白軍だろうが、熟練の兵士たちはその戦いから手を引き、チェコ軍の通過を続けさせようとした。
 5千マイル
〔8千キロ〕にわたる草原とツンドラで、自らの脱出のために戦う5万のチェコ兵士の話は、新聞各紙の格好の記事となり、アメリカ国民の同情がいかにも掻き立てられた。そのチェコ兵士に寄せられる感情は、ボルシェヴィズムの赤化の伝染を恐れるアメリカの国益に利用され、1918年7月8日、米国は日本に対し出し抜けに、二国でシベリアへ共同して介入するように要望した。その目的は、チェコ兵の援助、シベリアの収容所にいるおよそ30万人の捕虜の解放、そしてウラジオストックに蓄積された連合軍物資の回収にのみ限られるべきであった。
 そのニュースを聞いた山縣は薄笑いをうかべた。しかし、一晩のうちに彼の意見は変り、数日の内には、彼は熱烈な介入主義者に変貌していた。7月12日、「今回の遠征はドイツと闘うことではないので、この不適切な動きに不安を持つ必要はない」と彼は言っていた。8月3日、日本政府は、連合軍の派遣に参加すると発表し、その3週間後、中国と協議のうえ、3万の日本軍が満州を通りロシア国境へむけ北に進軍していた。
 日本国内では、その介入はともかく不評であった。その決定がなされた後、8月を通して、日本の主婦たちは主要都市で暴動を繰り広げ、高騰する米価に怒って倉庫に火をつけた。兵士たちは、彼らが前線へ向けて出発するのに誰も見送らず、その多くは兵士とは見分けがつかないよう平服を着けさせられたと不平を言った。規模の拡大する抗議に、9月末、寺内内閣は辞任し、大正天皇は原敬率いる平民による日本で初の政党政府を任命して、国民の不満をなだめた。
 アメリカ政府は、自国の大衆をさておく日本の敏捷な協力ぶりを、もはや歓迎はしていなかった。アメリカ人の眼には、多すぎる日本の軍隊が、余りに迅速に動員されていた。しかし山縣はそ知らぬ顔で、陸軍は常に迅速かつ余力をもって行動する準備を整えていると語り、得意顔だった。誰が何の権利をもって、憲法に定める天皇の至高特権に疑問をていするのか、と彼は厚顔に豪語した。ウッドロー・ウィルソン大統領は、日本を監視するために、緊急に7千人の軍隊をシベリアに派遣した。そして双方とも、手下のコサックによる様々の拷問、強奪、殺人によってその当初から悪評の高い、病める白系ロシア人の傀儡政権の後継を後押しした。ロシアのテロへ復讐するよう命じられた日本兵自身は、何カ所かの村民の虐殺を行ったことから、野蛮行為の名を着せられることとなった。
  “連合軍” によって設立された白系ロシア政府はいずれも、シベリア農民のいかなる意味もの支持を得られず、赤軍がついに西方より出現し、軍事的圧力をかけ始めた1919年、そのすべては崩壊した。英米軍は、その実行を命じられた任務に嫌悪を抱き始めた。1919年末、英国はその小規模は派遣隊を撤収し、いまにも叛乱を招きかねないと報じられていたカナダ軍もそれに従った。1920年4月、最後のアメリカ軍が、日本軍を放置したまま、撤収した。その後の数ヶ月間、シベリアの広い地域で、ロシア人の政府の主張は消え去り、日本軍が自前の法律をもって統治した。
 もともと、故国へと向かう船以外にはいかなる援助も必要としていなかったチェコ軍は、こうしてようやく本国への送還の途についた。一年を要して、連隊ごとにウラジオストックを出港した。その待機の間、彼らは日本軍と頻繁に衝突し、また白系ロシアの傀儡の最後で最良のアレクサンドル・コルチャクをボルシェビイキの銃殺隊に売り渡した。
 30万人のドイツ、オーストリア、トルコ、ブルガリアの捕虜――もし干渉の対象とされていなかったなら、1917年に送還されていたかもしれない人々――は、収容所に入れられたまま忘れ去られた。スカンジナビア、アメリカ、そしてドイツの赤十字は、1919年末、そうした気の毒な窮状に注目したが、有効な手が取られぬまま、10万人が、飢えやチフスや天然痘で亡くなった。生きて帰国したものの多くは、正気を失くしていた。日本軍は、1922年まで、シベリアに居残った。戦後の講和会議が終わり、国際政治においてその存在が無効とされ、日本軍はついに撤退した。


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