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両生学講座 第22回(両生量子物理学


       量子的な両生空間


 すでに、本 「両生空間」 の読者には存じていただいているように、この 「両生」 という考えには、生物学でいう 「両生類」、つまり、陸上でも水中でも生きれるという、いわば、 “二股” をかけた生物種にその発想のヒントがありました。ただ、二年前のサイト開設の当初、その 「両」 という意味が、日本とオーストラリアという、地理的な 「二股」 に重きがありました。ところが、その後の過程である種の進化がおこり、その二股の意味は、地理的な域をこえ、哲学的、あるいは、括弧付きですが 「宗教的」 分野にも踏み込むようになってきています。
 こうして、地理的世界から離陸し、思考の世界での 「両生空間」 に親しんできているわけですが、そうした発展の中で、ここのところ発見しつつあることが、そうした思考界の 「両生空間」 は、なんと、量子物理学でいう、従来のニュートン力学をこえた新しい概念という発想と、どうやら、同じ着眼とはいわずとも、似かよったねらいに通じていそうな成り行きなのです。
 この、六十路の思考逍遥が、もし、そんなところにまでやって来ているとなると、とんでもないところに迷い込んでいる (それとも到達せんとしている) ということとなるのですが、以前述べた 「個体発生は系統発生を繰り返す」 のその後を、あらためて追跡しているともとれます。ともあれ、まずはそれはどういうことなのか、説明に入らさせていただきたと思います。

 ただ、まずはじめにお断りしておかなければならないことは、量子物理学という精密科学でも最も先端をゆくその分野での議論を、おおまかにトレースするだけでも私の能力に余りますし、この 「両生空間」 の目的にも沿っていませんので、以下に述べる内容は、あくまでも、その必要範囲内での、私の理解度と咀嚼の程度によっています。
 ではその切り出しは、思い出話から始めたいと思います。それは、私が中学生の頃だったと思いますが、ガモフという宇宙ビックバン説の提唱者の書いた、星だの宇宙だのアインシュタインの相対性理論だのを子供向けに説明した本を読んだことがありました。当時、私の兄はスポーツ少年だったのですが、私は病み上がりで、どうも、なよなよした科学 (あるいは模型) 少年であったようです。
 その中で、宇宙の膨張を意味する光のドップラー効果――小学生の頃、私は、電車に乗るときはいつも先頭車両の運転席の後ろに陣取り、自分が運転士になったような気分を楽しんでいたのですが、そんな時、対向してくる電車が警笛を鳴らして通り過ぎる際、最初は高く聞こえた音が通過とともに低く聞こえる現象を知っていましたので、それが光にもあるのかと、割りに簡単に理解できたのでした――や、動く物体は前後に縮むことを図示した、平たくなって自転車に乗る男のイラストなどを、いまでも思い出すことができます。
 やがて高校生となったのですが、こんどは、科学への関心を広げるより、むしろ、自分のかねてからのスポーツコンプレックスの克服のため、バレーボール部にとび込んで少しは身体的にたくましくなりました (一時、部員が二人しかいない天文部に属し、望遠鏡を通して月のクレーターのスケッチをしました)。ですが、それも大学入試を前に、三年の夏休みの県大会終了を期に退部し、しぶしぶながら受験勉強に打ち込むこと (本当に始めたのは、年もあけていよいよ尻に火のついた時でしたが) となりました。その中で、やはり理工系をめざすこととし、そうした学科に重点を置いた勉強は、楽しいとまでは言わずとも、数学の二次方程式と物理の放物線が同じものとか、速度を微分すると加速度になるとかが判って、それなりの興味は刺激されたものでした。
 無事、現役で大学には入れて、そこでの物理学の最初の授業の際、講師がひとつの問題を私たち学生に与え、こう、励ましとも脅しともとれる宣告を発しました。曰く、「過去の事例から、この問いに正しく答えられない学生の割合と、私の授業の単位を取れない学生の割合は、ほとんど等しい」 。そして、その問題とはこういうものでした 。「空中に浮かぶ風船に入れるヘリウムガスをつめたボンベと、中が真空のボンベとは、どちらが重いか」 。私は、ヘリウムガスは空気より軽いだけで、物体としての重さはわずかながらでもあるはずだから、真空、つまり何も物体が入っていないよりは重いと考え、そちらの方に手を上げました。それは正解で、たしか正解者の割合は、半分より少なかったと記憶しています。それ以来、その物理学の先生には、自宅を訪問するほどに親しくさせてもらうようになりました。
 そうして、私は技術者としての実務知識を、落第しない程度に身につけるようにはなっていったのですが、こうした思い出話をする理由は、上記のように、いわば物理学の知識の最先端に触れていた中学生の頃に反し、高、大学と進学するにつれ、私の物理学の知識は、むしろ、歴史の流れには逆行するかのように、古典物理学の知識で固められてゆくこととなりました。
 こうして、その後の数十年間を実務界で過ごし、そうした最先端の物理学の知識は、むしろ何か遠い昔のおとぎ話のような印象の彼方に放置されていました。それが、ほんの最近になって、改めて、その世界に注目するようになり、こうしたなつかしいシーンを思い出している次第です。つまり、そういう選ばれなかった選択、あるいは、食べ残していたごちそうに、いま、再度、ありついているわけです。

 前回の本講座で、禅の西洋にとっての意味を指摘する米国の哲学者の見解を紹介しましたが、そこでは、物理学とか数学という精密科学の分野で思考の枠組みの限界がみられ、その転換が始まっていると力説されていました。ならば、そうした転換の当の現場をのぞいて見たいと欲したところに、こうした先端分野へのいまさらながらの関心のぶり返しの発端があります。
 まだその途上ですが、その 「のぞき見」 から得た、なかなか自己暗示めいた結論から先に述べれば、最初に言った 「両生空間」 と量子物理学の似かよったところとは、前者が人間を問題とし、後者が原子構造を問題とする違いはあれ、双方、両面的なアプローチを不可避としているところです。
  「両生空間」 の両面性はもはや繰り返す必要はないと思いますが、最近の私の議論でことさらに取り上げている、東洋と西洋という人間世界の両極性に、重ねて注目したいと思います。他方、量子物理学の両面性とは、光にせよ、原子の構成要素とされる電子にせよ、それらが、粒子と波動という二つの性格を併せ持っており、それらのどちらとも確定できないことです。
 そこでなのですが、これは思考上のゲームですが、もし、私を電子に置き換えたとしますと、粒子とも、波動とも、双方の挙動を示す 「私」 という擬人化が可能で、それは最先端の精密物理学をもっても捕らえきれないなぞの存在であり、ゆえに新たな思考の枠の必要を既成学問に要求し、さらに、光速に近い速度で西洋と東洋を股にかけえる、あるいは、ほぼ同時に両世界に存在しえ、しかもどんな観測手段をもちいてもその居所が特定できないというステルスな存在という、そうした 「私」 像を仮想することができます。何とも知的な爽快感をもたらしてくれる想像ではないでしょうか。
 さらに、これを思考ゲームとみなすとはしても、人間とて、電子を含む物的土台なしでは存在できないことを考えると、人間活動のなかに電子的振る舞いがあらわれたとしても、それを不思議とする必要はないのではないかとも考えられます。そしてさらに、意識や思考という、脳の神経細胞の活動の産物も、そうした微細構造次元の働きがあるのではないのかと発想すると、そこに類似があっても当然どころか、同根のものということさえ可能かもしれません。
 そして、こうした思考ゲームに呼応するかのように、物体の根源を探究するなかで遭遇しているこの両面性の課題は、物理学の範囲をこえ、哲学上の疑問にまで到達しているというのです。つまり、近代自然科学の発展を支えてきた、カントの言う先験的な因果律の公理が、日常生活的な世界とは次元を異とする微細世界や高速移動の世界で限界にさらされているといいます。すなわち、そうした新分野をも含めればそれもいまや不完全な正しさでしかなく、原子構造の世界や巨大宇宙を含む文字通りの大自然を支配する原理を考える場合、その枠を超えることが必要となっているのです。
 それまでの科学は、そうした因果律の支配する厳密性によって観察されてきた客観物によってのみ構成されてきたわけです。そうした客観的世界に、存在しているのは確かながら、そうした観測手段の網にかからない、あるいは、矛盾なく捕らえ切れない何かが登場してきているのです。
 つまりそこに、それがいかに観測されるかという手段とは無関係でありながらも客観的に存在する物体、という概念が生まれうるわけで、そこで、ある物理学の巨星はこう言います。 「アジアの哲学と宗教の中には、もはや対置すべき客体のない純粋の認識の対象という、それとは相補的な概念が存在する」 。いうなれば、これまでの本講座の禅についての議論に登場していた概念、たとえば 「無」 とか 「道」 というものは、まさに、ここでいう 「対置すべき客体のない純粋の認識の対象」 であります。
 前回の本講座にのべた、禅匠徳山の 「宇宙の膨大さの中の一本の髪の毛のごとき」 という表現も、このような思考枠に置いて考えますと、それは単なる比喩ではない文字通りの宇宙的認識をあらわしたもので、「相補的」 どころか統合化、それこそ原理化されたものとして、俄然、真実味を帯びてきます。
 そこでなのですが、徳山とは8〜9世紀の人で、電子や相対性理論など知るよしもなかったはずですが、そこで働いていた直観による認識の威力を思い知らされます。そこでですが、カントのいう先験的認識を、「ラジカル直観主義」 (前回本講座参照) の思考土壌に移植してみると、カントの意図をこえて、両面的な量子的世界の次元にも適用可能となってくるのではないかとも考えられます。ただ、当面の問題は、そうした移植が、旧来の実証主義からみて、不連続な発展であることです。
 このように考えてくると、またしても我田引水で恐縮すが、前回のエッセイの 『感じ記憶』 でいう記憶あるいはそうした意識は、むろん原子や宇宙を扱う話ではありませんでしたが、そうした直観的な働きのひとつとは断言でき、何か、旧来の科学の枠組みを超える新概念について、そうとは知らないながらも触れようとしていたのではないか、とも思えてきます。
 
 以上、今回での 「両生量子物理学」 は、「のぞき見」 の途上で脳裏をかすめた、いくつかの着想を述べてみました。そいうい意味でまだイントロにすぎません。次回以降、もう少し本論へ入ってゆきたいと考えています。

 (翻訳 松崎 元、2007年7月13日)

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