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            巻末脚注(1)

 
 以下の脚注において、著者が個人的に得た情報や、職業および特定の場面で個的性格によって知りえたものについては、その出所を示していない。私は、以下の情報を、少しずつ、自分のカードファイルに収集してきた。こうした情報には、その多くを、秦郁彦
(はたいくひこ)氏からお借りした資料原稿 (「ノートブック」あるいは「人事記録」) を複写したものによる。他の一部の情報は日本語の文献からの時に応じた参考としてファイルしたもの。その他の情報は、原田の日記『太平洋戦争への道』、および、秦の著による 『軍ファシズム』 と 『日中戦争』の付録に再生されている人事記録や公務員リスト によるもの。その他、少量の人事情報を、平凡社より毎年出版されている 『大人名辞典』、1912年より1944年まで隔年で出版された 『Who's Who in Japan』、そして IPS Document 1606 より得た。
 以下で、番号の付していない注記は、その章全体、あるいはその特定項目に関連するもの。
 この脚注の作成には、ペネロープ・バーガミニ、ヴェール・フェイ、およびシャロン・コーシグリアの各氏の協力をえた。

 第一章 南京強奪
 この記録不足の悪名高き歴史的出来事に、一般的な評価は存在していない。注記のないものに関し、私の見解については秦の 『日中戦争史』 280-86頁に、軍事的詳細については Timperley の 『Japanese Terror in China』 および Hsu の 『War Conduct of the Japanese』 に、虐殺の詳細については朝日新聞に、そして、前線に出入りする陸軍、海軍および外務省官吏の「人事記録」については秦が収集した情報による。島田編『現代史資料』は、現存する陸軍文書のほとんどを提供しており、木戸の『日記』は、“宮中”洞察の助けとなった。Timperley と Hsu の間にある記述上の若干の違いを、キャンベラの国立戦争博物館の書類――南京強奪を観察した西洋人による手紙が謄写版複写として残っている――を参考にして斟酌した。多くの観察者は、極東国際軍事裁判 (IMTFE) へ証言や宣誓をしている。その「議事録」(エール大学法学部図書館のマイクロフィルム)で、Minor S. Bates (pp. 2624-)、George A. Fitch (pp.4460 ff)、John Magee (pp. 3900-)、James McCallum (pp. 4470-)、Lewis S. C. Symthe (pp.4450-) そして、Robert O. Willson (pp. 2527-) を調べた。ドイツ人観察者 John H. D. Rabe と Alexander Ernest von Falkenhausen 大将 (米国議会図書館マイクロフィルム WT5, pp. 4459-69)は、米国人による評価の極めて有用で冷静な確証を提供している。これら以外に、特定な出典として、安藤の『戦争と華族』、橋本欣五郎の『いわずもがなの印』人物往来1966年3月、秦の『悲劇』(『秘められた昭和史』所収)、今井誠一の『密室・・・』、Ito Takeo、中野〔日本国際政治学界の誤り〕の『太平洋戦争への道、3』、Harold S. Quigley の『Far Eastern War, 1937-1941』(Boston, World Peace Foundation, 1942) 、矢部、横山たけつねの『松井大将伝』(東京、かっこ社、1938年)、を調べた。

 (1) 森島、131頁。
 (2) 日本国際政治学界
『太平洋戦争への道』、第8巻、214-16頁、および、本書、第17−19章を参照。あらゆる陸軍の作戦計画は参謀本部で作成され、裕仁自身により承認された。そして、そうした作戦は、前線の将校側が耐えるべき人的判断範囲を限定した特定の指示--これも裕仁の承認をえた--をもって、現地の司令官に送られた(IMTFE"Proceedings"8111ff、せいじま りゅうじ大将の証言)。
 (3) 第5,6章参照。
 (4) 第7−9章に記された出来事よりの著者の解釈。
 (5) 鈴木貞一 『秘められた・・・』、20-25頁参照。
 (6) 朝日新聞、1937年8月16日、
 (7) 宮中の儀礼の詳細は、本庄、および木戸の日記より。
 (8) 皇居内の庭園、内装の詳細は、Terry および Vining
 (9) 松井の気持ちや信条については、私は彼の親戚である熱海の女神主と話し、また、伊藤金次郎Abend の 『〔My〕 Life in Chana』より彼の性格についての私の見方をえた。
 (10) 伊藤金次郎の上巻209頁は、松井の性格について、深く考察した視点を提供している。
 (11) 原田、6巻、62頁参照、また、元憲兵隊大佐からの聞き取り。
 (12) Abend の 『〔My〕 Life in Chana』、268-85頁。
 (13) 近衛『日記』、320頁。(ここで参照とされた部分は、近衛の秘書である うちば ともひこ により、1937年以降の数年に書かれた鉛筆書きや下書きのもの)。須田、110−参照。
 (14) 蒋介石は40万人以上の兵力を上海に展開していた。Liu, 198頁。
 (15) 朝日新聞、1937年8月14日、同年7月9日。
 (16) 5師団とは、第3、9、11、13、101師団。U.S.Army Force Far East, Japanese Monograph No.7, 12-14.
 (17) 今井『密室・・・』、78頁以降、臼井『現代史・・・』、第9巻、384頁、Crowly, 356-57頁。
 (18) 石原については 『日本人物史大系』、東京、朝倉書房、1960年より、その名を引いた。
 (19) 藤本、187頁。
 (20) 藤本
 (21) 下村の計画については、臼井 『現代史・・・』 第9巻、379−
 (22) 第7章参照。
 (23) 二人とは、武藤章大佐ときみひらまさたけ中佐。
 (24) IMTFE "Proceedings," 2355、『日中』、362頁、『軍ファシズム』、351頁。これは奇異な任命で、島田『現代史』第8巻に再録されている命令によると、第16師団はすでに中沢大佐を参謀長として迎えている。『陸軍実役定年名簿』 1929年9月、255頁によると、彼は元陸軍医科学校講師。中沢は、退役中将、藤沢しげぞうによると(インタビュー)、「拷問人」と描写されている。
 (25) 木戸『日記』、原田
 (26) 退役中将、藤沢しげぞうは、鈴木を上海で見たことを覚えている(インタビュー)。鈴木自身は、東京法廷で、京都を出たことはない、と証言している(IMTFE "Proceedings," 35172-)。1965-66年の私による退役将校グループへの繰り返しの質問では、1937年に鈴木が京都にいたことを目撃したと記憶しているものはだれも居なかった。第16師団の京都本部のなかおかやたか中将
〔中島今朝吾中将の間違いではないか〕以下の人事構成については、臼井 『現代史・・・』 第9巻、213。
 (27) 匿名の退役大将とのインタビューによる。臼井 『現代史・・・』 第9巻、308 参照。
 (28) IMTFE "Judgement," ch. 5, part B, 700-701
 (29) 裕仁の柳川中将への命令は、10月20日付け(臼井 『現代史・・・』 第9巻、213)。
 (30) 松井への1946年3月8日の審問(IMTFE "Proceedings," 3460)。
 (31) 1937年10月7日付け。
 (32) この3パラグラフは、『日中・・・』、282- による。伊藤金次郎、上巻、33、38、57-59、下巻、110−、および、森高、第5巻、41-43参照。
 (33) 二編の短歌は、伊藤金次郎、上巻、59。
 (34) 日本国際政治学界『太平洋戦争・・・』、第4巻、32頁、森高、第5巻、42。
 (35) Liu, 199頁。
 (36) 京都地方の最貧農民層を主体とする強固な兵団(とのインタビュー)。
 (37) 伊藤金次郎、上巻、333。
 (38) Timperley, 72.。彼は「マンチェスター・ガーディアン」の在中国特派員だった。
 (39) 『日中・・・』、286。
 (40) 伊藤金次郎、上巻、106-7 よりの引用。
 (41) 退役した田中大将とのインタビューより。
 (42) 退役した藤沢中将とのインタビューより。
 (43) 『日中・・・』、285。
 (44) 南京への進攻地図、臼井 『現代史・・・』 第9巻、387、『日中・・・』、283-4。
 (45) 閑院宮を通じて出された、臼井 『現代史・・・』 第9巻、390。
 (46) 多田は、支持されている参謀本部作戦課長河辺虎四郎少将より、攻撃を延期するよう、視察先の前線から電文書の助言をうけた、『日中・・・』、284。下村は、武藤章、きみはらまさたけ、そして松井の参謀、塚田おさむ(後の第二次大戦中の寺内大将の参謀)により支持されていた、『日中・・・』、283-4, 343。
堀場〔上下不明〕109-。臼井 『現代史・・・』 第9巻、380。
 (47) おだてすかす下村についての評価は、以後のセンテンスも含め、臼井 『現代史・・・』 第9巻、380。
 (48) 『日中・・・』、343、および、臼井 『現代史・・・』 第9巻、392。
 (49) 同上。
 (50) 臼井 『現代史・・・』 第9巻、230-、に再録されている、第9師団「作戦日誌」参照。
 (51) Jones、60頁、注記4。
 (52) J.T.C. Liu, "German Mediation in the Shino-Japanese War, 1937-38," Far Eastern Quartery, Feb 1949, 16, および Dirksen to Neurath, Dec. 7, 1937, in Documents on German Foreign Policy, 1937-45, series D, Vol, 1, 799 (Wasington, Gove't Printing Office, 1949).
 (53) Hollington K. Tong, Dateline: China (New York: Rockport Press, 1950), 31-48.
 (54) 木戸『日記』、468。
 (55) 中山寧人の東京法廷での証言、IMTFE, "Proceedings," 21893, 33081-, 37238-, 32686 (Camberra).
 (56) IMTFE, "Proceedings," 47171-73 (Camberra).
 (57) IMTFE, Exhibit #2577 (Camberra), 4.
 (58) 朝日新聞、1937年12月8日。
 (59) 退役した田中大将とのインタビューより。
 (60) 田中『裁かれる・・・』、44-45、原田、第7巻、152、安藤『戦争と華族』、下巻、86。
 (61) 原田、第6巻、87-88。
 (62) 木戸『日記』、602-3。
 (63) 同上。
 (64) 木戸『日記』、608。裕仁の心中の洞察については、原田、第6巻、171、175。
 (65) 臼井 『現代史』 第9巻、222。
 (66) 以下の4パラグラフは、IMTFE, "Proceedings," 3520-3552、21362-435、3466-、38181- を基にしている。
 (67) Butow, Tojo, 389、注記46。
 (68) Grew, Ten Years, 204-213.
 (69) 原田、第6巻、189、また、同書 183 では、山本が、米内海軍大臣と近衛首相との会見のことを述べている。その会見で、米内が、パナイ号が沈没した前日の12月11日、裕仁と夕食を共にしたと述べている。
 (70) 退役した藤沢中将とのインタビュー臼井 『現代史・・・』 第9巻、222。
 (71) 例えば、橋本の動機についての松井の説明について、Abend, Life in China, 273.
 (72) 退役した梶浦大将とのインタビュー、および、須田、112。
 (73) 原田、第6巻、180。
 (74) 堀場〔上下不明〕110、ここで堀場は、宮中でのタブーをもとに、その名でなく事務取り扱いから、町尻を特定している。それが町尻であることは、『軍ファシズム』、357、や、同『日中』、347 からも明白。堀場の信憑性についても、『日中・・・』、365。
 (75) 典型的な日本のだじゃれ。「てきがい」とは「荻窪の外」との意であるが、その音は「敵愾」つまり「敵への怒り」を意味する。
 (76) Smythe et al, 4。
 (77) 同上、introduction i。
 (78) J. Van Wie Bergamini より口頭による。
 (79) Smythe et al のイントロダクションで引用されている Rev. James McCallum の雑誌、1937年12月19日号、および、IMTFE "Proceedings," 47174-175, 4470-。
 (80) 3,000ドルは、当時の中国での価値として10,000ドルに相当、日高しゅんろくろうの証言、IMTFE "Proceedings," 21465、南京安全地区委員会から福田とくやす在南京大使への1938年1月7日付手紙、Timperley, 193-4。
 (81) 在漢口ドイツ大使経由でドイツ外務大臣に宛てた Alexander von Falkenhausen のメモ (ドイツ外務省のメモ、電報ファイル、1937年1月-1938年3月、IPS Document No. 4039, Library of Congress microfilm WT-5, 4462-69。22人のうち、ドイツ人は、John H. D. Rabe of the Siemans Co., Christian Kroger of Carlowitz & Co., Eduard Sperling of the Shanhai Insurance Co., Rupert Hatz, R. Hempel, Auguste Gounan。 アメリカ人は、大学教授の Minor Serle Bates, Charles Riggs, Lewis S. C. Smythe の他、J. V. Pickering of Standard Oil, 物理学者の C. S. Trimmer と Robert O. Wilson、YMCA秘書の George A. Fitch、そして、宣教師の Rev.John Magee, Rev. Ernest H. Forster, Rev. James McCallum, Rev. Witt P. Mills, Rev. Hubert L. Sone, Miss Minnie Vautrink Mrs. Paul de Witt Twinem, Miss Grace Bauer。英国人は P. H. Munroe-Faure of British Asiatic Petroleum. 、以上以外に、2人のロシア人、3人のヨーロッパ人がいた。Timperley, 25 参照。
 (82) 第9師団作戦日誌、臼井 『現代史・・・』 第9巻、230。
 (83) 中山やすと証言、IMTFE "Proceedings," 21895-, 47173-17。
 (84) 朝日新聞、1938年2月8日、2月24日。
 (85) 朝日新聞、(東京版)、1937年12月11日。
 (86) Timperley, 24。
 (87) Timperley, 26。
 (88) 橋本きんごろう証言、IMTFE "Proceedings," 3532-。
 (89) Timperley, 27, 171。
 (90) 本脚注 (81) 参照。
 (91) Timperley, 26-7。
 (92) 中山やすと証言、IMTFE "Proceedings," 21899-907、岡田ただし証言、同左、32738、中沢みつお証言、同左、32623-627。
 (93) 松井への弁護資料、IMTFE "Proceedings," 21895-, 47177-183。
 (94) 中山証言、上記、47174-175、日高しゅんろくろう証言、上記、21448-466。
 (95) 安全地区委員会苦情 no. 211, 178, 158, (Timperley, 162)、McCallum の証言 (IMTFE "Proceedings," 44805-)、Bates の1937年12月21日付日記 (同左、2639-)からの推定。また、苦情 no. 5、Hsu, 130 および Magee 証言(IMTFE "Proceedings," 3918-)参照。
 (96) case no. 219、Timperley, 161、強調された Magee の証言(IMTFE "Proceedings," 3910-)。
 (97) Smythe の1937年12月15日の手紙、Timperley, 19。
 (98) Smythe Table 4.。
 (99) Hsu, 160, 162, 164-5。
 (100) 本脚注 (81) 参照。

 (101) 『日中・・・』、286。
 (102) 中山やすと証言、IMTFE "Proceedings," 21905-06, 21913-15。
 (103) case no. 81 and 94, Timperley, 147, 151、Smythe の引用が同書 19, 52, 56、また、Fitch の引用が同書 37。
 (104) 臼井 『現代史・・・』 第9巻、214-5。
 (105) Falkenhausen の報告(本脚注 (81) 参照)、および、Fitch no引用が Timperley, 24。
 (106) Tong, 47。
 (107) Hsu, 163。
 (108) Tong, 48。私の要望で、Office of Information, Republic of China, Taiwan によっても確認、強調された。
 (109) Timperley, 19。
 (110) Bates の証言(IMTFE "Proceedings," 2630-)
 (111) 退役した田中大将とのインタビューより。
 〔この間、約1ページにわたり日本兵の残虐行為の詳細な記述があるが、なぜか、その出所の脚注がない。訳者の推測だが、Timperley による目撃証言をまとめて記述したものと思われる。〕
 (112) 例えば、軍医、Liang Ting-fang 大尉による口供(IMTFE "Proceedings," 3370-)を参照。
 (113) Jansen, 1-5。
 (114) Abend, Life in China, 271。
 (115) 『昭和の記録』、NHK(Tokyo, NHK サービスセンター、1965年10月)
 (116) IMTFE, Exhibit No. 2577、中山の証言、IMTFE, "Proceedings," 21899-907。
 (117) 岡田たかし証言、IMTFE, "Proceedings," 32738。
 (118) 同上書、3510-11。
 (119) 同上書、47183-87, 21901-07。
 (120) 伊藤金次郎、上巻、212。
 (121) Hanayama, 186。
 (122) 岡田たかし証言、IMTFE, "Proceedings," (Canberra) 32749-。
 (123) 朝香宮の本部は、南京から約48キロの地点にあった。飯沼まもる証言、 同上書、32655、,32673。
 (124) 中山やすと証言、同上書、21907-916、Kazue Sakaibara 証言、同上書、32686 、岡田たかし証言、同上書、32752。
 (125) Rev. John Magee の証言、同上書、3900-。
 (126) John Rabe, Library of Congress microfilm WT 5, 4459-62。
 (127) Timperley, 35。
 (128) 同上書、27, 38、Hsu, 161, 171。
 (129) 証言、IMTFE, "Proceedings," (Canberra) 3352-。
 (130) 中沢みつお証言、同上書、32623-627。
 (131) 井沼まもる証言、同上書、32675。
 (132) Abend. Life in China, 270-73。
 (133) IMTFE, Exhibit No. 2577、 "Proceedings," (Canberra) 47187-。
 (134) 日高しゅんろくろう証言、同上書、21448-。
 (135) 松井への審問、1946年3月8日、同上書、3459-。
 (136) 朝日新聞、(大阪版)、1938年1月20日。
 (137) Rabe, Library of Congress microfilm WT5, 4459-62。
 (138) Smythe の報告。
 (139) IPS No. 625 Supplement, Library of Congress microfilm WT5, 641-43。
 (140) 同上。
 (141) 堀場、109-。
 (142) 松井への弁護審問、IMTFE, "Proceedings," 47187-。
 (143) 朝日新聞、(東京版)、1937年12月15日。
 (144) 同上。
 (145) 朝日新聞、(東京版)、1938年2月27日。
 (146) 朝日新聞、1938年3月8日、25日、4月4日、5月31日、6月20日、8月30日、10月28日、11月4日、12月22日。
 (147) Hanayama, 186。処刑の夜、松井は次のようにかたっている。「私は心から皇位の無量な好意に感謝している。それが、南京事件のために犠牲になろうとさせるものである。」(同書、255)。
 (148) 著者自身による推定で、100万人の日本人、250万人の中国人、10万人以上の米国人(太平洋方面において)


 (2006年8月15日、16日一部訂正)
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