「両生空間」 もくじへ 
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「星友 良夫」 だった人について


 七十を越えた人生の大詰めで、自分の生涯を成してきた幹ともいうべき事柄が、まぎれもない嘘や虚構で彩られていたことを覚るという、それがもしあなたの経験だったら、どうされるでしょう。
 そうした、悔恨と痛惜がいく重にもかさなってしまう、悪夢のような発見をしてしまった人。
 ただ、ここにそういう人がおいでですなどと、ゲスト紹介をするTV司会者のような言いようはできません。
 本来なら、そうした、傷口を人目にさらすようなことはむしろ避け、何もしないで、そっとしておいてあげたいことです。
 そうではあるのですが、ひどい重傷患者に向かう外科医のように、この課題にとりかかろうとしています。

 その人は、「星友良夫」という方ですが、じつはもう実在していません。かといって、その人はすでに故人かというと、そうではなく、私の親しい知人として、今もご健在です。
 と言うのは、この「星友良夫」という名は、いわゆる「創氏改名」により、朝鮮人としてもつ生来の名を奪われ、強制された日本名であるからです。
 そうした重い時代に目を配って考えると、本貫が星にちなむことから「星友」という、まるで童話の主人公のような姓と、「良夫」という、平凡ながら、てらいのない名を考えたそのお父さんの、愛情深い人柄とともに、子に託す望みや苦悩のほども偲ぶことのできる名前です。
 その星友良夫氏が、2002年7月、移民先のシドニーで、病弱ながらとても聡明であった奥さんを亡くされました。
 その死別をきっかけに、星友氏は、長年の伴侶のことながら、またそれだからこそ、かねてから気付きつつも手をつけられないでいた不可解な事柄をさぐるうちに、驚くべき事実に遭遇します。
 自分の妻が、「二重人格者」であったとしか受け止めることのできない、そうした事実が、彼のまえに、しだいしだいに明らかになってきたからでした。
 妻が本当は「二重人格者」であった、とは、伴侶として氏自身が深く接した人物と、身体的には同一でありながら、氏からは完璧なほどに隠れていたもう一人の人物が、別々に存在していたことにほかなりません。
 お二人には二人のお子さんがおいでで、しかも、結婚以来40年余りを連れ添い合ったごく当たり前のご夫婦です。それほどの長き年月とあまたの生活場面に、そうした偽りが隠されていた事実を知るに至った際の驚愕と狼狽を、あなたなら、どう切り抜けられるでしょうか。
 さらに、追って述べるように、今の国別で言えば「韓国」釜山出身の星友氏と「北朝鮮」出身の奥さんという二人の人生は、その個的苦難を培養、増殖させる、日本と朝鮮半島をめぐる歴史にも翻弄された生涯でもありました。
 まさしく、本講座の初回で触れたような、「生かされた歴史」が個人の生涯にどれほどの刻印を与えるものなのか、切れば鮮血が流れるような生々しい具体例として、私は、それをこうして文章にすることへの少なくないためらいを抱きつつ、この役どころにのぞもうとしています。
 どの歴史をとってみても、そこにに生きる庶民は、選択可能な歴史を生きるのではなく、どうにもこうにも選びようもない歴史を生かされるのが常です。そうした生を生き、しかもその生が、広く歴史的次元のみならず、自分の個的次元においても、思いもよらなかった虚偽に染色されていたという、その二重の虚構の存在を知った時、人はどのようにその欺かれた人生を受け止め、思い直し、再度立ち向かってゆくことができるのか。
 以下は、私も、その末幕での登場人物の一人となることとなった、そのドラマの記録です。

 日本語を介するという「幸運」
 まずはじめに、これは、今回の本題からはややそれる視点ですが、言葉に関してです。
 私は、この星友良夫氏とは、日本語で話し合えるという「幸運」にめぐまれています。ただし、この日本語という共通語があったということは、これは「運」の問題ではありません。
 かって日本が、朝鮮半島を植民地化し、その地の人々に日本語を強要したという、歴史的事実に由来するものです。つまり、60年以上も昔の植民地支配が、いまでもそのように、確かなあと形を残し続けている、ということです。
 この意味で、いったん世界、あるいはその一部を支配すると、その痕跡は長く残り、一方的ながら、支配側はその利得を受け取り続けるという現実です。
 目を転じて言えば、日本語は、一時はアジアの一角をおおう言語となりかけたわけですが、敗戦により、その試みは頓挫しました。他方、英語は、その宗主国の植民地化の試みが広範囲かつ“成功裏”におよび、その結果、国際語として通用、定着するまでに至っています。
 私は、こと朝鮮半島に関しては、個人としても深く関心があり、その事情をつっこんで学びたいと思い、いくらかは実行してきました。そういう意味で、深く学ぶには、その言語を理解し、こちらから入って行く努力くらいはしなくてはと考えていました。
 しかし、星友良夫氏と出会い、日本語というかっての侵略者の言語を通じ、その関心の対象である朝鮮半島について話し合えるようになったわけです。もちろん、氏とのやり取りは、互いの個人的見解の交流を越えるものではありませんが、むしろそこには、他の何ものにも代えられぬ一人生があります。
 この「幸運」を何と受け止めたらよいのでしょう。ここには何か、歴史にまつわる、ある種のむごさがあるように思います。
 ひるがえって、英国人、アメリカ人、オーストラリア人など英語圏の人々は、自覚しているかどうはともかく、この種の有利さとむごさを、今日、フルに活用していることは言うまでもありません。

 ひとつの「オーラル・ヒストリー」  
 本題にもどります。
 その先ずはじめに、今号に別掲載の 「オーストラリアは地続き(続) 書評『ラディカル・オーラル・ヒストリー : オーストラリア先住民アボリジニの歴史実践』」 に詳しく触れていますが、私は、こうして聞き取ることとなったひとつの「オーラル・ヒストリー(口述歴史)」に、そこで言う「歴史への真摯さ」という姿勢を志し、のぞんでゆこうと思っています。
 そもそも星友氏と私とは、シドニーの下町地区の、あるアパートの上下階に住み会うという偶然に端を発し、そのあたりではめずらしく、互いに日本語を話すというさらなる奇遇も加わって、日ごろから、親しく会話を交わすご近所付き合いを始めていました。そしてやがて、そうしたお付き合いが深まり、性分や趣向でも似かよっているところがあることから、しだいに親交を持ちはじめていたところでした。
 そうした氏と私が、亡くなった奥さんの件について、あたかも共通の研究課題を扱うように、それを議題に定めて話し合うようになったのは、葬儀がひと段落した頃、みるからに憔悴した氏が、苦痛を内に秘めて、とつとつ語り始めたことがきっかけでした。
 最初、その独白のような語りは、怒りを含んだ口調にこめられた、亡妻についての氏の懐疑や一種の恨みが主調をなしていました。
 それまでは、奥さんのことについて、氏は、一抹の懐疑がありながらも、それを追求するのは相手を詮索するようで、あえて避けてこられたようでした。しかし、その奥さんも亡くなった今、また、そうしてこれから独りで納得して生きなくてはならない節目にもあって、そうしたためらいは捨て、その謎解きの作業に取り掛かっておられました。
 人の死は、関係者を一堂に会させ、普段、胸にしまっていた逸話などを交わす機会となるものですが、そうした諸話題のいくつかは、かねてから氏の胸中に巣食ってきた故人についての謎をいっそう浮かび上がらせ、やがて氏は、いく人かの親戚に、それとなくではありながら、踏み込んだ質問を重ねてこられていました。
 私に上記のような独白を始める時までには、いくつかの手掛かりを通じ、亡妻の不審な行動を、それなりの確信を持って把握されていました。しかし、それが判明すればするほど、氏の狼狽は深まり、そうした独白につながっているようでした。
 そのようにして、幾月にもわたった我々二人の間のやり取りは、まとめれば、それこそ一冊の本にもなる、ご夫妻のそれまでの足跡の、一連の見直し作業でした。ただ、その詳細の再現は、ここでの目的ではありませんので要所のみにとどめますが、私たちの討論が達した結論は、亡き奥さんは、氏にそれほどに驚愕と狼狽を与えることができたほど、完璧なまでの「二重人格者」ではなかったのかという、当初では、氏すら思いもよらぬ到達点でした。

 環境要因の究明へ
 氏の話を総合すると、亡くなった奥さんは、今の北朝鮮の地主の家に生まれたものの、母親はその出産がもとで早死にしたため、父親は、生まれたばかりの次女の彼女を小作人の乳母に預け放しにし、ひどく疎んじていたということです。
 彼女の分離した人格形成の根には、親の愛情への無垢な渇望に加え、父に偏愛される長女との間の愛憎同居する姉妹関係が初期寄与要因と考えられ、さらに、故国の植民地化による社会的騒擾のもとで、そうした歪んだ家庭環境は改善されないばかりか助長され、むしろ内的自己と外的自己のギャップへと成長し、ひとつの人格へと統一されないだけでなく、それぞれを代表する二重の人格の形成へと向い、それが不幸にして定着して行ったもの、と推察されました。
 日本の敗戦後、地主階級であった家族は、共産化した「北」の社会から「南」に逃れますが、高等女学校在学中の彼女はそのまま「北」に残ります。そして、卒業の後、彼女はひとりで国境をこえ、離散した兄姉をたずねて、南にやってきます。
 そこでめぐりあった男との結婚は失敗、生まれた一女をその男に任せ(歪んだ親子関係の再生産)、再出発しようとします。そして、やがて出合った星友氏とは、その結婚を、都合の悪い事実はなんとか隠してでも、是が非に追求しようとします(防衛行動)。
 その一方、星友氏は、物心ついて以来、日本人として教育され、成長して来ながら、日本の無条件降伏による植民地の解放と混乱で、育んできた価値観の天地が逆転したばかりか、友人を含む社会関係も崩壊してしまいます。日本人学校では常に級長をつとめてきた学業優秀な氏は、またそれゆえに、新たに到来した無秩序で赤裸々な世界になじめず、青年期を煩悶のうちにデカダンス派的生活についやします。
 やがて、めぐり会ったその聡明ながら薄幸な女性を、何とか支えたいと思いやって結婚し、持ち前の知性を生かして、人並み以上の家庭を築きあげ、一男一女をもうけます。
 激動する韓国社会のなかで、手がけた事業の失敗をへつつも、なんとか家族のきずなを守り続け、やがて子供達も、優秀な成績をあげ大学を卒業するまでに成長、そして長男は結婚します。
 韓国社会に馴染めない長女のオーストラリア留学と在豪英国人との結婚を機会に、長男家族をソウルに残して、ご夫妻はオーストラリア移民を決心します。1990年代の始めのことでした。
 この移民を、その二重の性格をフルにつかって準備したのは奥さんでした。方や、子供や親族には、夫の架空の性格的欠陥をよそおい、周囲を自分のもとに引き付けようとし、他方では、先にオーストラリアに移民した姉を頼って(過去のアンビバレントな関係の再現)、国を捨てる工作をします。
 息子さんにしてみれば、かっての愛情あつい父親がまるで自分を見捨てるかのような行動に、失意にかられ、父との間に深い亀裂を生みます。
 移民してきたオーストラリアでは、まさに不慣れな生活の開始であり、また、不仲になりがちな夫婦関係による鬱憤をそらすためか、奥さんは夫に隠れてギャンブルにのめりこむようになり(依存機制の存続)、そのための秘密の借金を重ねてゆきます。その際でも、二重性格は総動員され、ウソにつぐウソを重ね、ついにはその上塗りもできぬまでに切羽詰っていった頂点で病に倒れ、とうとうこの世を去る事態にいたりました。
 妻の死で、ある意味での問題の解決は見られたものの、それに代わり、しだいに判明される亡妻にまつわる不愉快事に誘発され、少・青年期の、時代に流されたかのような不如意な暮らしも悔恨をもって思い出され、まるで自分の生涯全体が欺かれたのも同然に思える氏の人生への落胆の様は、それを気の毒というのもはばかる、じつに痛々しいものがありました。

 歴史と精神分析の両手法
 私は、そうした氏と奥さんの「歴史物語」をうかがいながら、深く関心を呼び起こされる、あるものを発見していました。それは、故人をふくめ、氏や家族をそのように追い込んできた、時代や公私の環境の役割が、一種の因果関係として見えるように思えたからでした。
 というのは、20年ほど昔、渡豪に至るまでの8年ほどを、私は日本で、ある建設技術者の労働組合の専従役員の仕事をしていました。その職務中のある暑い夏の日、組合員の自殺未遂事件が発生しました。安全衛生担当の役員として、この問題に取り組む必要から、私は、もともと関心を持っていた精神分析から、さらに、精神衛生やメンタル医学のあらましを、独学ながら学ぶこととなりました。そうした経験と学習により、人間の精神は、過酷な環境によっては、その外的因子が原因で、病んでしまうことがあるという知識を得ていました。つまり、期せずして、その経験と知識が、ふたたび役立とうとしていたのでした。
 星友氏は、自分の人生の、そうした、どんでん返し劇のような思いもよらぬ結末に、それを演出したかのような亡妻に、否定しきれぬ、強い恨みを抱いているようでした。しかし、私には、その結末を、たとえ故人のせいに帰したとしても、息子さんや娘さんにとっては、その母の血も引いているわけであり、そうした、いわば「個人因子説」による説明付けは、問題の転嫁や再生産にもなりかねない、危険な考え方に思えました。
 それよりも、私が注目していたのは、亡くなった奥さんの二重人格が、生まれ育ってきた環境に起因する精神的障害の典型のように考えられたことです。
 幼児期に不可欠な庇護や愛情の欠如、小児期の姉との確執、成長後の、殖民地の解放と社会混乱による方向の喪失、朝鮮戦争による一家離散、最初の結婚の失敗、といった相次ぐ過酷な環境要因は、脆弱な幼・小児期の自己形成に極めて大きい混乱要因をもたらした後、統一的な人格の形成へと導かれぬまま、成人となっても分離した人格は維持され、ついには、変転する環境に適応するため、むしろ分離した人格をあえて利用するようなこともあったのではないか、そのように考えたられたからです。
 もちろん、故人の心の構造なぞ実証のしようもないのですが、その二重性格を、本人の因子、つまり、遺伝特性として捉えることは、欺かれてきた夫の恨みの向い方としては自然でも、故人の血をひく二人の人物がいる以上、そして、氏自身の良心にとっても、それは余りに禍根を残す見方、と私には思えました。
 従って、それが万一、医学的権威を欠く見解であったとしても、私には、その後の家族関係を考慮すれば、そうした「環境説」はその観点で正しく、ぜひとも取り上げられなければならない見方である、との確信をしだいに深めていました。
 以上のような、関与する歴史事実の認識を背景に、精神分析的手法を用いた亡妻の行動の分析は、星友氏にとっても、次第しだいに納得できるものとなり、それに伴い、氏のやり場のない怒りや悔恨もやがて和らいで行っているように見えました。また、何よりも大きな収穫は、二重性格がもたらしていた家族関係の撹乱や様々な歪みの再生産的波及行動が防止された結果、あたかも闇夜が明けるように、親子三人に、確かな相互理解とふくよかな愛情関係が復活してきたことでした。

 「歴史」というもの
 以上の星友氏の経緯が示唆していることは、私たちが、時として追い込まれる袋小路は、往々にして、「歴史に生かされる」こと、つまり、自分の判断を超える力によって強制される、知らず知らずのうちに背負い込まされる負荷によるものがある、ということです。そしてそれは、気付かぬうちに荷なわされるため、本人はあたかも運命かのように受け止めがちです。
 つまり、身の回りの環境を含む、広い意味での「歴史」を的確に捉えることにより、もちろん、それを拒否はできないにしても、相手が何か、それがどのように影響してきているのかは認識できるわけです。
 この認識の有無は天地を分けます。同じ怖いものでも、相手が何者かを知っているのと、わけもわからぬものであるのとは、怖さの程度の違いは言うにおよばず、その対策において決定的な差が出ます。
 以上の星友氏のケースでは、主に、歴史学と精神分析学が、襲ってきている相手の分析を行う道具となりました。むろん、ケース次第では、用いられる道具立ては異なります。ともあれ、苦難に遭遇した際、そうした道具を使えるか否か、それは、その人の生死を分けると言っても過言ではないでしょう。

 星友良夫氏は、今日の国所属では韓国系オーストラリア人ですが、どこをとっても、純粋な韓国人アイデンティティーをお持ちです。私は一人の日本人として、氏は丁寧に接したい隣人であるばかりでなく、個人としても誠実でありたい友人です。その氏に、まぎれもなく、深い傷跡を残してきた「歴史」というもの。
 この「歴史」なるものを、いかにして私たち自らの側に引き付けるうるのか。
 上述の保苅実氏は、その著書『ラディカル・オーラル・ヒストリー : オーストラリア先住民アボリジニの歴史実践』に、アボリジニから学んだ、その「歴史」を自らの側に引き付ける方法論の手掛かりについて、文字通り、生命を結晶させて、論じています。
 「生かされる歴史」から《生きる歴史》への反転。私は、保苅氏の提唱する「歴史実践」という学術的な概念にこのような「俗世」的意味を込めたいと思います。そして「両生学」を、こうした転換を支援する私たちの道具箱として、堅持、充実させてゆきたいと願うものです。
 私たちの共の「歴史実践」は、星友良夫氏の人生への「環境要因」の発見ばかりでなく、私たち自身の人生の「環境要因」の発見をつうじて、さらに「共奏」する和音をかもし出してゆくことでしょう。

 (松崎 元)
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