813
 「両生空間」 もくじへ
 「もくじ」へ戻る
 前回へ戻る


第十七章
北進か南進か(1933-1934)
(その4)



海軍の戦時態勢作り

 満州で、ピアニストのカスペが指の爪を一枚々々剥がれている時、東京では、海外での抑圧と国内での反対をよそに、裕仁の計画は上げ潮に乗ろうとしており、いまや彼は、かってない高揚感に満たされていた。それに、医師も産婆も、皇后良子のお腹の子は男の子に違いないと診ていた(46)。また荒木陸相は、宮中からの要請に忠誠を表し、ロシアとの戦争を煽る自分の派閥を、今の段階ではむしろなだめていた。裕仁は、葉山の別邸の海岸で、皇后良子を散歩させて、今が大事な時である彼女の身体に散歩は良くないという侍従たちと、ちょっとした口論をおこしていた(47)。十一人クラブは、東久邇親王が仙台の第2師団へと旅立つ前夜、彼のために芸者をあげた盛大な歓送会を催していた(48)
 1933年8月4日、皇后の甥、海軍軍令部長の伏見親王は、海軍に恒常的戦時態勢を備える軍規改正を支持するよう、海軍省内の同僚へ働きかけを始めた(50)。ことに、海軍軍令部の決定と命令は閣僚の海軍大臣の認証をうける必要はなく、その執務室で天皇による非公開の認証のみでよいとした。海軍大臣、陸軍大臣の荒木、西園寺のだれもが、その変更は無用のものと反対した。裕仁自身は、その変更のあらゆる意味について吟味できるよう、その検討用に完全な討議資料を一式用意するように求めた。
 一方、陸軍では、緊急事態に備え、かつ、ソ連の空軍基地はそう遠くないと国民に喚起させるため、荒木陸相は部下に空襲演習を行わせた。8月9日に開始されると憲兵が通知し、東京や他の明るく灯のともる都市には、厳しい灯火管制がしかれた。この演習は誰にとっても不便なことに違いなく、憲兵はいくつもの違反に追いまくられ、多忙をきわめた。飛行士は、皇居内にすら管制に違反した明るく輝く光を観測した。そうして、二日間の暗い夜を過ごした後、演習は何の説明もなく打ち切られた。
 8月16日、まだ海軍軍規改正の調べが続いている中、裕仁は、海軍の年次大演習の観閲のため、戦艦「比叡」に乗り込んだ(51)。彼の側近たちは、彼の行動を身近で観測し、提案中の海軍の地位の変更について、彼が好感しているのか、それとも不快でいるのか、それを見出そうとしていた。裕仁は乗艦の号笛が吹かれて以来、陽気さを表していた。彼の家臣たちは、その彼の意気の高さを伝える話を広げようと苦心していた。彼らは、その前日の裕仁と侍従長、内大臣、侍従武官長とが談話の最中、裕仁が急にデッキチェアーから立ち上がってハッチカバーの上にうつ伏せとなり、腕立て伏せを始めた、といった話を伝えた。そこで三人が急いで起立すると、彼は、 「私は自分のために運動をしています。あなた方はその必要がないのだから、どうぞ会話を続けなさい」 と言ったという。
 8月19日、帰路航海上、裕仁は、甲板上のクリケットに心底打ち込んだ。彼のチームが勝ち、最後の選手のプレーを見やりながら、彼は注釈した(52)。 「我々側はチームプレーで戦った。我々は敵のボールを打ち散らした。我々はビリヤードの手を使って、幾何学を駆使した」。 それは、彼が見てきた海軍技術と規律を気に入っているという、裕仁特有の言い方だった。それまで数年間、海軍問題へ没頭してきた後、そうして甲板上で味わう海風の感覚は、1921年、若さと冒険心を満してヨーロッパに向けて出発した時を思い出させていた。その時の陸軍を近代化し、封建的藩閥を除去する計画は実現してきていた。陸軍は、日本本土への北方からの共産化の脅威の間に緩衝地帯を置こうと勢力拡大していた。今や、南方へと目を転じ、海事問題を考慮する時が来ていた。裕仁は東京の堀に囲まれた根城の不屈の世界に戻り、彼の統治が正しい方向にむかっていることを新ためて確認していた。
 裕仁の高揚した意気は、その後の数週間に生じた海軍や裕仁の顧問たちに向けられた北進派による攻撃にも、何ら曇らされなかった。1933年8月30日の閣議において、北方のサハリン、そして、はるか南方、オランダ領ニューギニアにおいての日本人入植民の生活状況について、彼がなした 「親身な質問」 は、出席者の誰をも驚かせた(53)。侍従武官長の本庄は、自分の日記に、 「畏れおおくも、若干33歳」 の裕仁が、 「かくも広大な知識と関連する質問」 を持たれているとは、と記録している。だがその本庄の意味することとは、裕仁に、ニューギニアについてはほどほどに、彼の本国のことについて、もっと考えてもらいたい、ということであった。
 陸軍の土台でもある日本の農民は、それまでの二年間に大きな苦難を背負ってきていた。農村から、陸軍のみでなく兵器工場にも、その大事な働き手を奪われていた。ドル買いや円高をへて、あらゆる工業製品の価格は上がっていたが、米や野菜類の市場価格はそうではなく、〔農民の懐を潤してはいなかった〕。不況に陥っていたアメリカ社会は日本の絹を買うことをほぼ断念していた。そして最悪だったのは、冷害による凶作が何年も続いていたことだった。そうした状況で、荒木陸相のような陸軍政治家にとって、兵隊の士気を維持することは難しく、海軍増強への関心もはるかに乏しかった。
 来る日もくる日も本庄は、物腰柔らかくかつ根気よく、天皇の上機嫌をさまさせようと苦心していた。彼は、24歳の竹田親王と23歳の北白川親王が東京乗馬クラブの名誉会員を目指していたが、その受け入れが敬意をもって歓迎されるどころか、遅々としか進められていないことを見ぬいていた。儀礼を重んずる貴族社会の長たる木戸は、 「他の会員の態度は望ましくなく」、東久邇親王が加入して以来むしろ悪化している、とこぼしていた。そうした事情は、竹田親王や北白川親王がすでに入っている伝書鳩訓練クラブでも同様だった。(54)
 ある日、侍従武官長の本庄は、士気消耗の対策にあたる中で、満州作戦で死んだ農民兵を追悼する記念碑が建立されておらず、また、天皇が午後になると執務を離れ、相模湾のボートから海洋生物を採集したりすることは、兵卒にしてみれば、通常、無神経で軽率なことに見られることと、裕仁に苦言を呈した。裕仁は、穏やかな陽気さで、本庄を連れ出し、皇室のおんぼろな生物研究用ヨットに乗せた。そして、国益上、無意味な記念碑に使う金はないと説明し、続いて、相模湾の潮の干満についての講義に移った。そして本庄は、もし、裕仁による観測がなかったなら、海軍水路測量部はその海図を訂正しなかったし、いつか日本の船舶が相模湾の深さを誤測していただろう、と認識を新たにした。本庄は眩惑されるような天皇の広い見識と懐の深さを見せ付けられ、それを自分の上司に報告した。(55)
 9月21日、裕仁は、本庄侍従武官長に、海軍軍令部規則改定は、すべての艦隊の動きを天皇の独占的支配下に置くとするもので、その概略を除き、少なくとも一般には公開をしないようにと示唆した(56)。四日後、裕仁はその新規則を、明瞭に規定しかつ簡明に書き表すこと、との条件を付けて承認した。裕仁は、自分の決定にともなう苦労を、本庄には次のように説明した。


南進の決定

 海軍の新たな地位は、次期予算に海軍への配分拡大と、国の南進政策への閣僚による公式承認を含む政策の一環だった。提起されたロシアを第一の敵とする陸軍の構想は、完全に棚上げされた。荒木陸相は、数ヶ月にわたる微妙で決定性を欠く工作を続けてきたが、その構想が銘記されるまでには至らなかった。そして、1933年10月までに、他の閣僚は裕仁の期待に降伏し、荒木陸相はただ時間稼ぎに奔走するしかなかった。(58)
 10月11日、閣僚三者会議において、外務大臣は陸海軍両大臣に、望み薄げに肩をすぼめ、 「我々は出来る限り外交策で拡大を図るが、その後は、両大臣にお願いするしかない」 と宣言した。その三日後、大兄の木戸が、西園寺と由緒ある藤原家系出身の近衛親王との間のよりをもどそうと興津を訪れた際、老西園寺は遂に、辞任の意向を明らかにした。
  「完璧な軍部独裁と我が立憲制度の存続との間に、中間の道はありえない。もし、近衛が前者とねんごろになるつもりなら、私は過去の人間として、姿を隠すべきだ」、と西園寺は語った。(59)
 翌、10月15日、裕仁の大兄たち
――皆が四十代となっていた――は、登高の宴と称して、鎌倉の海を見下ろす近衛の別荘に集い、五時間にわたって話し合った。(60)
 五日後の1933年10月20日、各大臣は自分の判を裕仁の計画に押印した。彼らは、 「すみやかな外交をへて、・・・できる限り迅速に軍事的強化を構築し、・・・我々の国際的目標を実現するため、全省的、全国的に協力する」、と公式に合意していた。(61)


裁かれる愛国者

 こうした方向へとすべての足並みがそろう一方、犬養暗殺犯や5・15事件はまだ公判中であり、新聞紙上をにぎわしていた。だが、そうした裁判は、その被告の大半が不満分子である北進派の党派員であったため、潜在的には危険性をひめていた。彼らの多くは、北進派指導者荒木陸相を、1932年のクーデタに、それがでっち上げと知った後も彼らを決起するよう説いてたがゆえに、もはや信頼してはいなかった。用いられた方法によって混乱させられた彼らは、今では、皇位に忠誠な、少なくとも金で動く、警察の手先によって完璧に操られた役割を演ずることを受け入れていた(62)。荒木には信じられないことだったが、被告たちは、その長い裁判の日々をへる中で、彼らの資金提供者にも、ましてや、牧野内大臣や荒木自身にも、罪を負わせなかった。加えて、荒木の目にはいっそう信じられなかったことに、被告たちは、国家改造を求める国民の願望と、裕仁がそれにまったく関心を示していないことに、長々として演説を繰り返していることだった。
 犬養暗殺を手伝った第11期士官候補生らに対する陸軍軍法会議は、1933年7月25日に開始され、9月19日に終わった(63)。判事は彼らに見解を表すあらゆる機会を与え、候補生らは、日本は特別な国で、皇位は国のために存在しているのではなく、国が皇位のために存在しているとの主張を展開した。その新米陸軍士官のひとりはこう述べ立てた。 「我々は、天皇による直接統治を要求する。今日の人々の関心は万人の権利という輸入された利己的思想にある。だがそれは誤っている。普通選挙権や国民への社会的、政治的権利の授与は、途方もない誤りである。」
 霞ヶ浦のより上位の十人の航空士官に対する海軍軍法会議は、1933年7月24日に始まり、11月9日に終わった(64)。彼らの首謀者、古賀中尉は、法廷でこう主張した。 「この国の条件は、流血なくしては改善できないものだ」。また彼の助手、三上少尉は 「我が革命は、統治者と国民との間に調和をもたらすことにある。・・・我々が天皇の直接統治の樹立を目標とするように、我々は、右翼でも左翼でもない」、と述べた。他の少尉の一人は、 「私の生涯の望みは、天皇と臣民が一体となるとの原則が打ちたれられたその時に成就する」、と語った。犬養首相に最初の弾を撃ち込んだ海軍予備役少尉は、やや後悔気味に、 「彼が国家改造の殿堂で犠牲にならなければならなかったように、彼の死は気の毒であったが、避けられぬことだった」、と述べた。
 民間人である20人の愛郷塾門下生の公判は、9月26日に始められ、翌年の2月3日まで続けられた(65)。愛郷塾のトルストイ主義指導者、橘は、自らを説明する六日間にもおよぶ長広舌を許された。彼はその熱弁の中でこう述べた。 「この国は、農村を基礎に立脚されねばならず・・・、日本は、債務国でありながら、東京や他の都市は年々成長している。この強さはどこからやってくるのか。もし、農村が都市を支える負担から解放されれば、日本の国家力が増すのは明瞭である。一撃で、我々は米国の影響を太平洋から追放でき、中国を軍閥のくびきから解放し、インドを自由にし、そしてドイツの興隆を再び可能としうる。・・・資本主義を平和な世界から追放するため、人々は資本主義に反対して戦わなければならない。アジアの防衛は貫徹されなければならず、・・・日本人は、農村社会のすべての男が前線へゆき、その後を女が埋めることに備えなければならない。」
 教導師井上や彼の血盟団の12人の弟子たちといった、他の民間人の公判が1934年3月26日に再召集された時、主張すべき点はほとんど残されていなかった(66)。教導師井上は謙遜してこう述べた。 「日本の政党政治は、特権階級の政治である。ドイツでは、右派の政治家は、神に仕える政治家だ。政党政治は正されるべきで、天皇が最終的な決定を下すべきだ。・・・私は将来の社会について考えてはいるが、それほど重要なことを学んだことも、自分一人で決定できるわけもない」。
 こうした独特な日本的論客に、日本の人々はおおむね好感を抱いた。特に、農業やその宗教的精神から発する強さという思想は、広く反響を呼んだ。愛郷塾生たちに寛大なはからいを求める運動は、35万7千の愛国者たちの署名を集めた(67)。さらに、法廷に立つ士官たちには、同様な主旨の11万通の手紙が寄せられた。新潟市の9人の男は、荒木陸相のもとに、自分たちの小指を切り落とし、アルコール漬けにして、次のような手紙とともに送ってきた。 「被告たちは法を犯したが、その動機は純粋だ。我々は、彼らの自己犠牲の精神に大きく関心させられた」。大阪弁護士会は、暗殺犯たちは、もっとも深い意味で、ただ自己防衛を働いたにすぎないと宣言する決議を採択した。
 1933年9月19日、陸軍の士官候補生たちの公判は、投獄4年を判決して閉廷し、1935年の新年祝賀中に、品行良好ということで釈放された(68)。そして彼らは、刑務所の門前で9台のリムジンに迎えられ、表敬のために皇居の二重橋へ向かった。霞ヶ浦の海軍航空隊士官たちは、1933年11月9日、5年から15年の判決を受け、首謀者たちのみが、最大数ヶ月のみの服役を果たした。愛郷塾生たちは、1933年2月3日に判決をうけたが、危険なほどに緻密な指導者、橘を除いて、2月17日、裕仁によって全員が自由の身となった。血盟団員たちには、1934年11月に判決が下り、教導師井上と実際に引金を引いた二人を除き、全員が1935年初めに恩赦された。(69)


皇太子の誕生

 荒木によるか、それとも裕仁によるか、いずれかのひと言によって、それぞれの公判は、北進派と南進派の間の罪の押し付け合いの場へと変じたかも知れない。だがそうはならず、荒木が驚きをもって見守っている数ヶ月間に、それらの裁判は、完璧に規律が保たれた弁舌によって運ばれて行った。荒木が望んでいたことは、法廷の被告たちによって表現された農家や労働者の惨状についての不満が、新聞編集者や街頭運動家によって取り上げられ、裕仁の政策全般に対する反発へと転じて行くことだった(70)。しかし、1933年12月23日、皇后良子がもう一人の子――待望の男子、明仁皇太子――を生んだ時、荒木の希望は潰えることとなった。
 先の1931年の出産で厚子内親王が誕生した時、裕仁は不満で、庭園に出てコケの標本を採取していた(71)。だが今回は、侍従長の鈴木貫太郎大将が皇室図書館の裕仁の西洋式の書斎に駆け込み、縁起の良さを告げる大きな鳥のように、その着物の袖を羽ばたいてみせ、そして叫んだ。
  「男の子でございます。私は自分で男子たる印を見ました」。(72)
  裕仁は、軍服のしわを残したまま自分の簡素な子机から立ち上がり、深く息をつき、そしてほほ笑んで、その日に訪れるだろう祝福者のために、シャンペンを用意するように命じた。西園寺のスパイ秘書原田は、電話で知らされてやってきて、グラス数杯を空け、ほろ酔い気分で本庄侍従長に、貴殿が陸軍に 「天皇の賢明さ」 を理解させ信じさせたことを誰もがどれほど感謝していることか、と語った。節度を外さない木戸は自分の日記にこう記録した。 「かくして遂に、最大の問題が落着した」(73)
 この祝福された出来事の最も重要な意味は、二日後のクリスマスの日、政友会と反政友会の両政党が、過去の違いを清算し、 「国家のために」 純正な 「相互融和集会」 を持ったことだった(74)。皇太子の誕生は皇位の影響力と国民の感情的共感とを融合させ、この1933年12月25日に、両政党が、皇位に反対する何ものもないことを友好的に合意したのであった。12月31日には、東久邇親王が仙台の司令部から上京して皇居を訪れ、新生皇太子を表敬訪問するとともに、 「荒木が辞める時がきた」 と表明した(75)
 荒木はその後継者に、少なくとも自派の者を指名させようと、以後二週間にわたって苦い戦いを繰り広げた。1月3日、大兄の木戸と秘書の原田は老西園寺を尋ねたが、使命を果たし切った彼を見るのみだった(76)
 三羽烏の一番手、永田少将は、東京郊外の第一旅団司令部に幕僚を非公式に招集し、 「第一に中国を組織し、第二に日本を改造する」 政策についての資料作成作業を再開した(77)
 1月7日、鎌倉の近衛親王の別荘に、木戸侯爵、顔の広い鈴木、それに他の大兄たちが、人目につかないように自前の車で集まった(78)。荒木がどのように考えようと、次期陸相は、陸・海軍関係者を操れる中国との友好を唱導する軍人でなければならないことに皆同意した。特に、松井石根大将
――後に 「南京虐殺」 の犠牲にさせられた――は、林銑十郎――1931年、公式命令を受け取る前に朝鮮から満州に忠実に部隊を移動させた――といった大将にもっとも率いられやすい、という結論となった。
 裕仁は、荒木の道義心と面子に免じて、一つの妥協をはかった。すなわち、荒木と近衛の政治的利益のために、犬養首相を暗殺した5・15事件を巧妙に流産させた民間人参加者に恩赦を宣言することに同意した(79)。そしてこの恩赦は、皇太子誕生の際の天皇の寛大さの印として国民に与えられた。
 斉藤首相は裕仁に、 「盗み、殺人、そして不敬罪を働いた者は除外しますが、この恩赦は、血盟団と5・15の者たちへの判決の減刑をもたらすものです」、と説明している。(80)
 裕仁はこの釈明に、 「法律の威厳は保たなければならないが、その範囲内であれば、恩赦は許容されうると思います」 、と返答している。
 この恩赦は、荒木に、内閣総辞職を回避できる名誉と安堵をもたらした。それはまた、5・15事件がゆえに投獄された配下の者たちへの彼の個人的言質を満足させるものでもあった。そして自身の辞職はいまや、国家改造と北進を信奉する者たちへの彼の公的言質を満たすものとなろうとしていた。
 そうした結果、翌1月16日、荒木は、肺炎との発表をもって陸軍病院に入院し、そのベッド脇に自派の将官、佐官、尉官を一人ひとり呼び、医師の薦めによるとして、ふさわしい後任があるなら辞任したいとの意を表した(81)。それから5日間、彼は、真崎大将
――ぶっきらぼうだが正直な部下で、前参謀次長――を自分の後任にすえようと苦心した。しかし、裕仁は、真崎は人格上の問題があるとの見解だった。さらに、68歳の陸軍一般参謀総長の閑院親王――80年前、ペリー来航の際、孝明天皇の顧問を務めた朝彦親王の最後の存命兄弟――がにわかに登場し、真崎に反対する役を果たした。
 1934年1月22日、荒木は陸軍大臣を辞任し、彼の忠臣、真崎大将は、陸軍教育総監という、名目的重要性はありながら影響力の少ない地位に就いた。神兵隊事件も同じ穴の狢と化した。1936年の国際的情勢に適合すべき北進論という戦略的構想も、天皇の難色をかって、雲散霧消しようとしていた。国民はかくして、二年間にわたる平和ながら熱狂的な献身に突き進んでゆくこととなる。国民大衆は、疑うことを押し殺し、農民や兵士は義憤をもって労役に励んだが、陸軍将官の大半は、荒木の影響が完全に消え去るまで、自陣に引っ込んで次の動向をうかがうこととなった。


ゼロ戦 (82)

 晴れて南進に心置きなく準備できるようになって、裕仁はまず、優秀な海軍機を作ることに取り組んだ。それまで、日本で製造される進んだ軍用機は、ほとんど輸入された部品に頼って、レーシングカーを作るように、一機づつ手作りで組み立てられていた。荒木の辞任が避けられなくなっていた1934年1月、11人クラブのメンバーたちは、航空力の欧米製部品への依頼から自立するよう、それぞれに努力を傾け、日本独自の必要に適合するよう、国内で設計した日本製航空機を開発しようとしていた。1月12日、そして2月9、13両日、東久邇親王、大兄の木戸、そしてスパイ秘書の原田が、陸軍、海軍、東京帝国大学の共同による航空研究所を設立するため、それぞれ、航空機工場の幹部、および両軍の航空隊司令部の将官と会った。数ヵ月後、木戸の弟で航空技師の和田小六(チャールズ・リンドバーグ大佐の友人)、および、77歳の物理学教授の田中館愛橘(天皇の航空学の講師)の指揮のもとで、航空研究所は設立された。同研究所は、まず、英国ソップウィズ社の有能な設計家、ハーバート・スミスを雇った(83)。スミスは、第一次大戦中に活躍したソップウィズ・キャメル戦闘機――安定性を欠くが操縦性能が良い――で、その名声を博していた。その一年後、スミスと三菱のチームの協力をえて、同研究所の専門家たちは、卓越した日本製戦闘機の試験飛行にこぎつけた。この戦闘機、A5Mこそ、有名なゼロ戦の原型機で、二次大戦勃発後の数ヶ月、連合軍のホークやバッファロー戦闘機の操縦士を恐れさせることとなった。


農民の窮状(84)

 1934年2月8日、侍従武官長本庄は天皇裕仁に、北進派はいまだ健在であり、陸軍内での政治的不安定要素となっていると進言を試みた。裕仁はそれに答えて、命令順守を誓った陸軍軍人――ことに天皇の直接統治を信条としている派閥の者たち――が、どうして不安定の原因となり、政治的関心を持つと考えるのかと尋ねた。本庄はその問いに、各々の将官が政治的関心を持つのは望ましいことで、部下の農民出身兵士に政治的道義と愛国心を教え込むことは彼の任務である、と答えた。
 裕仁は、本庄との会話が、農民たちの窮状についての報告へと向かおうとしているかを直ちに理解した。その年は、農民にとって災難の年だった(85)。日本の北部地方は、陸軍にもっとも頑強な兵士を供給し、歴史上も最悪の飢饉のひとつを体験していた。そうした農民には、娘を売るという、19世紀の旧態依然とした方法まで蔓延していた。1932年に、東北地方の農民の娘が東京の労務手配師の手に渡った数は12,108件で、それが1933年にはその4倍を超えて58,173件に跳ね上がった。その内、19,244件は女中奉公、17,260件は女工、5,952件は酒場女給、5,729件は雑用、4,512件は公認の売春婦、3,271件はキャバレー・ホステス、そしてわずか2,196件が芸者見習いという中でも比較的立派な職種、といったそれぞれの契約だった。裕仁は打撃を受けた農村地帯に調査のために侍従を送り、慰めの言葉を与えさせた(86)。彼はまた、三井財閥に圧力をかけさせ、土地をなくした農民に再教育訓練を行う慈善資金、1千万ドル
〔現在価値で約五百億円〕を用意させた(87)。しかし、彼は、農民の苦境を軽減するために、自分が行う、あるいは、政府が行う物的支援は何も行わなかった。
  「将官たち、ことに兵卒に近い下士官たちは、困窮する農村の状況に憂慮と同情を感じないではいられない。その一方、もしそのようにして、彼らの関心が行き過ぎれば、それはまた有害である」、と裕仁は本庄に語った。
 本庄は、 「私は、彼らが政治活動に関わるべきとか、何らの関心を持つべきと申し上げているのではありません。彼らは、自らに課された責務の一線を越えた関心を持つまでにはいたるべきではありません」 と返答した。
 それに対して述べられた裕仁の返答は次のようであった。 「誰も、農村の悲惨な状態には自ずから同情させられるものであるが、農民は楽天地に自らの楽しみを持っており、高貴な者は常に比類なく幸福であると言うべきでない。たとえば、ヨーロッパを訪問した際、そこで見た自由というものが、私には大きな違いと見えた。私がそれを楽しめる限り、私はもっとも心地よくなれた。前天皇を語ることははばかられるが、私は、父がまだ皇太子の時、彼は極めて活発で、健康で、そして、伯母の別荘を訪ねる度に、彼は伸びのびと快活さを表していたことを思い出す。だが皇位に着くと、彼にとってすべてが狭く、窮屈なものとなった。彼の身体はもともと弱かったので、彼はついに病気となった。私にとってそれは、見るのもまことに畏れ多いものであった。この実例に照らして、農民は自分たちの生活やその苦難についてことに語るべきではなく、自分たちを取り囲む自然の楽しみについてむしろ傾注すべきである。要するに、農民を導くにあたっては、人は道義的努力によるべきであり、自らの立場の法律や論理のみを純粋に考えてはならないことが強調されるべきである。」
  「大きな畏敬とおののき」を天皇の英知の言葉より感じながらも、本庄は、自分の見解として、極めて貧しい場合、物的条件への配慮が、国の道徳的規範という意味では見落とされてはならない、と裕仁に意見を述べた。


 
つづき
 「両生空間」 もくじへ
 「もくじ」へ戻る
  
                Copyright(C), 2012, Hajime Matsuzaki  この文書、画像の無断使用は厳禁いたします