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 総選挙結果への両生風視界


 オーストラリアの大手経済紙は、今回の選挙結果を、「Koizumi's mega win」 との見出しで報道しています。
 「改革と経済に日の出」との副見出しのように、日本の有権者が、圧倒的支持で小泉政府の改革前進の政策を推したことを好感し、また「自民党の劇的勝利、オーストラリアに有利」と、その本心に実に正直です。世界(すくなくとも先進各国)も、あたかも、その古いしがらみを振り切った日本を、「世界クラブ」への仲間入りとして、もろ手をあげて歓迎しています。
 たしかに、小泉首相は、古い自民党を「ぶっこわし」、これまでとは違った自民党を作りはじめています。従来の派閥首領間のかけ引きを中心とした、江戸時代の幕藩体制を彷彿させる、伝統的政治システムはほぼ終焉し、首相と内閣に権力の集中した、いわば“国際常識的”な体制に変貌しつつあります。
 つまり、日本政治のローカルルールが存在を薄め、世界基準の国際ルールをよりいっそう取り入れた政治がはじまろうとしている、と見ることが出来ましょう。
 8月30日の選挙公示日に発行した増刊号(「郵政解散」総選挙への両生風視界)に、「再びの『開国』に際して」と書いたように、日本はこうして、最後と言ってもよいヨロイを脱ぎ、名実ともの国際化、グローバル化に乗り出して行こうとしています。
 「開国」などと何をいまさら、との違和感をもたれる向きもあるかもしれませんが、大企業や政府上層レベルならばともかく、国民大衆レベルでは、日本人の日本人さはどこまでも底深く、真実で、こうして流れ込んでくる「国際ルール」が、そうした、いとおしいほどの日本的生活スタイルに、どのように調和、あるいは混乱要因となってゆくか、それはおおいに未知数です。これからの、社会的実験です。
 私は、今回の選挙結果を、30日の段階で予想し(「大差」とまでは読めませんでしたが)、個人的には「不本意」と書きました。そういう客観的予想と個人的不本意とはどういうことなのか、以下、説明しておくべきではないかと思います。

 二段階ギャップ
 私は、こうした選挙結果と、今後の見通し可能な展開について、ひとことで言えば、《二段階ギャップ》として捉えてゆく積りです。それは、「とある島国としての日本村」と「地球化時代の日本国」とでも比喩的に対比できる、時代変化のなかで、国民大衆がさらされてゆく環境の落差です。
 その説明に入る前に、ここで、ひとつの例をあげます。明治の最初の「開国」の際のことです。
 その時、日本は、西洋の資本主義の経済システムを取り入れました。しかしその際、西洋各国で通用しているシステムの全部が輸入されたかと言えば、そうではありません。当時、西洋諸国を視察に出かけた明治政府要人たちは、その視察先の国々に見た民衆運動や労働運動を、「西洋の病気」と見ました。当然に、そうした病気の感染は好まず、先進国のシステムは、選択的にのみ持ち込まれることとなりました。
 そうした 《選択的導入》 の結果が、日本のその後の政治・経済システムに、日本独自の風合いをもたらしたのは当然で、抑圧された民主的運動の一方、強力に構築された中央集権的政治システムができました。その、均衡を欠いたシステムが、社会にいったんの偏向が始まった時、その対抗勢力を育たせず、後に、軍部勢力の独走にブレーキをかけられない結果を招きました。
 こうした事例を、今回の「開国」に当てはめてみますと、まず大きく気がかりとなるのが、金融制度のほぼ完全開放の結果もたらされるであろう事態です。すなわち、国民の金融資産の運用が、銀行金利中心から投資収益中心へと誘導されてゆくことです。つまり、自己責任としての金融リスクの取り入れです。
 これまで、制度保証された金利や元本に慣れ親しんできた人々が、なにかと忙しい毎日の生活に紛れ込んでくる、「投資説明書」とか「投資目論見書」と呼ばれる、細かい字で延々と書かれた文書を示されて、はたして、それを読みこなし、正確に理解できるのか否か。たくさんの誤解や泣き寝入りケースがおこるものと予想されます。
 オーストラリアでも、80年代半ばからの金融開放により同様な変化がおこり、今日では、成人人口の半分が株保有者、つまり、株式への投資者です。その、これまでの道中にあって、投資家への不十分な情報開示や、偽った情報による誘い、その結果、損をした大衆投資家の怒りなど、数々のトラブルをへて、投資者保護の法体系が出来てきています(まだまだ不十分との声は多い)。
 オーストラリアの場合、最初に、こうした金融開放に着手したのは労働党政府でしたし、活発な労働組合運動を通じて、国民大衆レベルの意見反映が、それなりに実行された上での結果です。そうした社会制度上の裏打ちがありながらも、オーストラリアでも貧富の格差は広がっています。
 小泉新自民党が、どういう政策を実施するのか、今後の経緯を見守る必要がありますが、またしても、外来システムの「輸入」が先行され、その“輸出元”でさえ、長い時間と苦い教訓をへて積み上げられてきた、その弊害をバランスさせる詳細なルール作りがあるわけで、そうした裏の仕組みが軽視され、再度の、少なくとも結果的な「選択的導入」が発生するに違いないと、危惧されるものです。
 ちなみに、義務教育では、英語教育という、私の見る「国民の国際化対策」が長く施されてきています(それでも現在ほどの英語に不自由しない日本人の程度です)。それに並ぶ、投資行為教育も与えずして、国民をおしなべて新たな金融ルールにさらすことは、前提からしての、大きな不公平を作り出すことにならないか。(私は、投資という行為が不必要と言っているのでは決してありません。リスクをとって可能性に挑戦するのは、人間として実に健全な精神と思います。ただし、お金という日々の生活必需手段に、投資という実に複雑で奥深い世界が、常態として付随するようになるには、全国民が、その、「読み、書き、ソロバン」を常識として身につけていることが前提です。)
 その結果は何か。疑いなく、急速に進むであろう、貧富格差の拡大に代表される、日本の伝統的均質(つまり日本的平等)社会の崩壊があげられるでしょう (日本という自然災害頻発国に、和製「ニューオーリンズ」があったとしたら?)。

 つまり、《二段階ギャップ》とは、こういうことです。
 第一に、日本は、文化的にも、社会的にも、いい意味で「隔離」された、ユニークさを持っていますし、それが日本人のアイデンティティーのみなもとです。そうした意味で、「日本村」は維持される必要があります。しかし、開放に向かう現代の世界的潮流のなかで、ひたすら「鎖国」的保護主義に頼ってその維持を計るのは、望ましくも、有効でもないでしょう。つまり、「日本村」と、開放とを、どう両立させるか、そこが、第一のギャップです。
 第二は、今の「日本国」は、名実ともの、国際的に開放された先進国のひとつです。しかし、国民レベルで見た場合、日本語というローカル言語にもっぱら頼り、諸外国との違いにナイーブ、といった特徴を持っています。そういう意味で、国民一人ひとりが、誰か一人でも、外国人の親友を持てるような環境が出来れば理想的と思います。つまり、私たちの日常生活レベルにおいて、心地よい同胞意識と、いろんなところで違う外国人(や外国文化)とのギクシャクした付き合い、というギャップにあって、ともに優劣をつけることなく、なごみ親しんでゆける、体験的自信が必要です。
 独裁化、すなわち、今選挙を通じて誕生した大勢の「小泉チルドレン」を率い、「奇胎」の親父となること(「郵政解散」総選挙への両生風視界 参照)も不可能でない新自民党政府のもとで、「小泉民営化に反対するもの、日本人にあらず」、といった風潮が蔓延して行く恐れがあります。
 そうした中で、何を守り、何を改革してゆくのか、それらをはっきりと分別すること、それを見失ってしまうと、気付いた時は、素っ裸、加えて、いくさの真っ只中、ということにならないとも限りません。

 (松崎 元)
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