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両生学講座 第6回(両生哲学)
 


    逆算としての「ポスト構造主義」



 今回の講座は、かなり大胆なこころみです。人類が積み重ねてきた哲学的諸思考のなかから、今日的意味をもつ発展について、 “見渡し” をしてみようというチャレンジです。
 ことにこの「見渡し」のねらいは、前回、「疎外」という概念が今日を考える上で重要であることを指摘したのですが、この問題は、取り上げようによっては、きわめて基本的な、人間についての深い問いにもおよんでおり、哲学的潮流を見渡した検討が必要と思えるためです。


 話は二重の意味で、逆算的な形をとります。
 第一は、前回の議論の中で、私は、「個体発生は系統発生を繰り返す」プロセスをたどるように、フランスの思想をサルトルまで系統的に体験検証したと述べました。それは20歳代でのことで、それ以降は、生活にかまけて、サルトル以後の思想発展も、まして、自分の “個体発生” と重ね合わせた検討などとも、縁の切れた生活をしてきました。
 それを、最近になって――人生の「終盤」期に移りつつあることなども意識し――、かろうじてながら振り返ってみて発見したことは、意外なことに、どうやら私のたどってきたことは、紆余曲折はあるものの、その主眼点において、いわゆる構造主義やポスト構造主義の思想家たちが主張してきたことと、そんなに大きく隔たったことではなかったようなのです。
 第二は、思想界で、構造主義やポスト構造主義が到達したものを、今日から振り返ってみるという「逆算」として、さらにその結論から先に述べます。すなわち、私のみるところ、現代のその潮流は、サルトルを最後に、戦後初期までの思想界を風靡したいわゆる「マルクス主義」に代表される経済的要因決定主義が、戦後も後半になって新たに登場した構造主義によって根底的に批判され、あたかも、哲学界全体が、下に述べる「デカルト的懐疑」という、「ふりだし」に戻されてしまったかの感があります。
 こうした二重の逆算的「見渡し」を、私は、一人の生活実行者として到達した、現在の私の立つ地点から行おうとしようとしているわけですが、その結論として言えることは、乗り越えられたかに見えたマルクスの提起した問題が、贅肉をそぎ落とされたかたちで、今日も存在し続けているようだ、ということです。ただ、その存在の様式は、はるかに個別思想化したものとなっているのは確かなようですが。

 まず、第二の「逆算」から入ってゆきましょう。
 17世紀のフランスに、デカルト(1598-1650)という哲学者がいました。この名を聞けば、「コギト、エルゴ サム」、つまり、「我おもうゆえに我あり」のデカルト、と思い出す人も多いかと思います。この人は、数学の世界でも顕著な貢献をした人で、私たちが今日用いている、たとえば、y=x2+2x+4 といった数式の表記法や、座標による平面の表し方などを考案した、解析幾何学の創始者でもあります。
 また、思想界に、そのデカルトの名を冠した、「デカルト的懐疑」という言葉があります。ひとことで言うと、「何でもかんでもを疑ってかかれ」ということですが、何が真理かと探求するとき、「それは神がさだめるもの」といった当時主流の見方に対し、人間の思考にもとずき、「一切を疑ってみて、あらゆる面からの疑いを取り除き、それでも残ったもの、それが真理である」との見方をとなえました。その際の出発点となっている、《考えている私》は疑いようがなく、それを「cogito, ergo sum」と称しました。
 それ以来、そうして導きだされたさまざまな真理にもとずき、多分野の科学=science(ラテン語で「知る」の意)が発達しました。そして、今日に至っては、そうした数式を駆使した高度な計算に基づき、たとえば、火星に探査機械を着陸させ、岩石を採集して地球に持ち帰ってくるような離れ業まで、可能となってきているわけです。
 私が、工学部の学生となって、透視(遠近)画法の描き方を学んだ当初、通常の(平面、立面、側面という三面からなる)製図の作成の際には感じられない、なにかエキサイティングなものを一人で感じていました。というのは、何より、まだ実在していない設計段階のものを、二次元の平面上にではありながら、その完成像を写真のような実視像として描ける技法であったからでした。あたかも、未来を描いてみせる預言者のように。
 ただ、こうした技術は、歴史をたどれば、デカルト時代に発見された幾何学を基礎としたもので、そういう意味では近代の中でも古典的なものに属します。つまり、大学入学までの中学、高校時代の数学の勉強も含め、私が学習してきたことは、近代を形成した一連の科学知識の礎となった知識体系で、思想的系譜としては、構造主義以前のモダニズムを形つくるものでした。
 そうして、大学も出て、十分武装したはずの私が、いよいよ生産者としての役を担いはじめて遭遇したことが、前回に述べた「疎外」体験であり、また、初めての辞職をめぐる、「想像ホームレス」体験でした。
 つまり、当時の社会的評判として、文字通りの「花形」職種である建設技術者であったはずの自分の仕事をそう体験したわけです。これは、社会や文化が私に与えたそうした一連の高等教育をもってしても(あるいは、それがゆえに)、私が何かを失っている、少なくとも、何かを獲得しているとかハッピーであるとかとは感じていない、ということでした。ひとことで言って、その当時の私のつぶやきは、「誰かの手足にされている」でした。
 つまり、そうした疎外体験が、どうごまかそうとしても、労働や、ことに搾取関係と深く関わっていたのはまぎれのない事実でしたので、私の内の何かが、そうした角度からの取り組みを要請していました。しかし、私が負っていた条件は、その場で直接にそうした試みに出るのは余りに徒労に見えさせ、退職という迂回路をいったんへて、二十歳代末から、建設技術者の労働組合のフルタイム職につくという形で、労働にかかわる疎外問題への、私なりの取り組みを始めたわけでした。
 そこでの仕事は、私にさまざまな獲得を経験させ、楽しさや充実感も与えてくれるものでしたが、それでも、企業内労働組合を結成したり加入したりできる労働者たちを対象とした仕事でした。加えて、その仕事で遭遇した、鬱病を原因とする自殺の労災問題の経験は、たとえ当面の運動に (初の認定事例として) 成功したとしても、そのような先駆的運動ですら、労働災害の補償獲得という後追い作業であり、「システムの尻拭い」とまでは言わずとも、その補完装置たる体験でありました。つまり、そこでは、「誰かの手足」ではなかったにせよ、「何かに取り込まれている」 という意味で、その枠組みは依然と変わってはいなかったのでした。
 その当時、浅田彰の『構造と力』 (今日でも「ポスト構造主義」への良き入門書のようです) をけっこう熱をいれて読んだ記憶はありますが、自分の問題として消化できるまでには至っていませんでした。
 そして、1984年秋、オーストラリアへ旅立ち、留学生経験、さらに、オーストラリアへの定住をきっかけに、「両生」生活が始まりました。

 私がここで言う「モダン」と「ポストモダン」の区別は、一般的使用法とさほどずれていないと思うのですが、私の体験上では、1970年代の末から80年代の、いわゆる「ソ連型マルクス主義」時代の終焉、左翼思想の曲折、自由市場経済思想の隆盛などが混在して顕著となる、緩慢ながらもの、世界の右傾化=脱社会化の時代という私の受け止め方と対応しています。ことにこの時期、哲学界では、構造主義の登場がもたらした<構造>という概念による、すべての権力の相対化観(いわば、資本の悪も、人間性の悪も同列の問題となってしまう)が起こっていたようです。ここに、思想的な節目が生じたわけです。
 ことに、私にとって、「ポストモダン」の始まりをもたらした体験は、上記の自殺の労災問題との取り組みを契機に、自分の心身を研磨はしても健康を志向するはずの<私>が、自らの心身を病気に至らせるまでも “自主的に” 自己を追い込んでしまう、そうした社会・文化システムの発見でした。
 そうしてオーストラリアにやってきて、当初私は、こうした労災としての精神疾患問題の経験をテコに、それに詳しいその先進国日本からの専門家として、自分を豪州社会に売り込むような行動をとっていました。というのも、労働運動が進んだオーストラリアでは、労働条件は日本より良好で、かつ、労災問題へのチェックも厳しく、精神疾患が労災として発生する状態までには至っていませんでした。つまり、オーストラリアでは、まだ、「モダン」の枠組みがそれなりに機能していました。
 さらに、そうした「モダニズム」が生きる社会のオーストラリアでは、こうした経歴をもつ“中年”留学生である私に奨学金を支給し(日本の常識では考えられないことでした)、私の「モダン」な人生の延命を助けてもくれました。
 しかし、さしものそうしたオーストラリアも、世界の潮流から孤立してはおれず、80年代後半、労働党政府によって、そして、労働党政府だからこそ成功裏に労働組合を説得でき、経済自由化政策の導入が始まり、経済システム面での「ポストモダン」への変化が始まりました。こうして、金融市場自由化を筆頭に、労働市場の自由化にも着手され、古典的常用職は減少する一方、使用者に便利なカジュアル(臨時職)やそれに伴う労働者派遣ビジネスが急速に拡大してゆきました。
 さらに、96年の自由・国民両党連立政府への政権移譲の後は、労働組合抑制政策も加わり、オーストラリアといえども、その労働環境は厳しいものへと転じはじめ、「古き良き」オーストラリアは批判され、現代的ストレスの充満する社会へと変貌してゆきます。そして今日、鬱病と自殺が、自由主義政治の一人のリーダーによっても、「社会の懸案」としてとりあげられるまでになってきています。
 構造主義には、疎外が人間の存在自体にかかわる「不足」やそれゆえの「欲望」の問題とする議論があり、歴史的進歩という概念すら否定する見方もあります。しかし、だからと言って、宇宙探査ロケットが火星に到達しなくなるわけではありません。また、そうした<構造>が、世界を網羅しているとの証明がされているわけでもないようで、<構造>外での議論の余地も存在しうるはずです。
 私見ですが、構造主義の議論が、イデオロギーや支配力を背景とした「大きな物語」を突き崩したことは歓迎できます。しかし、自分の生を考えた時、生活にまみれながらも、私にまつわる「小さな物語」に、上記の<構造>外の可能性を見出したいと思っています。なお、この私見には、ジャン=フランソワ・リオタールの議論 (キャサリン・ベルジー著『ポスト構造主義』、岩波書店、p.154-65 より) に多くを負っています。
 そうした観点で、「小さな物語」 のジェネレーターとして、脳や心脳問題についても深く関心があり、近じか、そうした議論に取り組みたいと考えています。
 このようにして、この間の私にとっての、ポストモダンな、そして、極めてポスト構造主義的な疑問――いかに文化・社会の 《複製品》 となることを拒否できるか――との問いには、ひとつの問題が随伴します。すなわち、上記の「想像ホームレス」問題が変じて、結局、「永遠の愚者」 (良くとも 「永遠の変人」 ) という世間的呼称をどこまで 「自称」 として忍耐しうるかとの問いへと姿を変え、あたかも時代の新旧をもつらぬく普遍的命題かのごとく、ポストモダンな時代にも棲息し続けています。
 もちろん、揺れる内心もつ俗人として、私は、<文化の神> による審判を待つ受身を否定はしません。しかし、この卑俗なほどに伝統的問題の克服なくして、いかなる先端的議論も、 「商品」 を超えるものにはなりえないでしょう。

 最後に、このようにして、二重の「逆算」による議論を終えようとしているのですが、しかし、なぜ、「逆算」であったのでしょうか。
 本稿の冒頭で、私は、「生活実行者」としてこの「逆算的見渡し」を行うと述べました。一方、この間、私が扱ってきた議論は、まず全部といってよいでしょう、大学教授や著述家など、職業的思想家たちによってなされたものです。つまり、生活実行者であることとは(職業的思想家と違って)、何らかの形で、その主な役割の“完了”にめどがつかない限り、「見渡し」 などという二次的作業には、まず乗り出せないということです。すなわち、「逆算」 とは、そうした何らかの形として 《リタイアメント》 を得、そこでようやく始めうる作業が、「逆算」との形をとる以外にはありえない、ということだと思います。
 先に 「星友 良夫」 だった人について でも述べましたが、「生活実行者」にとって、歴史は「生かされるもの」でしかありません。つまり、もし気付いたとしても、その時すべてはすでに過去のことです。それは、一人ひとりの人生についても、まさに同じです。ただ、ある一点において、それをいくらか取り戻せる可能性がありそうです。それが 《リタイアメント》 です。
 また、だからゆえに、この 《リタイアメント》 に関連する可能性の開発として、この「両生学」が出発したのでありました。
 しかしながら、ここでも、凝視しなければならない現状があります。それは、その、せめてもの 《リタイアメント》 すら、ますます細る年金や、そもそも、「老後の準備」など手が回らなかったため、ほとんど終生の勤労さえもが現実である人々が増えていることです。
 文字通りのリタイアメントをエンジョイできる時代を「モダン」とすれば、「ポストモダン」は、それすらが「絵に描いた餅」となってゆく時代のようです。
 その意味で、「ポスト構造主義的な疑問」が、“プレ”モダンな疑問と背中合わせとなってきているこの状況こそ、《ポスト構造主義》 が 《ポスト・ポスト構造主義》、あるいは、《脱ポスト構造主義》 へと移りつつある証、とも指摘できうるのでしょう。

 (松崎 元、2006年1月12日)
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