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第十七章
北進か南進か(1933-1934)
(その2)



第一の敵(26)

 名古屋での陸軍首脳の会談は、天皇による公的許可を必要とせず、報告のみを要する定例の年次あるいは半年次の演習で、机上作戦会議であると公表されていた。今年のその会議は、一週間にわたって行われ、皇室を代表して、東久邇親王中将が出席していた。
 名古屋の第三師団本部は、日本の皇位の象徴である三種の神器のうちの剣をまつっていた〔熱田〕神社から数区画のところにあった。その庁舎は、日本のどのものより近代的で、訪れた将官がその長靴を脱ぐことが求められるような潔白な畳敷ではなく、伝統を思い起こす必要もなかった。将官たちはつかつかと入ってゆき、席につき、東京の部下から詳細情報を得たい際は、その場から電話をかければよかった。
 北進派の一団は、荒木陸相によって代表され、参列した将官のうちの圧倒的多数を占めていた。彼らは、1936年にシベリアに侵攻した場合に、日本が得られるであろう、攻略、国際的支援、そして可能な戦果について示した図面を次々に提示した。彼らは、自分たちの展望の提示のほとんどを、バーデン・バーデンの三羽烏の二番手の小畑少将に任せていた。彼は長く 「天皇の忠臣の一人」 であったため、そこに出席していた若い陸軍官僚のうちで、現在、彼と天皇との間に不和がかもされていることを知っているものは誰もいなかった。
 裕仁自身の見解は、机上演習の際、やや熱意を欠いてはいたが、三羽烏の一番手の永田少将
――現在、一般参謀諜報部長――によって代弁された。永田は、門弟でありその会議の主任助手であった東条少将――後の戦時中首相――が用意した覚書を見ながら主張をのべた。それは、南進という彼の目的を隠し、それに代わり、 「まず中国を再構築し、次に日本」 との政策を打ち出すという東条の発案だった。
 永田と東条は、日本はロシアを含むいずれの欧米国にも、対決する準備が整い、彼らが受身となるまで、攻撃には出られないと論じた。したがって、日本は、あらゆる黄色人種とその資源を駆り出し、 「総力戦動員体制」 を整えなければならない。すなわち、中国と5億人の中国人を巨大な労働部隊として日本兵士の背後につかせ、かつ、満州の資源と日本の工業力をもって、 「産業合理化」 を完成させなくてはならない。そして永田は、そうした計画は、1936年までには準備しえず、中国に侵入し、転覆させ、再構築するだけでも数年は要すると主張した。そしてそれに続き、国内改革という大問題を解決せねばならない。こうした準備に要する数年間、日本は、ソビエト連邦を攻撃するということすら、口にすべきではない。むしろ逆に、第一に必要とされることは、ソ連との不可侵条約締結の交渉であり、日本と中国の双方が充分に 「合理化」 されるまで、ロシアを脇に退けておくことだ、と論じた。
 荒木の北進派は、ロシアとの不可侵条約についての投票まで、天皇を代弁する永田が会議の進行を先導することを許した。そして荒木が短い演説をして、その投票が行われた。そこで荒木は直ちに、第二の投票を求めた。それは、そこに集まった陸軍将官たちが裕仁に、日本の 「第一の敵」 は中国でなくロシアであることを進言すべきであることを票決するものであった。それは圧倒的多数で支持され、永田、東条、そしてもう一人の将官は窮地に追い込まれることとなった# 3
 机上作戦会議にこの危機が訪れたのは、第7日の6月2日であった(27)。票決が済むと直ちに、黙って事態を見守っていた東久邇親王中将は会場を去り、興津に向かって汽車に乗った。そこで彼は、その海辺の別荘に、非妥協な荒木を後押ししたと見られている西園寺を訪ねた。その尊敬を集める政治家との面会を終えて、東久邇は記者団に、彼と西園寺は、ロシア、米国、そして他のどの国との戦争も、如何なる犠牲を払ってでも避けるべきであることに完璧に同意した、と語った。そして東久邇は、東京の皇居の自邸に戻り、裕仁に報告するとともに、陸軍からの歓迎し難い進言に対する策略の準備に入った。 


毒をもって毒を制す

 裕仁は、ロシアが第一の敵であるとの陸軍の助言を丁重に取り上げた。その一方、荒木の持つ隠れた支援者への赤宣伝をひっくり返す望みをもって、内大臣の秘書で大兄の木戸は、日本のすべての貴族階級への共産党の影響を徹底して調査した。6月3日、東久邇親王が名古屋での机上演習会議を後にした翌日、木戸は息子の友人のひとりの西園寺公一――首相奏薦者の27歳の孫で、その老人の最初で最愛の妾のもうけた娘の子――とゴルフをした。野心に燃えるその若き西園寺は、祖父の敗北によって幻滅し、その自由主義にうんざりさせられており、日本のために新たな政治的信条を作り出すことに熱意をもっていた。彼は、1930年に、オックスフォードを卒業し政治経済の学位をたずさえて帰国し、そのほとんどが左翼系である、さまざまの貴族的知識階級と親交を深めていた。(28)
 44歳の木戸は、ゲームの間や、その後のクラブハウスでの午後に、それとなく質問をして、その若き貴族から話を聞きだしていた。若き西園寺は気楽にそれに答え、どれほど広範に、マルクス主義、個人主義、そしてその他の危険思想が親譲りの既成指導者階級に蔓延しているかを木戸に示して、因習破壊の喜びを表していた。
 その翌週、木戸は、若き西園寺が彼に見せた先導のままに、左翼たちにまじって自由主義的な教育に浴した。彼は、1901年に近衛親王の父親の篤麿
〔あつまろ〕が上海に設立した東亜同文書院〔1939年に大学に昇格、現愛知大学の前身校〕の世界に臨んでいた。そこでは、日本の諜報組織の知識人や中国古典に魅された学者たちが、他のアジア諸国の民族主義者や革命家――孫文、ガンジー、ウー・ヌ〔ビルマのナショナリストで初代首相〕、毛沢東の信奉者で、欧米の植民地主義が生み出した最も善良つ最も賢明な、そして最悪かつ最も狡知に長けた者たち――と机を並べ、情熱を共有しあっていた。(29)
 その東亜同文書院大学の学生たちは、その初年生として、欧米大使館付警官や、ロシアの革命組織、日本の諜報組織、そして、蒋介石のゲシュタボたる藍衣社の、私服に身を隠した工作員の見分け方を学んでいた。また学外では、ドイツやロシアの共産主義者の寄付によって運営されている 「時代思潮」 書店において、学生たちは、世界中からのアパラッチ〔共産党スパイ〕たち
――そこで彼らは革命論を交しあい、時には、資金やマイクロフィルムの入った包みを交換しあっていた――と親交していた。
  「時代思潮」 書店では、ミズリー州生まれの、変わり者で断固としたまるで男のようなジャーナリスト、アグネス・スメドレイ
――毛沢東を理解した先駆者の一人――が、インドの知識人やブロンクス〔ニューヨークの一地区〕からやってきた男たちと交わっていた。そこに、ジョンソンとの別名で、リヒャルト・ゾルゲ――今日ではロシアのスパイとして有名で、後述するように、真珠湾攻撃の前の数年には、彼の東京諜報団が決定的役割を果たした――がおり、中国や日本の知識人たちの間にジャーナリストとしての情報網を広げていた。そこで、尾崎秀実――日本が生んだ唯一の大物売国奴――もアグネス・スメドレイと知り合い、彼女によってリヒャルト・ゾルゲの諜報団に紹介され、後にその重要な役を果たすに至る。
 木戸は、むろんそうしたした今後生じそうな詳細のいくばくかをも知ったわけではなかったが、上海のもつ国際的諜報の世界の雰囲気に大いに刺激された。そして同時に、彼の常日頃からの実務的方法で、老西園寺あるいは北進派の支持者や荒木と同類になりそうな貴族たちの一覧表を作成した(30)。そこで彼が発見したことは、貴族院の外向的資本家、井上清純男爵が、共産党シンパである姪を持っていることだった。また、個人主義をたたえる賛歌を詠う詩人、吉井勇伯爵の妻が、過激な思想をもつ文人を集め、ただサロンを形成していただけでなく、ベッドを共にしていたことだった
# 4
 さらに重要なことは、内大臣秘書の木戸が、貴族院の反近衛派の保守的自由主義者である、80歳の徳川家達親王――徳川家の後継者で、80年前、もしペリー提督による横槍がなければ、彼が将軍を継いでいただろう――の政治的汚点をあばいたことだった。というのは、彼の最後の欧州旅行の際、赤十字の国際会議に臨み、その時彼は、通訳として若い今西けいこを同伴したが、彼女はそれまでに左翼人たちとの長い交際の記録を持っていた。(31)
 数ヵ月後、木戸が徳川親王の名声への脅しを完全に搾り出した後、彼はその話をゴシップ記者に漏らした。その際、木戸は自分の日記に、徳川の取り巻きたちが 「鳩首会談」 を行ったと記して、それをあてこすった。この言葉は、いい年をした者たちが集まり、頭を寄せ、首を伸ばし、問題を突っつきまわして、解決不能な問題を解決しようとする無駄な努力を言った日本語の表現である。
 こう調べ上げることで、木戸は皇族に対する赤い汚点の亡霊を取りつかせた。良子皇后の弟、東伏見伯爵は、学習院時代、マルキスト講座に籍を置いていたため、親王から伯爵へと降格させられ、そして京都大学の文学部教授へと身分を落とさねばならなかった(32)。皇后の女官庁を含む幾人かの老いた宮廷の忠僕は、スキャンダルから遠ざけるため、退職させられねばならなかった(33)。しかし、木戸の努力によって、貴族階級への赤の浸透が余りに広範であることが証明され、北進派はそれを有利に使うことができた。さらには、木戸は、若い西園寺より左翼との貴重な接触先を見出し、後に、それをスターリンより以上に、歴史を動かすために活用することとなる。


交通信号事件
(34)

 1933年6月17日、机上作戦会議が終わって2週間後、京都に近い港湾都市、大阪である事件がおこり、北進派指導者、荒木陸軍大臣が、文官政府に対する国民の怒りの証拠として、それを自分の記者会見で取り上げた。その事件とは、大阪で、中村という二等兵が、交通整理の警察官の合図を見落とし、赤信号なのに道路を横断してしまった。その警察官は、すべての交通を止めてその兵士に、誰もが見守る中で、ゆっくりと明瞭に、東北の田舎者がなんで陸軍の制服を着れているのか解っているのかと尋ねた。そうした田舎者ではまったくないその兵士は、その交差点を幾度もいくども横断してその違反を繰り返した。彼が停止信号に反して七回横断した時、その兵士の行動を見守る野次馬は増え、そしてその警官は当然に彼を逮捕し、記録を付け、七回分の罰金を科した。
 その話は、交通信号事件と呼ばれて人々の間に尾ひれが付けられて広がり、7月末から8月にかけて、民間警察と陸軍警察の間の対立となるまでに至った。ある時には、その大阪の通りをはさんで、両者が向かい合って衝突寸前までにもなった。軍の憲兵は、天皇の軍隊が公衆の面前で辱められたのであるから、中村兵士はその罰金を払う必要はないと主張した。他方、大阪市の警察は、交通違反は交通違反であり、罰金は当然と主張した。事件をめぐる論争は、ほとんど毎日にように新聞紙上で闘わされていた。そして遂に、裕仁は荒木陸相に、妥協して事を納めるようにと求めた。陸軍は中村兵士の罰金を払い、大阪市警は、中村の上官に、その逮捕が軍に対して行われたかの無礼についての謝罪文を送った。



神兵隊事件(35)

 新聞の一面をかざったそうした日々――1933年の7月から12月までにわたった――、交通信号事件は皇位にとっての圧力となったが、その一方、さほど目立ちはしなかったが、別の事件のうわさがうわさを呼び、荒木陸相への圧力となっていた。その事件とは、1933年7月10日に起こった神兵隊事件で、東久邇親王が6月2日に机上作戦会議を後にして以来、練り上げてきた、反裕仁陣営を万遍に揺さぶる手品師のたくらみだった。その脅迫策は巧みに入り組んでおり、日本の法廷は、12年後の1945年9月、マッカーサーが上陸して占領を始めた時、その未解決の仕事をようやく終わらせて、その事件に関わったとみられた最後の被疑者を放免したほどであった。
 その東久邇の策謀とは、表面上は単純なものだった。3千6百人の筋金入りの右翼を全国各地から呼び集め、宮参りに見せかけて、東京に集合させようとするものだった。東京西部の森に囲まれた明治天皇を祀るその神社に、参拝として集合し、その神主から、 「神の兵隊」 としての祈祷を授かるというものだった。そしてその集団参拝の後、彼らは分散し、東京を混乱に落とし入れるというものだった。さらにその計画によれば、第一の決死隊は荒木陸相を、第二は斉藤首相と政友会の指導者たちを暗殺する。警視庁は占領され、刑務所を襲撃して、井上教導師や血盟団員を解放する。さらに、その司令官の山口三郎は海軍航空隊の最高将校の一人で、東京上空を飛行し、抵抗拠点を爆撃する。そして東京が制圧された後、東久邇親王ないしは秩父親王が首相となる、というものだった。
 この大そうな計画は、そのことごとくが全くお粗末なものだった。その陰謀の首謀者たちは、一部、賄賂を使い、一部、天皇の後押しがあるとのふれこみで、兵を徴募していた。その徴募担当者は、予備役の安田銕之助中佐だった。彼は、1923年の震災後に裕仁のために戒厳令を布いた福田将軍の義理息子だった。安田は、本国とパリの双方で長年にわたり、東久邇親王の私設秘書を勤めてきていた。安田はいまだ東久邇親王邸に住込んでおり、定期的な俸給を得ていた。その陰謀の手先の一人が彼と東久邇との間の親密さに疑いをはさんだ時、安田はその手先を道の反対側に立たせ、自分は東久邇邸の門前まで行って、大いなる歓迎を表すために自ら出てきてもらうようにと親王に頼んだ。
 そのような方法をもって、安田は東久邇のために、その誰もが皇位の権威を利用しようと目論む政治傾向を持つ党派の代表ばかりで混成された資金提供者たちを集めた。海軍飛行隊司令官の山口は、たとえば、さらなる海外侵略の必須条件として、国家改造を煽動する海軍内の一派の活動家であった。彼は、日本最大の海軍横須賀工廠の飛行実験部長だった。他の資金提供者には、5・15事件の暗殺者である血盟団員の裁判での弁護士の天野辰夫、西園寺家の代々の門番でその老首相奏薦者の私設秘書であり護衛を勤めてきていた中島勝次郎、黒龍会の青年運動指導者、鈴木善一、出版会社をもちスパイ組織員でもあり、密かに左派グループに侵入して北進派に極めて接近した藤田勇、そして、財閥のひとつである松屋百貨店の代表かつ株の相場師などがいた(36)
 この相場師、内藤彦一は、その陰謀に資金と滑稽な話題を提供した。内藤は、彼が東京北部に持つ土地に兵器工場を建てるという北進派の計画に便乗して賭けた。だがその机上の工場計画は、海軍開発のための国家予算から除去されてしまった。内藤は破産の崖縁に立たされることとなった。東久邇親王の私設秘書安田は、内藤に、資金的支援と引き換えに、皇室クーデタの情報を率先して与えると約束した。内藤は、彼を破産させないようにと望む債権者からおよそ20万ドル
〔現在価値で約10億円〕を借り、偽造株式証書を売ってさらに40万ドルを調達した。彼はそのうち2万ドル〔同約1億円〕をクーデタ資金として私設秘書安田に献上し、さらに、330万ドル〔同約165億円〕の株を残金の58万ドル〔同約34億円〕で先物取引購入した。彼はその先物買いした株を売って約束手形に変え、そのクーデタが実行され、株式市場がパニックになって暴落した際、安値で買い戻そうとその機会を待っていた。つまり、もしクーデタが起こっていたら、彼はこの手の込んだ売買により、百万ドル〔同約50億円〕以上を手にする手はずであった。
 そのクーデタは、起こらなかったばかりでなく、その積りさえなかった。東久邇親王の雑用係、安田中佐は、98振りの日本刀、10丁のピストル、700発の弾丸、そして16缶のガソリンをそのために仕込んだ。黒龍会の青年運動が駆り集めた3600人の兵士の間に、東京を制圧するには不十分な武器しか用意されていない、との伝言が流れた。1933年7月の第一週を通し、若い愛国者たちが東京へと上京し、武器庫をのぞき、その大半が愛想をつかして帰国していった。
 その参拝日とされていた7月10日、その朝は晴れわたっていた。その日の朝刊のゴシップ面は、クーデタが失敗したとのうわさが流れていると報じた。その朝、債権者の一群が相場師内藤の所に押しかけ、その顔は青ざめ、震えている彼を発見した。彼は債権者に、二日後にまた来てくれれば金を返すと保障した。彼らは納得しないまま引き上げ、その午後、一部の人たちは彼を相手取って法的手続きを行った。
 その日の夕方、明治神宮の参拝に集まったのは、わずか33名の信仰厚い屈強な剣士たちのみだった。後援者たちの要望で
――東久邇親王と親しい神主からの祈祷を受けて――、彼らは、その計画を 「形だけでも」 実行しようと決心した。夜10時、警察が彼らの居る明治神宮に付属する参拝者用の宿を急襲した。祈祷集会に臨んでいたその33人と、夜中に荒木陸相を襲うために、提灯に火をいれ、日本刀を腰につけている新たに加わった16人の剣豪を驚かせた。5時間後の7月11日、午前3時、バスに乗って大洗のスパイ教育機関から東京に向かっていた17名の狂信的農夫が警察によって差し止められた。その17名全員は、愛郷塾――近衛親王と東久邇親王が資金提供しているトルストイ主義の農業共同体――の塾生で、一年前の5・15事件の際、東京の変電所を襲ったのもその塾生たちだった。警察はそのバスを止め、向きを変えさせて引きかえらせた。愛郷塾の他の11人は、東京の安宿の布団から起き、朝の汽車で大洗へと帰った。昼前、警察は黒龍会の青年運動の本部を丁重に手入れし、鉢巻、腹巻、煙草のライター、ビラ、そして、 「天皇政府確立」、「共産主義撲滅」、「国防樹立」 などと書いたのぼりを没収した。
 結局、神兵隊事件が目論んだ脅しとは、舞台裏での神々の笑いとか、ベルベットでくるまれた拳とか、紋章を付けた奇妙な道化師の顔とかといったものにすぎなかった。明治神宮で逮捕された男たちは、警察の保護観察付きで釈放され、その事件は、5年後に至るまで、起訴も、公表すらもされなかった。陰謀への資金提供者のほどんども、いずれも同じような扱いで終わった。
 スパイ機関の「赤」専門家、出版社社長の藤田は、告発が特定されないまま警察記録に挙げられたが、今後、もっとよろしく行動するようにと、ただちに釈放された。それから3年間、彼は、北進派の兵卒に紛れ込んで皇位や警察の秘密工作員として行動した。1935年と1936年の初め、リヒャルト・ゾルゲ共産党スパイの一員となった川合という反北進派の同僚に、資金、食料、住居を提供した。
 黒龍会の青年運動の指導者、鈴木善一は、黒龍会の活動家の情報を全面的に提供するという了解の下に釈放された。彼の知識は、その後2年間、有益に役立ち、政治勢力としての黒龍会を崩壊させることとなった。
 5・15事件の暗殺者の裁判においてその弁護にあたった血盟団の弁護士、天野辰夫は、満州へと脱出し、北進派の工作員から隠れ家を与えられた。その工作員は彼を毒殺しようとしたが、胃の激痛以外の効果はなくて生き残り、自ら自首して日本へと送還された。彼は逃亡しないことを誓約して釈放され、血盟団の井上教導師に会いに刑務所を訪れた。血盟団の公判は、1933年6月28日に始まった。それから6週間が経過した時、その公判が突如、中断された。井上と12人の血盟団員は被告席で立ち上がり、担当の判事を不満足と非難し、今後、公判に出廷しないと宣言した。判事は休廷を宣告し、井上の居心地のよい独房を自ら訪れ、何が問題なのかと問うた。井上は、近衛親王の党派員として、目下の危急時に公判を続けることを辞退したいと説明した。その判事
――47歳で地方裁判所への昇進を目の前にしていた――は、その説明を受け入れ、自らの判事職を辞職した。彼は、裕福な年金を手に、終身退職してしまった。公判は、1934年3月27日まで休廷となった。そしてその日、弁護人の天野弁護士が保釈され、取り立てて問題とされることもなく、愛国的宣伝のモデルともなるその公判を続けていった。(37)
 海軍〔航空隊〕司令官の山口三郎
――神兵隊の陰謀を無謀にも空から支援する役を負っていた――は、その陰謀のために実際に離陸したわけではなかったが、他の支援飛行士たちの誰よりも、厳しく取り扱われた。それから4ヶ月間、無罪放免はされていたが、警察は彼への介入を続けた。だが彼は持ち前の頑固さを表し、日本は対外進出する前に国内改造を必要とするという自分の信条を捨てることは拒否した。そして1933年11月、彼は逮捕され、12月に尋問され、1月に拷問のうえ殺された。
 相場師内藤については、祈祷集会の後、東京大学病院の患者となって入院し、債権者から身を隠した。その数ヶ月後、警察の護衛のもと、彼は 「胃ガン」 で死んだ。胃ガンとは警察の婉曲表現で、事実は、自分の腹を切ることで、債権と文書偽造罪から逃れる名誉ある方法を最終的に選ばされたということであった。


 
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