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 第三期・両生学講座 第10回


「ダブル・フィクション」 としての人生



 これから以下に述べることは、 「ダブル・フィクションとしての天皇」 との題名で連載してきている 「訳読」 ――バーガミニ著の 『天皇の陰謀』 の翻訳――の、そのタイトルの発想の “もじり” でありまた発展でもある、その発想のもう一つの適用例です。
 それで、その適用先を、 「天皇」 などと大それたものではなく、いちばん身近であるはずの自分、すなわち 「人生」 とするものです。

 そこでまず、その原点である 「ダブル・フィクション」 という考えですが、それはこれまでにも解説してきているように、私たちが描いている 「天皇」 (ことに昭和天皇) とのイメージ自身がフィクションであるのではないかという発想に加え、そう第一のフィクションが言えるのであるならば、戦後の日本の天皇制全体もなおさらのフィクションであるのではないか、という想定が込められているものです。
 そして、そういう 《ダブルな擬制が、そういう社会の大枠において存在しているとするなら、それに類するものが、自分という “微枠” においては、なおさらありうるのではないか、と想定するのが本稿です。

 私は自分のこれまでの65年の人生をふり返って、自分が二十歳代の頃に感じていたあることに、よくぞそれを発見していてくれたと、今になっては大いに褒めてやりたくもなることがあります。
 それは、当時の自分の悶々とした日々の中で、社会で生きて行くとは、結局、 「誰かの手足にされることではないか」 と直感的に感じたことでした。
 もちろん、巷に喧伝されていたように、人の上に立って華々しく活躍したいなどとの青臭い 「夢」 も人並に抱いてはいましたが、それとは裏腹に、毎日を過ごす現実の自分の姿として、確かに 「誰かの手足」 となっている、そういう自分の位置や実態を無視はできませんでした。
 また最初のころは、そう感じる自分を、 「不遜なこと」 と抑えたり、 「謙虚」 なしおらしさに納まろうともしたのですが、年月をへるたびにつのる思いは、そうした自分と自分の “責務” との間の乖離感でした。
 ただ、そうした話の顛末はすでに詳しく述べて来ていますので ( 『相互邂逅一部二部三部 参照)、ここではこれ以上は取り上げませんが、それから数十年をへて人生の 「林住期」 を迎え、接近してくる還暦を前にしながら抱いた思いの中で到達したことが、人生の 「二周目」 というアイデアでありました。
 ただ、そうしたアイデアは、確かに、人生論としては前向きではありながら、歴史や政治の実相と対応させてみる時、それではどこか物足りないもの、あるいは、そこに一種の味わい深さは見出しながらも、それこそ、 「手足」 に慣れ切らされたものの哀惜を感じないではいられません。
 そこで、その二十歳代の自分からの命のしずくのようなメッセージを受け止めながら、もし、私たちにまつわる歴史や社会にそうした擬制が織り込まれているとするのならば、私の人生の幾ばくかも、そうした擬制の影響を受けていないはずはない、と思えてくるわけです。
 そうであるなら、その人生 「一周目」 も、たとえ自分では実も花もある人生と信じ、そう見えていたとしても、それが一種の幻想で、 「フィクション」 としての一周目であったのかもしれない、という視点が生じて来ることとなります。
 これこそ、いかにも歯がゆく、さらには、物語終幕でのどんでん返しさながらの到達ではあります。
 そうではありますが、さらに、もしそうであるとするなら、そして、そうであるからこそ、その 「二周目」 こそを、 「フィクション」 から無縁なものへと、せめて、そして切にと願いたくなるというものです。
 むろん、幾ら老いたとは言え、霞を食って生きるわけには行きませんので、 「清濁併せのむ」 老練さも必要でしょうが、人生 「二周目」 を迎えた境遇にあって、通常なら、一周目の経験に加え、働く直接的必要もそれなりに軽減されていることでしょうから、その二周目を 「フィクション」 の網から出来るだけ逃れさせることは、さほど大それた試みではないはずです。

 話は変わります。
 先日、店の寿司バーに立って寿司を握っている時でした。ふと手の空いた合い間、先輩であるマレーシア人の寿司シェフとこんな話しをしました。
 まず、彼のことをこう書くのは彼の名誉を傷付けることになるのかもしれませんが、それは決して私の意図するところではありません。そう断った上で述べることですが、その彼は名うての頑固者で、その偏屈で我を張った人となりは、職人らしいと言えばその通りなのですが、その腕前を別にすれば、ちょっと扱いかねるところのあるほどに、くせのある人物です。
 私も、そういう彼といっしょに仕事をすることでトラブルは経験してきていますが、いわば、そういうつわものたちで形成されている仕事場が寿司職人の世界です。
 彼は父親が中国南部から移民してマレーシアに住みついた、今、51歳になるチャイニーズ・マレーシアンです。彼は、十歳代前半から働き始め、17歳の時、クアラルンプールに開業した日本の大手資本経営の日本食レストランに、見習いで雇われました。そこで彼がまず遭遇したことは、左利きの彼に対する日本人シェフたちの、日本料理は右手でやるもので、左手は使うなとの命令だったそうです。彼はそれは明らかな 「ディスクリミネーション(差別)」 だったと言います。日本料理を外国人がつくれるはずはない、それを見せしめるためのものであったと言います (おそらくその店は開業にあたって、現地人を何人か雇用する義務が課されていたのでしょう)。
 そこで彼に始まった生活は、慣れぬ右手で包丁を使うため、左手を度々血で染めながらの、文字通りの、歯を食いしばっての 「絶対に負けない」 毎日であったと言います。むろん、言葉の問題もありましょうし、生活、習慣の違いも、数えるに事を欠かなかったでしょう。そういう、有形無形の 「差別」 に日々刻々にさらされての見習い生活の中で、 「絶対に負けない」 頑張りが長年のうちに作りだした産物が一体なにであったのか、それは想像に難くありません。
 彼は、一時は自分の店をいく店か経営した経歴もあり、今に至っては、その道の成功者として自信満々です。しかし、そうした彼の成功がなんらのコストもなく達成されてきたわけではなく、彼のそうした性格的な意固地さも、三十年以上にわたる、そうした苦難な環境が影響したものと考えられます。
 そういう彼なのですが、その日、私といっしょに寿司を握りながら、自分には子供がなく、寿司シェフとして成功して金もたまり、この先もうこれ以上、向かう目標がなくなったとふと語ります。
 私が、もうリタイアして悠々自適の生活を始めればいいじゃないか、と言っても、何をしたらいいのか、することが見つからないと言います。
 しかし、彼はそう言いながらも、子供の頃は、機械をいじるのが好きで、なんでも自分で直したと言います。
 私はふと思いついて、自分が子供のころ、工作が得意でナイフを研ぐのが好きで、高校生のころには、料理人になることも考えたことがあった。そして、一時、そちらの方向に進むことも考えたものの、時代の流れかそちらには進めず、建設関係の方面で生きてきたと話しました。
 彼もナイフ(包丁)研ぎの名人で、刃先に指先で触れるあの微妙な感触への思い入れは、両者を結びつける何かがあります。
 その彼に、 「どうしてその俺が今ここで寿司を握ってると思う?」 と聞き、 「それはそうやってその時に選べなかった自分に、いまこうやって戻ってきているからなのさ」 とつけ加えました。
 そして彼の腹をポンポンとたたきながら、ここには、「選ばれなかった別の君がまだ眠っているんじゃないか」 と私が言うと、 「そうなんだ、今、子供のころに自分で修理して乗り回したオートバイのことを思い出してる」 との言葉が返ってきました。
 彼はこの先、ふたたびオートバイにまたがり、第二の人生に出発するかどうか、今は誰にも解りません。むろん、本人も。
 そこで、私がそれをけしかけると、「ワイフがきっと反対する」 といいます。そこでさらに、 「それはきっと、ワイフより大事なことじゃないか」 と加えてけしかけると、彼は、「そうなんだ、あいつは解っていないんだ」 と、きっぱり言いました。
 そして最後に、「まだ60までには時間があるね、ハジメさん」、と言うのでした。

 そういう彼に、君の人生は 「フィクションだった」 と言ってみても、何も始まらないでしょう。それに彼は、自分の人生をそう呼ばれる」ことに、絶対、納得はしないでしょう。ともあれ、彼にとっての50余年の人生は、そうした苦労と成功談でほぼ隙間なく満たされています。
 これは恐らく、そういう頭の切り替えが出来るかどうかの問題なのでしょうが、しかし、その時、日本資本のレストランがクアラルンプールに進出してこなかったら、彼の人生はまったく別のものであったでしょう。
 というより、むしろ私がここで注目したいのは、その時、日本の大手資本のレストランがなぜそこに進出して行ったのかということです。そういう大枠を決めていた誰かがいたということです。
 そして、彼が経験した自分への扱いを 「差別」 と受け止める彼の心境と、私が二十代に感じた 「誰かの手足にされている」 との受け止め方の両者に、一見違いはあるようですが、そこには深い共通性があります。
 またそれ以上に厳格で生な真実は、そこまで何かに成り切ることによってしか生きて来れなかったその何かはともあれ終りをとげても、私たちの人生の方が遥かに長寿となってきていることです。

 (2011年2月4日)

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