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第十八章
機関か神か (1934-1935)

(その2)



見せかけの制限

 一ヵ月後の 8月24日、裕仁は個人的に、海軍大臣に対し、軍縮会議に山本を同行させるよう自分は望んでいるとの旨の指示を与えた(103)9月6日、裕仁は、会議代表団が内閣に提出した案をその通り許可した(104)。内閣を通ったその最終計画案を、9月11日、裕仁は裁可した。
 その一週間後、山本は自らの使命を果たしに出発した。その会議は、再びロンドンで開催され、山本は再度、アメリカを経由してロンドンに向かった。太平洋の横断の際には、山本は船室に留まり、ポーカをして時を過ごした。大陸を横断の際は、列車の個室に鍵をかけてこもった。その頃ビリー・ミッチェル大将は、アメリカ合衆国が日本に対する最終的準備として空軍力を備えることを要求の筆頭に挙げようとしていた。新聞記者たちは山本の随行員に、しつこく記者会見を開くように求めた。山本は唯一度、記者会見をもった。 「私は決して、アメリカを仮想敵国だとは考えたことはなく、日本の海軍計画は、日米戦争の可能性を含めたものではない」と日本語で語った。アメリカの各新聞の社説は、山本の物静かで好ましい態度をほめたたえ、ミッチェル大将を誇大警戒にとらわれていると決め付けた。山本は、英語が不自由との理由で、それ以上見解を表すことを拒み、そのハーバード卒業生は、ベレンガリア号で英国へと向かった。サザンプトンに到着した日、彼は突然に記者会見を開き、英国の新聞記者に、特ダネ記事を提供した。そして、米国東部なまりの上等な英語で、 「日本は今後、比例方式に甘んじる積りはない。その点について、日本政府による譲歩の可能性はない」、と表明した。(105)
 それと同じ日の1934年10月16日、東京で裕仁は、「交渉のもっとも早い有効な段階で」 交渉破棄を宣言し、交渉を打ち切るようにと指示を与える山本への電報に承認を与えた(106)。日本がすでに建造中の艦船の完成が合法と解釈されるには、その破棄は12月31日までに表明されなければならなかったので、その通告の期日は重要だった。11月いっぱい、山本は天皇よりの全権委任を胸中に秘め、その使命に真剣かつ最大限の努力を傾けた。英国海軍本部委員のチャットフィールド海軍大将は、日本が会議を破綻させる責任を避け、米国代表にそれを仕向け妥協を引き出そうとしていることに気付いていた。米国代表たちは、アメリカの海軍が二つの大洋に分割されているがゆえ、日本と同等の総艦船数を受け入れることはできないと主張した。山本は完全な同等を主張した。彼は夕食会の際にこう述べた。 「私は貴殿より小さな男だが、貴殿は私が五分の三の量の食事にせよとは主張されまい。貴殿は私に、必要なだけ食べることを許すだろう。」(107)
 12月初め、遂に時間が尽きかけた時、山本は航空母艦を破棄するとの劇的な提案を行った。チャットフィールド海軍大将は米国代表に探りを入れ、もし、全主要艦船を廃棄するなら、同等を議論してもよいと望んでいることをつかんだ。誠意の表明として、米国代表は帰国期日をキャンセルし、数週間の討議のために、無期限にロンドンに滞在することを提案した。英国は、日本の平和主義と競い合って、駆逐艦総トン数の三分の一の断念を提案した。ポーカーフェイスの山本は、彼のはったりが功を奏しているのを見て取った。もし、欧米諸国が主要戦艦の削減に同意するなら、彼らはそれで浮いた海軍財源を新型兵器――一人乗り潜水艦や急降下魚雷攻撃機――に使い始めるかもしれず、それは山本にとって将来へ向けた勝利であった。そこで判断を求め、山本は宮中よりの顧問であり同行していた裕仁の弟の秩父親王の義父に、さらなる指示を仰ぐよう、本国との連絡を依頼した。
 裕仁との協議の後、岡田首相は、山本の問い合わせに、長々としたとりとめのない返事をよこし、国内政治は 「極めて良好に維持」 されており、しかるがゆえ、英国の平和攻勢にあたって、本国内での反響の考慮の必要はない、との知らせであった。山本はこの返事を丸一日かけて熟考し、そして、新たな態度と技術的詳細への急ごしらえの観点をたずさえて、会議の席にもどった。それに対し、米国代表は、12月29日に出航する船による帰国を予約するという返答を示した。
 米国代表の帰国期日は、やっかいな問題となった。山本は、自分の提案の手前、米国の相手との面と向かった交渉があるかもしれず、〔その段階での〕制限条約の廃棄の表明はしたくなかった。そうではあるが、その廃棄は、12月31日までに表さなければならなかった。山本は本国に、廃棄の通告は、最後のぎりぎりまで伸ばしたいと打電した。海軍大臣は、宮中、およびワシントンの日本大使と協議のうえ、廃棄はアメリカの新年休暇が始まる12月29日、土曜日の数分前に国務省に通告することに同意した。その計画は絶妙なタイミングの成功をおさめた。米国国務省は、その廃棄通告を、オフィスが閉まる前に受け取り、一方山本は、ワシントンからのその連絡のないまま出航する米国代表団をサザンプトンで見送った。それは間一髪のタイミングだったが、それが7年後に再び用いられた――日本が山本による真珠湾攻撃の際の宣戦布告を、外交技法上の礼儀をみたして数秒前にしようとした――時は、不成功に終わることとなる。(108)



国内統制

 山本の海軍力制限の放棄――自己本位なアメリカをすら自国の海軍艦船の制限に失敗させるほどであった駆け引き――の間、宮廷にこもった天皇裕仁は、北進派系の陸軍兵卒を抑える新たな方策を練っていた。彼は、新たな海軍大臣に、寺内寿一中将――内大臣秘書で大兄の木戸侯爵の親戚――をすえた。寺内は明治天皇の寡頭将軍の一人の息子で、南進論の熱心な信奉者であり、後の太平洋戦争時には南方軍総司令官となる。
 1934年の夏、寺内は陸軍将校団の中に厳格な軍紀を旨とする派閥を設立し、それは清軍派として知られた(109)。この運動は、政治には不介入、命令への絶対服従のために戦うとした。1934年8月、山本がロンドンでの海軍力制限のための指示を仰いでいる時、裕仁は、北進派の影響を主要部署や駐屯前哨地から徹底して排除する、一連の夏季配置異動を許可した。と同時に裕仁は、清軍運動の指導者寺内を台湾に派遣し、その地での南進準備の組織化に当たらせた。寺内はその使命へ出発するに当たり、同志たちに次のように述べた。 「陸軍の問題は、すべき問題が気付かれずに残されたままであることだ。」
 二ヵ月後の1934年10月1日から10月18日まで、陸軍の長老である元帥梨本親王が(110)、台湾の寺内の司令部を訪ねた。そして、その地に極秘の諜報機関を設立する計画に許可を与え、主に民間人からその職員を採用し、日本人の商用旅行者や、マラヤ、ルソン、ジャワ、その他の南方拠点への移住者から情報を集めた。当組織は、後に、 「南方運動協会」 との名の下で、国会で議決された予算から公的に資金提供されるようになった。1940年末、マラヤやフィリピン侵攻の作戦計画を練った幕僚は、この組織から地図や情報の提供を受けた。
 ロンドンの山本や台湾の寺内の骨折りに合わせて、1934年9月、裕仁は満州の再構築に乗り出した(111)。この満州国再建計画は、天皇に忠誠を誓う組織――憲兵――の管轄下で、すでに満州に持ち込まれ実行されている悪慣行を、公認化するものであった。バーデン・バーデンの三羽烏の筆頭、永田鉄山少将は、その再建計画案に反対するため、北進派の人たちと共に行動して彼の友人たちを驚かせた。永田は――いかにも断固として――、もし満州が帝国の一部であり、単に見せかけの自治緩衝地域とする積りでないならば、それは正式に併合され、まともな統治が施されるべきであると主張した。だが永田の主張は失敗に終わり、裕仁の特務集団のメンバーは、永田が脅迫によって強制的に行動させられたものと彼を擁護した。つまり、1931年の三月事件のために永田が書き上げた計画――作り物にすぎなかった――を、辞任した荒木陸相が所有しており、それがゆえに永田は従がわざるをえなかった、とうものだった。したがって、彼が政治的に、あるいは良心の呵責がゆえに満州再建計画に反対したのかどうかは疑問であった。裕仁自身は、その事実については判断がつかず、それ以降、永田には用心して接するようになった。
 満州国再建案が難関を通過すると間もなく、陸軍省新聞班は、前班長の鈴木貞一によって手掛けられた作業を完成させ、1934年10月1日、 『国防の本義とその強化の提唱と題した冊子としてそれを出版した(112)。公刊に先立つ案内版には意見や反論を求めた返信用葉書が添えられ、宮中の侍従武官を含む陸軍省官僚のすべての高官に送付された。裕仁は、その文面にひと通り目をとおし、以前以上にそれを推しした。
 この冊子はこう書き出されていた―― 「戦争は創造の父であり、文化の母である」。この文句はイタリアのローマに駐在していた宮中侍従武官が持ち帰った、ムッソリーニによるものである。この冊子は、そのスローガン 「総力戦への国防」 とは、荒木のスローガンである 「1936年危機」 とどう異なっているのかを詳しく説明していた。曰く、日本は、地の利をもった未発達な小国である。もし、日本がアジアの優位に立つべきであるなら、国民生活のあらゆる局面は、日々の新聞記事次元から大企業次元まで、 「国防規範」 の下に置かれなければならない。すべての国民は、自らの西洋式個人主義を排斥し、きたるべき栄光の
終末戦争に一致邁進しなければならない。
 言うまでもなく、産業界の首脳はこの表明に啓発される一方、林陸相は11月14日の軍産懇親会において、国防体制の建設は一歩々々おこなわれ、かつ、産業界の既得権が軽視されることのないことを、彼自ら確約しなければならなかった(113)


大演習の誤算

 1934年11月10日、裕仁は陸軍年次大演習に参加するため、険しい群馬県山岳地帯に出かけた。すべてが順調であるかに見受けられ、陸軍での粛清も海軍の構築計画も、いずれも完了しているかのようだった。裕仁は近衛師団長――後の南京強奪に当たる彼の叔父の朝香中将――と共に露営して、師団に敬意を表した(114)
 しかし、北進派は、予期せぬ奇策を用意していた。この大演習は、満州を仮想して、ロシア軍の侵攻に日本軍がいかに反撃を加えるかを想定したものだった。ところがこれが、失敗に終わった。というのは、前陸相荒木大将と三羽烏の二番手で優秀な異端者小畑少将に率いられた 「西軍」 が、その一大見せ場の初日において、筋書きを完全に書き換え、実力を伴った進軍をもって、その始めから 「東軍」 を圧倒してしまった。それに続く二日間、東軍の貴族将軍阿部信之は裏をかかれ通しで、荒木と小畑による模擬ロシア軍に敗退させられた。演習の終幕では、安部の東軍は散りぢりとなり粉砕されていた。かくして北進派は、最も重要な使命である戦場における戦闘に勝利していた。裕仁は、貴族将軍たちのもたらす助言が何ほどのものであるかを覚り、そして将兵たちは、ロシアに対する準備がその程度である確かな証拠を得てしまったのであった。(115)
 大演習での北進派の勝利の後の11月15日、数人の若手将校が林陸相邸に押し入って一人の側近を捕らえ、もし国家戦略の方向転換が計られないなら、日本で本物の軍事クーデタが起こると警告した。その騒動を起こした者たちは、荒木の北進派の分派に属し、北進であろうと南進であろうと、海外進攻の前に、国家改造がなされなければならないと信奉していた。そのうちの幾人かは、1932年5月の犬養首相暗殺の後、計画された5・15クーデタを荒木陸相が流産させることを阻止しようと、陸軍大臣公邸に集合した者らであった。1934年の今、再び彼らは幾らか穏やかにだが同じ場にやって来ていた。しかし彼らには何らの処罰も科されなかった。というのは、1931年と1932年の策謀について、公言されているより遥かに詳しく、彼らが知っているからであった。
 その翌日の11月16日、北進派のこうした策略が引き起こした緊張は、ある 「痛ましい事件」――その山岳地での演習の直後、裕仁が長野県の二つの学校を公式視察中に発生した――を誘発した。その視察では、まず、裕仁は長野中学を訪問し、次に、長野高等工業学校を訪れることになっていた。その途上、天皇の騎馬行進を先導していた警護警官がうっかりして道順を間違え、先に工業学校へと案内してしまった。その学校幹部は、まだ準備が整っておらずに当惑し、かつ、出迎えるべき松田文部大臣もそこにはいなかった。裕仁はその手違いに見るからに困った様子を表し、その数分後には、先導を果たしていたその警官は自殺を図ってしまった。そこで天皇は急遽、周囲に聞こえるような声でこう言った。 「予定を変えたのですか。それは構わないのですが、学校は困っているでしょう」。(116)
  「何という寛大なお心」 と、本庄侍従長はその日記に記している。
# 1


士官学校事件(118)

 裕仁が大演習から東京に戻って少々たった1934年11月20日、陸軍士官学校での策謀が明るみに出た。それは、北進派の全体、ことに、その五日前、陸相邸に押し入った若手国家改造主義者への信頼を、大きくそこなわせる結果となった。
 その策謀というのは、山下奉文
〔 ともゆき〕少将――天才的戦略的家で、後の1942年、 「マレーの虎」 と呼ばれて、難攻不落と見られていたシンガポールの英国要塞を攻略した――によって宮廷に通報されたものだった。山下は、裕仁の侍従武官より、北進派の中に秘密の情報網を作るように命じられ、8月以来、配置に着いていた。その山下の工作員の一人が、辻政信という 31歳の大尉で、彼は後のシンガポール作戦の際、山下に主任参謀として仕えることとなる。明晰、怪奇、多彩かつ極めて厳格な辻は、日中戦争の際には、上海でのある夜、火のついた薪を手に街に出て、日本の将兵は立ち入り禁止の売春宿に火を放って焼き払い、その名をはせることとなる。1945年の終戦時は、彼は仏僧の衣をまとって、ビルマから 「隠れた」 帰国を果たす。1949年、東京において著者として再び姿を現し、1952年には国会議員に選ばれるが、1958年、彼が55歳の時、米国がベトナムに関わり始めた際、ハノイでその足跡を絶ってしまう。
 マレーの虎こと山下少将は、幹部候補生中の異端な一団のために、辻大尉を倫理の講師として士官学校に送り込んだ。辻は、その任務にあって、候補生の何人かが士官団の中の若い国家改造主義者――繰り返し陸相邸に押し入っていた――と連絡をとっていることをつかんだ。その若手改造主義者は、裕仁の眼を開かせ、 「国家の刷新」 を促す武装蜂起に加わるよう、実際に、候補生たちに働きかけていた。倫理講師の辻大尉は、自分の受け持ち生たちを、その計画に加担しないように説き伏せていた。辻は候補生たちに、彼らがすでに幾度かの虚偽クーデタに加わり、しかも何ごとも達成していない、ただの口先だけの者たちによって煽動されている一味だ、と警告した。
 辻は、教導役を果たしながら、候補生をそそのかしている一人の将校が陸軍大学の特別生で、三羽烏の二番手の小畑少将――陸軍の大演習で、誰をも困惑させた見事な計画を立てていた――と繋がっていることをつかんだ。これは重要な情報で、北進派の最上級将校が、士官学校で反政府的煽動にかかわっていることを意味していた。辻は、山下中将の求めに応じ、この情報を、親しい隣人で憲兵の一人に通報した。この偶然の相手が塚本誠大尉で、後の1945年8月14日の夜、宮廷内の偽クーデタの見張り役となる。
 そこで倫理講師辻と憲兵塚本は、11月20日の午前2時、彼らの情報を伝えるために陸軍大臣次官の公邸を訪ね、就寝中の彼を起こした。次官の橋本虎之介中将は、北進派に属したが、金がものを言う類の一人だった。彼は、1932年8月から1933年8月まで、満州の憲兵隊司令官で、拝金家として知られていた。辻と塚本は、東京を占拠する叛乱計画――参謀将官でありかつ荒木大将に従う若く狂信的な改造主義者たちによって無垢な候補生に提案されている計画――をその彼に明かした。数時間わたる協議の後、橋本次官はようやく、その策謀の首謀者三人を、今後三ヶ月、彼らの宿舎内に拘禁しておくことに同意した。
 首謀活動家らが拘禁されたその三ヶ月の間、取り沙汰されていた北進派のその叛乱計画は東京中に言いふらされ、北進派を事実上分裂させ、同派が大演習の際に獲得したような影響力へと成長することを防くことに役立った。その計画は、少なくとも部分的には、辻と塚本が捏造した偽物だった。しかし、それへの非難をあびせられた若い北進派の改造主義者たちは、最後には、それを自分たちの手になるものとして受け入れざるをえなかった。そして、一年余りの後に彼らが叛乱に決起した時、彼らはこの計画に書かれた通りに、連隊別あるいは中隊別の編成を採ることとなる。
 またその計画には、暗殺されるにふさわしい十数名の宮廷顧問らの名を挙げた、耳目を引くリストが含まれていた。15ヶ月後のその事件発生の際には、そのリストにある札付き者らのほどんどは無傷のままに逃げおおせたが、この1934年11月からその1936年2月までの間、日本の影響力ある人物たちは誰しも、高まる緊迫と策謀が交錯する、危険な綱を渡ってゆかねばならなかった。


蒋介石に背

 士官学校事件の首謀者たちが宿舎に拘禁されている間、裕仁は、あらゆる反対を押し切って、事を前に進めた。1934年12月7日――真珠湾の7年前、そして、蒋介石の最後の東京訪問の7年後――、裕仁は、蒋が古典的中国を統一しようとし、かつ、日本が先の蒋・孫文との交渉で協定した満州と蒙古の外中国地方以上を射程とする限り、もはや味方することをやめ、蒋に背を向ける決断を固めた。ことに、その冬の晴れた金曜日に、裕仁は次のような閣議決定を承認した。 「現時点においては、北中国における政権への南京政府の影響を最小化することが望まれる」(119)。そして数日後、外務大臣は西園寺に、来春、北中国での武力行使が予想されると知らせた(120)
 日本の穏健派は、普段の慎重な方法で、裕仁の決断への不承認を表した。例えば、12月30日、一年半前の東久邇親王の神兵隊事件のため、明治神宮に集合した参拝者の予審聴取を行っていた最高裁判事は、西園寺のスパイ秘書の原田のところに取り乱した様子でやってきて、その事件を公判にのせるのは全く困難であると苦言をていした。彼曰く、 「なぜ、天皇親族の名・・・、東久邇親王ばかりでなく秩父親王や伏見親王が、こうも度々登場するのか」。(121)
 裕仁のこうした攻勢への最も効果的な反対は、政友会の政治家が国会において異議を唱えたことであった。一方、1934年の12月から翌年の2月まで、裕仁の政治工作者たちは、過去前例のないもっとも長い予算獲得工作の戦いを繰り広げていた。さらに政友会と北進派は、海軍増強計画を座礁させようと、その資金を、国内の飢饉や台風被害の救済のために当てさせようと試みていた。牧野内大臣の手下たちが金で動く政友会政治家を買収ないし強要していた時においても、その多くは篭絡されなかった。だが、政友会が数々の誘導で分裂に至った時、遂に、それぞれの半分が同じレストランの違った階で集会を持つこととなった。両者は日本刀やピストルで武装していたが、夜になって酒がすすむに応じ、上下の階の両派は互いに行き来するようになり、一度の発砲もなく、妥協点をみつけるに至った。こうして予算は再び通されることとなったが、米作地帯の飢饉や台風被害者には、ひとかけらの救済も考慮されていなかった。(122)


国体原理

 予算獲得論争と改造主義者の宿舎拘禁が続いている間、陸軍内の追随者たちは 「国体原理派」 を形成した。1935年2月5日、彼らは 『国家刷新の二大動向――ファシスト派と国体原理派』 と題した教理問答書を出版した。(123)
 この無骨な教理が出版されて二週間後、牧野内大臣の秘書、大兄創始者の木戸侯爵は、陸軍内の意識や派閥について、広範な調査を実施した(124)。そして木戸はそれを、天皇の南進派に従う 「主流」 はなおも健全である、と結論づけた。1931年の奉天占領の際〔高級待合の〕「文菊」に宿泊した建川中将は、自分の庇護者である参謀総長閑院親王に変わらぬ忠誠を示している様子であった。また三月事件を画策した小磯中将も、奉天占領の道を開き、同様の振る舞いをしていた。陸軍大臣の林は、北進派首領と長年の交友がありながらも、今では、信頼の置ける人物と目されていた。
 その一方、三羽烏の筆頭の永田――天皇の特務集団の陸軍内グループの元祖――は、北進派の副指導者の真崎教育総監が 「過去の無数の事件」 を明るみにさらすと脅していたために、大きなプレッシャーを感じていた。顔の広い鈴木貞一大佐もまた困難に際していた。天皇の特務集団にその折ごとに登用されてきた多くの若手士官たちは、改造の機会に待ちくたびれ、かつ、農民の苦難に憤慨し、急速に急進的な方向に進みつつあった。
 木戸は、何人かの名前と事例を列挙し、満井佐吉中佐――若い敬虔な神道信者で、一年前、三井財閥の幹部の家に押し入り、長々とした説教を献じた――の感性について短く説明した。そうした扇動家らは、鈴木大佐や永田少尉が大兄たちの十一人クラブの会合で政治家や事業家――汚い「金権主義者」ら――と対話し交渉することを嫌い、〔そうした別行動をとっている、と言うのであった〕。
 大兄の木戸は、陸軍内の忠誠度についてまとめた自分の評価結果を、裕仁とともに、老西園寺をはじめとする裕仁の重臣らに提出した。そしてそれに付して、官僚筋から得た憲兵の諜報報告の要約を文書として公表した。その報告は、国体原理団体が 「正義のみを偏って信奉」 していると述べ、平沼男爵――1945年に裕仁の防空壕で降伏の決断に当たった右翼政治団体 「国本社」 〔の会長〕の面長の法律家――と結託しており、 「彼らは、異様に不動な決意をもって、政権掌握を行ってきた」 と指摘していた。(125)


 
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