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第五部
軍紀の粛正
第二十一章
鎮圧(1936)
(その1)
叛乱の夜明け
叛乱兵やその支持者に対する裕仁の圧倒的勝利は、早朝の最初の暗殺の数分前からすでに始まっていた。午前5時、本庄侍従長は東京北西部の自宅で、第一師団の少尉によって揺り動かされて目を覚ました。その少尉は、同師団の500名の士官と兵士が叛乱をおこしてすでに兵営を出発し、それ以上の将兵がそれに続いている、との娘婿の山口大尉からの知らせを持ってきていた。本庄は立ち上がると、ただちに戻り、山口大尉に、兵士に叛乱をやめさせ、兵営に戻させるよう、その少尉に命じした。
「しかし、もう手遅れです」 と少尉は答えた。
「最善をつくせ」 と本庄は命じた。そして電話に向かい、憲兵隊司令官と、天皇の寝室の近くに控えている宮中の夜勤番の侍従に電話をかけた。二人とも落ち着いており、当たり障りのない返答だった。本庄は車を呼び、宮中へ向かった。その途中、皇居のすぐ西にある英国大使館付近で、ほぼ一中隊の兵士たちと遭遇した。彼は、その兵士たちの軍服から、精鋭の近衛部隊の宮廷護衛部隊ではなく、彼の娘婿の属す第一師団の叛乱兵だと判断した。だが彼は、車を止めて彼らにそれを確かめようとはしなかった。
本庄は、午前6時、内宮に到着し、裕仁がすでに起床し、執務に付いているのを知った。数分して天皇に謁見すると、天皇は彼に、 「直ちに事件を終わらせ、この災いを転じて福となしなさい」、と告げた。そしてとがめるよう加えた。 「侍従長、お主のみが、この事件が起こると予期し、案じていたね。」
自分の娘婿のことを想い浮かべながら、本庄は答えた。 「若手士官たちはただ、自分みずから、すべてをおおう天皇の正しき世界の中に、彼らの正義感を託す場所をみつけようとしているだけなのです。」
(68)
木戸幸一侯爵――二ヶ月前までは牧野内大臣の、15分前までは斎藤内大臣の秘書――は、午前5時20分、その斎藤内大臣が襲撃されたと伝える宮廷からの電話で起こされた。木戸は即座に、 「重大事件であることをさとった」。彼は警視庁に電話を入れたが、叛乱軍に包囲されていて、誰もが制約を受けずには話せないでいることを知った。 そこで彼は、公用車の車庫に電話し、直ちに宮廷まで行ってっくれるように頼んだ。その車の到着を待つ間、木戸は、近衛親王と西園寺のスパイ秘書の原田に電話して、そのニュースを伝えた。車が到着すると、彼は用心深く、叛乱軍が占拠していると思われる地区を迂回して、遠回りするように指示した。
(69)
午前6時、皇居外苑にある宮内庁の自分の机に着いた。そこで彼は、状況を掌握するため多くの電話をかけたが、その一本は、6時40分の興津の西園寺宅にかけたものだった。電話に出た女中は、確かに老主人とその家族は静かに就寝中であると告げた。木戸は、西園寺が数マイル離れた静岡県知事公邸にいることを、知っていたかどうかについて、どこにも明らかにしたことはない。木戸は自分の日記に、 「大いに安心した」 とのみ記入しているだけであった。
(70)
あまたの電話で出来る限りの情報を得た後、木戸は、宮内庁内で、スパイ秘書の原田の到着を待った。彼は、叛乱軍兵士に検問された時に備えて、宮内省の証明書を手に、午前7時ちょっと前に、徒歩でやってきて、木戸からの指示を受け取った。その受領後、原田は、皇居北の門に向かうのでも、また、任務として西園寺に仕えるため興津に向うのでもなく、叛乱兵士の占拠する地区の自宅に戻り、次の二日間を、近所家の隠れ家から、通常のように電話をかける作業で費やした
(71)
。原田は察知していなかったかもしれないが、彼は、 「お節介な小男男爵」 として、叛乱士官の持つ 「発見次第射殺」 のリストにあがっていた
(72)
。そういう彼は、自分の近所宅に潜みながら、勇敢なスパイ役を演じていた。彼は木戸と綿密に電話連絡を取りながら、夜には危険をおかして外出し、叛乱軍の野営を監視していた。
木戸は、原田に指示を出した後、皇居内の庭園を歩いて横切り、内宮の裕仁の居住兼執務区画に入っていった。そして、裕仁の執務室の外にすでに集まっていた、侍従武官、湯浅宮内省大臣、広田副侍従長に合流した。彼らは、木戸が電話でその情報提供者より収集したものより、さらに新しい情報を彼に与えた。それによると、侍従長、首相、蔵相、そして内大臣、の全員が襲撃されていた。信頼されている天皇の他の寵臣と同じく、木戸はその後一週間、宮廷にとどまりつづけた。彼には、皇居図書館の裕仁の執務室から廊下を行った先に、仮の小寝室が与えられた。彼は、その侍従の部屋の畳部屋に、布団をしいて寝た。彼は、24時間、いつでも天皇の呼び出しに備えていた。
(73)
蹶起趣意書
2月26日午前7時、川島陸相は、自分の寝室からようやく階下に降りて来て、邸宅の一階を占めた叛乱軍士官と言葉を交わした。彼らは陸相に、蹶起趣意書の正本を渡してそれを天皇に提示するように要求し、その写しの文書は、占拠地区のいたるところに張りだされていた。そこに明記されていた要求事項は、政府は天皇の執権の全面回復を宣言し、陸軍は派閥主義を撤廃し、それまでの陰謀の 「首謀者」 である南、小磯、建川、そして宇垣各将を逮捕し、裕仁の特務集団の将官は軍職から追放され、荒木大将を関東軍の司令官にして 「ロシアを威圧し」 、そして、陸相はこうした要求を天皇に提示するに先立って、北進派指導者の真崎と協議するよう求めていた。その文書はまた、陸相が、副陸相で天皇が信頼する航空専門家である古荘幹郎中将、および、宮廷の隠れたスパイ――叛乱軍人たちには知られていなかった――
である
山下奉文少将と話し合うことを推していた。川島陸相はそうした要求を重々しく聞き取り、自分ができるだけのことをする旨、約束した。
(74)
午前8時、海軍軍令部総長の伏見親王が宮中に到着し、すぐさま裕仁に謁見した。彼は、各艦隊は、横須賀海軍基地から
東京湾へと航行中であり
、天皇の号令ひとつで、叛乱軍地区への砲撃の準備が整っている、と報告した。そして同時に彼は、新内閣を直ちに組閣し、叛乱軍に少々の譲歩を見せるよう助言しようと考えていた。叛乱軍の多くは、秩父親王の親しい友人であり、彼らを余りに過酷に扱うのは良くなかった。天皇は同意したのだろうか?
(75)
それまで伏見には賛成できないことが多くあり、また、議論にも巻き込まれていたことを知っていた裕仁は、ただこう答えた。 「私は海軍の状況について、貴殿の報告を求めただけだ。この事件に関する私の意見については、すでに宮内省大臣の湯浅に述べてある。」
「それでは、湯浅に伺ってよろしいでしょうか。」
「その要望については、返答はまたの機会にしよう」 と裕仁は返答し、伏見親王は退席した。憤懣やる方ない伏見は、大兄で賞勲局長の木戸のところに直行し、すべたの親王たちに、そのいざこざの件をつたえるよう、命じた。
午前9時、川島陸相は、叛乱軍との遣り取りを終わらせて直ちに宮中に到着し、天皇に謁見した。彼は、叛乱軍の蹶起趣意書
# 1
の巻物を提出し、それを天皇に慎重に読み上げた。
(76)
# 1
私 〔
バーガミニ
〕 は、
蹶起趣意書
の原文を以下に引用する。その深遠で近づき難い印象は、要約を許さないためである。そして、これまでに存在する唯一の翻訳版は、1936年にニューヨークタイムスの東京事務所で日本人翻訳者によってなされた独特の文体をもったものである――それは、日本近代史の数冊の文献に様々な形で引用れている――。それは、原文の内容をおおむねは表わしているが、手が加えられ、その灼熱地獄のような特性は失われている。
〔訳注〕 以下には、英語訳の邦訳に加えて、原文のままの引用も掲載。(
ただし、カタカナ書きをひらがな書きに改め) 。
国体を護持する直接行動のための趣意書
(77)
永遠の神、天皇に、
その統率の下にある我々は、
神国の子のそまつな見解でありながら、
この不満の意を提出する。我国の本源は、なによりも、一体をなす単独国家の継続的発展の成就と、天の下の全地球の包含にある。至高の優秀さと国体の尊厳は体系的な成長と、神武天皇による国の設立以来、明治維新よる社会変革にいたる
注意深い養育によるものである。いまや再び、時勢の秋に到達し、我々は広く外地領土に挑み、新たな光明へとの眼に見える進展を遂げならない。
先の危機的時代にもかかわらず、いかがわしい不逞の徒が雨後の竹の子のごとく続出して、我々は、我利我欲にふけり、皮相な形式を許して皇位の尊厳を傷付け、すべての
人々の
創造的前進を阻害し、我らを怒りと悲嘆のうちに苦しませている。日本は益々と外国とのいざこざに巻き込まれ、時の潮流に押し流され、外国のあざけりの的となっている。
元老、重臣、軍閥、財閥、官僚、政党等は皆、指導者としてこの国体を破壊に導いてきた。
(中略)三月事件や、えせ学者、えせ共産党員、逆賊的教団等が徒党を成して陰謀を企て、気付かれないままに、最も著しい事例を作ってきた。その悪事は血で天地をけがし、流血が義憤を表す時代に至っている。血盟団の犠牲的先進性(中略)、5・15事件の噴出、相沢中佐の刀の閃光は、彼らがなすべき理由と彼らを嘆かせた理由をまさしく物語っている。
今のこの終末に至ってもなお、僅かな反省と忍耐のために、
幾度にわたって、
生き血がこの地を濡らすのか。かつての如く、ただ時を費し、あるいは、我欲と保身をむさぼっている。今や、ロシア、中国、英国、そして米国とは、
一触即発状態にあり、
神国を狙い、我が文化と祖先以来の遺産の破壊の寸前にある。これは火を見るより明らかなことではないか。
実際、内外には深刻な危機が存在し、無能議員や無能家臣が国体を弱体化し、皇位の神聖なる輝きを曇らせ、維新を遅らせている。(中略)
第一師団の海外移動の天皇命令を受け取った今、・・・国内情勢をかえりみらざるを得ない。・・・出来うる限り、我々と同志の精神は、宮廷の内壁を壊し、逆賊を斬首する自らの努めを果たさねばならない。我々は、単なる家臣でありながら、皇位より信頼された部下として正道を進まねばならない。たとえ、我々の行動が自らの命や名誉を害そうとも、我々にいささかの動揺もない。
同じ悲嘆と意志を共有する我々は、この機会に決起する。逆賊を討伐し、至高の正義を正し、この聖地の子としての使命を全うし、我が全身全霊をその火に投じる。我々は大神と祖先に礼拝し、その恩恵とご援助を賜わらんことを。
昭和十一年二月二十六日
蹶起趣意書(原文)
謹んで惟るに我が神洲たる所以は万世一系たる天皇陛下御統帥の下に挙国一体生成化育を遂げ遂に八紘一宇を完うするの国体に存す。此の国体の尊厳秀絶は天祖肇国神武建国より明治維新を経て益々体制を整へ今や方に万邦に向つて開顕進展を遂ぐべきの秋なり。
然るに頃来遂に不逞凶悪の徒簇出して私心我慾を恣(欲)にし至尊絶対の尊厳を藐視し僭上之れ働き万民の生成化育を阻碍して塗炭の痛苦を呻吟せしめ随つて外侮外患日を逐うて激化す、所謂元老、重臣、軍閥、財閥、官僚、政党等はこの国体破壊の元兇なり。
倫敦軍縮条約、並に教育総監更迭に於ける統帥権干犯至尊兵馬大権の僭窃を図りたる三月事件、或は学匪共匪大逆教団等の利害相結んで陰謀至らざるなき等は最も著しき事例にしてその滔天の罪悪は流血憤怒真に譬へ難き所なり。中岡、佐郷屋、血盟団の先駆捨身、五・一五事件の憤騰、相沢中佐の閃発となる寔に故なきに非ず、而も幾度か頸血を濺ぎ来つて今尚些かも懺悔反省なく然も依然として私権自慾に居つて苟且偸安を事とせり。露、支、英、米との間一触即発して祖宗遺垂の此の神洲を一擲破滅に堕らしむるは火を見るより明かなり。内外真に重大危急今にして国体破壊の不義不臣を誅戮し稜威を遮り御維新を阻止し来れる奸賊を芟除するに非ずして皇謨を一空せん。
恰も第一師団出動の大命渙発せられ年来御維新翼賛を誓ひ殉死捨身の奉公を期し来りし帝都衛戍の我等同志は、将に万里征途に登らんとして而も省みて内の亡状憂心転々禁ずる能はず、君側の奸臣軍賊を斬除して彼の中枢を粉砕するは我等の任として能くなすべし。
臣子たり股肱たるの絶対道を今にして尽さずんば破滅沈淪を翻すに由なし、茲に同憂同志機を一にして蹶起し奸賊を誅滅して大義を正し国体の擁護開顕に肝脳を竭し以つて神州赤子の微衷を献ぜんとす。
皇祖皇宗の神霊、冀くば照覧冥助を垂れ給はんことを。
昭和十一年二月二十六日
裕仁は読み上げられる趣意を黙って聞いていた。その高揚した言葉と武士道精神の背後に、彼は、自分の戦争政策への完全な否定を見出していた。その隠された、含みをもった形式に、叛乱兵たちは、今後の外交的混迷の危険の沈静と、彼の精力を国家改造と日本の伝統である素朴な情念への献身を裕仁に請うていた。
「口実がなんであろうと、私は不興である。彼らはこの国に泥をぬった。陸軍大臣、貴殿に、即座の鎮圧を命ずる」
(78)
と、裕仁は冷たく言い渡した。
川島は、自邸を占拠した兵士たちに与えるいくらかの猶予を得ようと努めた。しかし裕仁は川島に、皇位がその趣意を聞きとったこと以外には、皇位によるいかなる同情も理解の意をも表すことを禁じた。
戒厳令初日
(79)
川島陸軍大臣が自分の苦境について考慮するために退席すると、直ちに裕仁は、軍事参議院のすべての将官と、個々に面会を始めた。彼らはその途上、陸軍の叛乱兵によって支障はうけず、また、皇位に自らの忠誠を示し助言を献することに篤い自負を抱く彼らは、全員、まだ閣僚や大将の欠席が目立ったその朝早くから、宮廷に参上してきていた。裕仁は、陸軍は彼ら 「暴徒」 を鎮圧して責任を果たせと、彼らにその一点のみを強調した。もしそれができないのなら、海軍に命令を出し、それでもだめなら、自ら現地に出向く積りであった。
天皇が、責務を負う陸軍長老らに自ら指示を与えている間、陸相公邸で指揮に当たる六名の若手将校は、要求に対する回答を待ちながら、中庭において、助言や希望を言って絶え間なくやって来る上官たちに対応していた。実際、それは信じがたいことであったが、陸相公邸や近くの陸軍省、参謀本部での業務は、叛乱兵たちがその戸口のいたるところに立って警備線を設けているにも拘わらず、順調に続けられていた。
午前10時、片倉衷
〔ただし〕
少佐――満州事変当時の南陸相の甥――が川島邸に通常連絡任務でやって来た時、そうした状況の不調和が露呈した。片倉少佐は、1934年の士官学校事件を暴露する手助けを行い、その際、今度の叛乱に参加している多くの若手士官を裏切っていた。驚くまでもなく、そのうちの一人で、小冊子を作成した磯部――不名誉な退役処分となった――が、その彼の頭への一発の弾丸でそれを迎えた。片倉は、後にビルマで不運にも連合軍の捕虜となり、1944年に殺された
〔これは誤りで1991年死亡〕 が、
その時は浅い傷で済み、回復した。彼の同僚の士官たちは、その負傷は当然のこととして受け取り、それ以降も、公邸に出入りする訪問者は続いた。
正午、最後の軍事参議官が謁見をおえた時、川島陸相は、山下少将を宮中の侍従武官室から叛乱軍へと派遣し、返答を与えた。それは簡単なもので、 「天皇は諸君の意図はお聞きになった。陸軍大臣は諸君の動機の真摯なるものを認める。軍事参事会が招集され、国体の保持が決定された。」
この通知ほどの致命的なものはなかった。血に染まった若い叛乱者は、彼らに対する天皇の、氷のような態度を感じ取った。彼らの敗北であった。もし彼らが空しく死ぬのであるなら、彼らは、最後の一人まで占拠を守り通すことを、山下に宣言するしかなかった。
山下は宮廷へ電話した。彼は対話を続けよと言われ、部隊の増強が確約された。そしてすぐ後、顔の広い鈴木貞一大佐――天皇に近い人物として知られ――と、第一師団司令官、小藤恵大佐――時分の指揮下にある若手士官への責任を負っていた――が、交渉チームに加わった。
交渉が、愛国的精神論に足をとられて遅々としている間に、裕仁は、国中で最高の各諮問団を招集し、その午後を彼らとの対応で過ごした。つまり、宮廷のある一室では、天皇の臨席のもとに枢密院会議が開かれ、他の一室では、ようやく宮中へと到着した内閣閣僚が集まっていた。第三の部屋では、軍事参議院が招集されており、北進派指導者の荒木や真崎が参加していた。内閣は、天皇から、岡田首相――その時はまだ押し入れの中に居た――を欠いた政府の継続について問われた。
それは、長い午後だった。裕仁は、政府における何らかの変化は、改造への一歩であり叛乱の成果とみられかねないため、新首相の指名はしたくなかった
# 2
。それに、軍事参議官の責務を軽減することも、たとえ口先だけの懐柔だとしても、それを望まなかった。叛乱兵が兵営にもどった時、裕仁は建設的な政府を再開するつもりだった。従ってその時まで、何らの署名もせず、ただ不満足でいる以外、いずれの側にも立たないとの姿勢を維持した。
# 2
岡田首相が生きているとの知らせは、憲兵がその日の午後早く裕仁に知らせたものと推定される。しかし、首相が占拠地区から脱出に成功した午後遅くになるまで、その存命の知らせは裕仁の周囲の宮廷人には知らされなかった。
内閣は、内務大臣の後藤文夫を首相代理に選んだ。また、軍事参議院は、ついに、 「説得文」 と 「勅令」 を叛乱軍に発することに同意した。説得文は、 「諸君は天皇の注意を喚起することを望み、それは達せられた。諸君の国体の顕現を望む真摯な願いは注目されている」 とのみ述べられていた。勅令は、 「1935年度の国防計画にのっとり、諸君らの師団の他部隊とともに、諸君らは、東京防衛のための所定配置につくべし」 というものだった。
一方、枢密院の御前会議では、天皇からの直接命令を出すことで、叛乱軍を解散させるのがよいのか、それとも、戒厳令を宣言し、鎮圧の責任を陸軍に与えるのがよいのかをめぐって討議された。裕仁は、自由な議論の外見を維持するための必要から、注意深く聞くのみで、何らの発言もしなかった。
そこで彼は、採るべき第二の行動を起こし、簡単な便法に出た。すなわち、20ないし30分ごとに侍従武官長の本庄を呼び、あたかもニュースを聞くかのように、 「陸軍は、気違いじみた叛乱兵の鎮圧に成功したかね」、と彼に尋ねた。そうしてついに枢密院は、しぶる陸軍に戒厳令を引くよう勧告することに同意したのであった。
午後3時、第一師団は1935年度の緊急事態計画にもとづき、兵士を防衛配置につかせ、叛乱をおこした同僚兵士と切り離した。午後5時、実りのない半日の交渉の後、山下少将は、報告のために宮中にもどった。その際、三名の叛乱軍士官がその聖域内に入ろうと彼に続いたが、警備兵によって阻止されねばならなかった。
山下の落胆する報告を聞いた後、湯浅宮内大臣は、信頼に足る家臣はすべてその夜は宮中に宿泊し、軍事参議院が先に決定した戒厳令をその真夜中より発令する、との裕仁の要求を伝えた。川島陸相はそれに従うことを確約したが、戒厳令が効果的かどうかを疑った。彼は湯浅内大臣に、次期内閣に陸軍が望む人物のリストを天皇に提示してもらえないかと要望した。湯浅はその要望を憤慨して拒否し、それを、天皇の大権の干犯であると決め付けた。川島陸相は、 「狼狽した様子」 で、戒厳令本部の設置に取りかかった。大角海軍大臣が、午後6時30分、謁見を許され、暫定内閣と暫定首相を指名することで、国民の不安を解消してはどうかと嘆願した。
天皇はこれを拒否し、 「もし陸軍がこの緊張を避けたいと望むのなら、言葉による確約をもらいたい」 と述べた。その夜、陸相公邸の五名の叛乱軍士官は、林、真崎、荒木、寺内ら、少なくとも七名の将官と対談した。こうした上級制服組の登場でも、膠着状態は打開できなかった。叛乱軍は先の要求を繰り返し、逆賊とすら呼ばないようにとつけ加えた。
その夜、内閣は、二度にわたって解散した。最初は、午後9時、後藤代理首相が内閣総辞職を宣言した。それは、国家的な災難があった後に行われる、通例的な対応であり、天皇は、これも通例的にそれを却下したものだった。 「平和と秩序が回復されるまで、むしろ真剣にその責任を果たすべきだ」、天皇は言った。
しかし、今回はこれでは終わらなかった。天皇の前から退出した閣僚たちは、その午後をそこで議論して費やした控えの間に戻った。その朝の暗殺で怖れを抱き、また川島陸相になにがしかの同情を抱いて、各自の辞表をとりまとめた。彼らはその提出を午前1時に行った。裕仁は、それを受け入れる以外に選択はなく、それぞれの大臣に、 「新内閣が組閣されるまで、政務に留まるよう」 命じた。彼は明らかに、困っていた。彼はその日、もう疲れ切っていた。
裕仁自身の家族さえ、裕仁が危険なほど非妥協な態度をとっていることを案じていた。伏見親王と朝香親王は、皇族会議の開催を求めており、裕仁の弟、秩父親王は、彼らの肩を持ち、地方からその会議に参加するために呼び出されていた。内大臣秘書の木戸は、朝香親王と東久邇親王の立場を感じ取るため、その夕を二人とともに過ごし、彼らの忠誠を再確認して報告した。
しかし裕仁は、再確認を受け入れる雰囲気ではなかった。彼は、その朝から着ているしわくしゃとなった軍服をまだ着けており、午前2時少し前、内閣から出された辞表を読むために座った。午前2時、彼は侍従武官長の本庄に電話し、寝床にいる彼を起こした。 「川島陸相は辞表を出し、他の閣僚も同じだ。彼は、誰も同じ責任を負うと考えているのかね。そんな感覚で、陸相が務まるとは思えん。」
本庄は、 「殿下はその後で、格子戸を通り、ご自分の寝室へ入られたのだと思います」 と、裕仁との電話を切ったのち、日記に記入した。
二日目
(80)
2月27日の夜が明けた、決起二日目、雪はやんだものの、寒さは続いていた。戒厳令はその未明、2時50分に公布された。午前5時、侍従武官長本庄は、伏見親王の私的訪問によって、宮中の間に合わせの寝具の中で、寝たりぬ目を覚まさせられた。伏見は本庄に、若手士官たちが夜中、伏見邸を訪れ、叛乱を解決する条件として内大臣の地位を求めてきたと報告した。むろん本庄は、それに言質は与えなかった。午前7時、裕仁の叔父、朝香親王は、裕仁の弟の高松親王を海軍士官学校に訪ね、裕仁が新内閣を早急に指名するよう、彼の後押しを求めた。だが高松はそれを辞退した。
宮中では、侍従たちの控室が、まるで難民収容所の様相をていしていた。高齢の閣僚、将官、親王、侯爵らが寝巻姿で朝飯や茶をとり、寝心地の悪かった一夜の後、それぞれの会話を交わしていた。皇居の門外では、叛乱軍の歩哨が、雪の中を行き来していた。地下鉄
〔「省線」 のことか〕
の 「中央線」 は、運行を停止していた。ビジネス街や東京南部の港湾地区に通う通勤人たちは、皇居周辺の占拠地区を避けるため、何度も乗りかえを強いられていた。裕仁は遅くまで眠っていた。いつものオートミールと玉子のたっぷりな朝食の後、彼が机には向かったのは、8時と9時の間であった。
侍従武官長の本庄は、天皇に朝の挨拶をしに行った際、彼の率直なほとばしる意気に圧倒された。 「もし、叛乱の暴徒たちが、陸軍最高司令官の命令にただちに従わないならば、私は自ら、彼らのところに出かけるつもりだ。」
それに答えて本庄は言った。 「直接行動部隊の士官は、天皇の部隊に勝手に命令し勝手に出動を命じました。それは、天皇の統帥権を犯すことです。当然、それは許されざることですが、彼らを行動させている精神は考慮に値するものです。彼らは完璧に愛国的確信と国民に成り代わる思想によって行動しております。彼らの心には、陛下を強要しようとが、陛下の力を悪用しようとかと考える積りは毛頭ありません。」
しばらくした後、裕仁は本庄を呼んで言った。 「彼らは私の右手である家臣たちを殺した。そうした凶暴なる士官には、いかなる心的動機があろうとも、微塵の弁明もありえない。私の最も信頼しうる家臣を倒すことは、真綿をもって私の首を絞めるに等しい勇気だ。」
(81)
本庄は答えた。 「老いた家臣を殺したり傷つけたりすることは、最悪の犯罪であることは言うまでもありません。しかし、彼らは混乱し誤解はしているものの、国のために行っているものと信じております。それが彼らの信念であります。」
本庄は日記にこう記している。 「私はこう、いろいろ違った方法で陛下に申し上げた。」
裕仁は、 「侍従長、そなたは、彼らの行動が、単に、私利私欲によるものだということが認められないのかね」、 と首をふりながら言った。
本庄は、ふさわしい返答ができぬまま、日記にこう書きとめている。 「この日はまた、陛下はたいへん昂ぶっておいでで、行動部隊を鎮圧する陸軍の努力は、どこにも見られぬと言われた。そして私に言われた。 『朕
# 8
は、近衛師団に命令を出し、自ら、叛乱部隊を鎮圧する』」
(82)
。
# 8
「朕」 とは、中国のかっての皇帝が用いた 「我々」。この表意文字は、天の耳に話しかける月を表している。
(83)
〔この説明はあやしさは脚注のように著者も気付いている。 「朕」 については、翻訳の他の個所ではあえてこの用語は用いず、 「私」 で通している。〕
その日は丸一日、国民は緊迫にさらされた。そのさ中、裕仁は執拗に、少なくとも13回は本庄を呼びつけ、陸軍が行動を開始したかどうかを尋ねた。川島陸相と老将官のほぼ全員は、皇居から数地区北にある憲兵隊本部に、戒厳令司令部を設置する準備に追われていた。午前10時30分、近衛師団が叛乱軍占拠区画の北西角に、向かい合って陣取った。また、第一師団の忠誠を維持している部隊が、その南西および南東地区に配置された。占拠区画の北東部は、皇居のお堀でさえぎられていた。その日の午後、叛乱軍は皇族会館に押し入り、居合わせた人たちを片っぱしから取調べ、16人の侯爵、伯爵、子爵、男爵たちをひとまとめにして、その夕刻まで、拳銃を突きつけていた。
西園寺のスパイ秘書の原田は、叛乱軍の警戒線を突破して潜入し、拘束されている皇族の幾人かと接触したが、その帰路、彼の顔を知る叛乱軍士官に阻止された。その士官は後にこう証言している。 「もし彼が怖がっている様子を表わさず、あるいは、嘘をついて逃亡を図ったならば、自分は彼を殺しただろう。しかし、彼は、警告するだけで見逃してほしいと、いかにもか細い声で話していた。」
(84)
午後、事が沈静すると、誰もが、裕仁の弟で叛乱軍指導者たちの友人である、秩父親王が東京に到着するのを待ち受けた。秩父親王は、その夜に予定されていた皇族会議で、裕仁に何かを言ってくれるものと期待されていた。内大臣秘書の木戸は、ほぼ丸一日を費やして、朝香、東久邇両親王と 「打開策」 について話し合った。午後5時17分、秩父親王の列車が上野に着いた時、叛乱軍もしくは陸軍が親王を誘拐するとの噂があったため、彼は侍従や警察の厳重な警護で迎えられた。そして彼の車列は、およそ4マイル
〔6.4km〕
の市街を、サイレンを鳴らしてフルスピードで走り抜け、30分で皇居に到着した。彼は直ちに天皇に謁見し、天皇、皇后との内輪の夕食をとった。
午後7時頃、彼らに他の親王たちが合流して、皇族会議が開催された
# 4
。侍従たちの話によれば、発言は申し合わされたもので、その雰囲気は上品なものであった。裕仁は、各々の親王に次々に質問をあたえ、用意された短い見解表示――中国をはじめとする様々な時事、長期軍事計画、そして国政改造など――に耳を貸した。しかし、その主要な懸念は、新内閣が早期に組閣されず、陸軍とともに譲歩が打ち出されなければ、叛乱軍の勢いが地方に広がらないかということだった。裕仁は親族に礼を述べ、そうした諸意見について検討することを約束し、午後8時30分、さしたる盛り上がりもないまま、会議は散会した。その後、秩父親王は大兄の木戸と、およそ30分間、話し合った。
(85)
# 4
皇室典範によると、 「皇族は天皇の配下にあり」、皇族会議は、 「成年に達した男子皇族によって構成される」 とある。加えて、天皇は、外部の立会者、ことに、内大臣、宮内大臣、法務大臣、最高裁長官の出席を求めることが予定されている。1936年段階では、16親王がその資格を有していた。そのうち、6名が「親王」、10名が「王」であった。6名の親王とは、裕仁の3兄弟に、皇族選挙によって親王となる、次直系の家族の3名の王子――陸軍参謀総長の閑院親王、海軍軍令総長の伏見親王、そして、1934年にヒットラーに会った狂信的な賀陽親王――を加えた面々であった。この2月27日の皇族会議に参加した親王たちは、弟の秩父、弟の高松、従兄の伏見、(全員が親王)、そして、叔父の東久邇、叔父の朝香、従兄の梨本、そして、閑院親王の息子の春仁〔はるひと〕(全員が王)であった。
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その皇族会議は、二つの結果をもたらした。そのひとつは、小田原の別荘で意気消沈していた陸軍参謀長の閑院親王が東京に呼ばれ、 「たとえ都合が悪くとも」、天皇の背後に着くことを求められたことだった。翌日、閑院はそれに従ったが、どうしたことか、それから一週間、彼の君主とは会わせてもらえなかった。第二は、会議の夜、秩父親王が、友人で叛乱軍の最高の地位にある、野中大尉あての私信を書き、彼の部隊の撤退を懇請したことだった。野中は、一日考えた末、自分の口に拳銃をくわえて引金を引くという返答を行った
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。侍従らは、親王たちが自分と叛乱軍下士官たちとの交友や交際関係がゆえに狼狽させられていながら、それでもそうした紛糾の中で、裕仁の側についているのを見て安堵していた。秩父親王は、午後9時10分、警察の護衛とともに宮廷を後にした。
翌朝、裕仁は、皇族会議についての見解を、宮廷の公式記録とするため、大兄の木戸――賞勲局長――に次のように報告した。 「高松宮が最も良ろしい。秩父宮は、5・15事件の時以来、大きく成長した。梨本宮は、〔この叛乱軍に〕私の恩赦を求めた時、涙を浮かべていた。私は彼を立派だと思う。春仁〔閑院の息子〕は気品がある。朝香親王は、正義の個人にとっての意味と、皇位の大義におけるその位置をのべたが、過激思想の影響を受けており、欠点がある。東久邇親王については、いい感覚を見せていた。」
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裕仁は、一族の模範を示す者として、東久邇親王の最近の恐喝事件と宗教詐欺に関する警察文書を読むことを求められていた。だが天皇は、自分の親族を、通常の日本人の道徳観によってではなく、いかに忠義であるかどうかという基準で判断した。平穏な皇族会議で彼は、自分の親族にただならぬ支配力を証明して見せたのであった。
会議が解散してしばらくして、真崎、阿部、西の将官たちは、陸相公邸におもむき、その一階で指揮をとる五人の叛乱軍士官に、望みを捨てて天皇の意志に従えと告げた。もし、彼らがそれに従わない場合、北進派の指導者真崎は、彼らを鎮圧するため、自ら特派部隊を指揮せねばならぬと宣告した。疲労し、悲嘆にくれた若き兵士たちは降伏に合意した。午後11時30分、三将官は、近衛師団と第一師団の歩哨に、その夜、叛乱軍占拠地区から脱出しようとする一般兵士には寛大であるようにと命令を出したと、宮廷に報告した。
しかし、それで事が終わったわけではなかった。叛乱軍は、あらゆる機会を通じて、東京郊外の隠れ家にいる急進的北進派理論家北一輝と、無線連絡を取り続けていた。職業革命家としてのそれまでの長い経歴の中で、北は、クーデタの策謀への表立った参加は避けてきていた。しかし今回は、彼はもう深く関わり、もし叛乱が失敗した場合、処刑される恐れがあった。それまでの二日間、彼は無線機に付きっきりで、その度ごとに叛乱軍を勇気付け、政治的駆け引きの助言を与え、また、霊媒の力をもつとの評判のある妻によるお告げを伝えていた。
その2月27日の夜、三将官が陸相公邸を引き上げた後のほぼ深夜、北は二人の叛乱士官と話し、まだあきらめてはならず、宮廷への圧力は高まっている。しかし、もしすべてが裏目に出た場合、彼らには審判なしの略式の死刑が科されるだろうと告げた。そして北は、その若手士官たちに、妻が見た夢の話を付けくわえた。それは、貧困のない極楽浄土で若手士官たちが勝利を祝い会っていた。叛乱軍はそれに聞き入り、それに賛同した。
つづき
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