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「自足自律機械」しかけの私
学生時代、ワンダーフォーゲル部に属し徒党を組んで山に登っていたのですが、社会人になり、仕事の合間に休暇などをやりくりして出かけるようとなると、同行予定の友人が急な仕事で合流できなくなるなどといったことがよく起こり、やむなく単独で行動することが多くありました。そんな折、慣れ親しんだ山ならいいのですが、初めての挑戦をしようという時などは、なかなか緊迫ある体験をさせられました。
たとえば、一週間程の日程で、標高三千メートル級の山歩きをする場合などでは、衣食住を詰め込んだザックはそうとう重く、山行はハードで、かつ、たとえシーズンは夏であっても、もし天候の急変があったりすれば、命にかかわる危険に遭遇する可能性すら十分にありました。
そうでなくとも、登山には通常、地図は文字通り必需品で、山中にあって行動中は、自分の現在位置を、そのルート上に刻々と発見し続けることなく、無事、予定通りに、下山できる見込みはまずありません。
まして、悪天候にまきこまれたり、疲労で判断力が鈍ったりしてくると、その現在位置が、「ここである」といった客観的な判断から、「ここであるはず」とする可能的なもの、時には「ここであってほしい」といった希望的判断にすら傾いたりします。
そして、そうした誤差を重ねた結果、最終的には、とるべきルートを間違えるとか、宿泊予定地に日没までに到着できないといった、危険と背中合わせの事態にも至りかねません。ましてそこに不測の事故が重なったりすれば、事態は決定的となります。もちろん、行動中は、「観天望気」といって、雲行きの観察もおこたらず、天候の変化を予想していたとしてもです。
そのような、ことに単独行で、きつい心身ともの負荷を自分自身に与えている際、「私(厳密には私の脳)が、私の身体活動によってサポートされ、そしてまた、その身体にその私(脳)がさらに指令を出している」
という、まさに、自分が 《自足自律機械》 しかけであるかのような体験をします。そして、この精巧な機械の運転を誤るとき、そこに一連の悪循環が作用しはじめ、やがて、その健康や生命が危ぶまれる結果に至ることになります。
この 《自足自律機械しかけの私》 というモデルには、二重の含みがあります。
第一は、《身体としての私》という側面で、通常の機械にメンテナンスが必要なように、この側面での「メンテナンス」として、身体健康管理が必要です。比較的、常識的な面といえましょう。
しかし、私たちの身体には、その頭部に、脳という、私たちの心や精神活動をつかさどるとともに、身体の様々な器官を統合させる総司令部としての働きをする、特異な臓器をもっています。これを言い換えれば、《脳という臓器としての私》、つまり《脳=私》、という第二の側面もあるわけです。
また、脳は情報中枢に特化した機能を果たす臓器ともいえ、1000億にもなるという神経細胞からなるかたまりです。さらに、その働きを維持するためには、その脳に活動“物資”を供給するその他の器官の“協力”が前提となっています。つまり、脳は自分では、必要な栄養を摂取したり、血液をつくったり供給したりする“下部構造”にはかかわっておらず、そうした作業を他の器官の働きに頼っている――いわば、「外注」し、もっぱら“上部構造”に専念している臓器です。
こうしたいかにも、専制君主たるかのような《脳=私》という、人間以外にはみられない、特異な“支配構造”システムを形成しているのが、この 《自足自律機械》 です。
ここで、さらに想像をたくましくして、専制君主を頂くこの 《自足自律機械》 を、ひとつの国にたとえてみると、おもしろいことが見えてきます。もしその君主が、国民を抑圧し疲弊させた場合、その弊害はやがて頂上にもはね返ってくるでしょう。癌細胞の発生とは、そうした非抑圧国民の一部が過激化し、テロリスト化した状態なのかもしれません。一方、国民各層の意見をよく聞き入れ、それぞれの働きを最大かつ最長に維持しえた場合、その国の、ましてやその君主の長寿も約束されるのでしょう。
ということは、国民である個人の生き方と国の政治手法とが互いに似通い合うのも当然といえ、たとえば、商品のマーケティング手法が選挙運動にも極めて有効に働いたらしい昨年9・11総選挙の結果は、「売れ筋」と「勝ち筋」が共通する時代、換言すれば、<政治手法のビジネス手法化時代>の到来を意味していたのかもしれません。そういえば、このごろ、日本の与党政治家たち(最大野党も含め)が、ベテラン、新顔ともに、トヨタや松下の経営陣、管理職に、どこか似てきています。
ところで、人間が、まだ、農業や工業という物的生産にその多くを頼っていた時代、この 《自足自律機械》は、主にその物理的な「出力」が問題とされ、また、その機械のおこす故障や不具合も、物的機能不全が懸念の中心でした。
しかし、社会の生産の主体が、三次産業、ことにサービス関連産業に依存するようになるにつれ、この 《自足自律機械》 は、いわゆる「機械」というより、コンピュータを類推する「装置」として、その情報処理能力が問われ、また、その装置のおこす故障や不具合も、器質的なものより機能的なもの、すなわち、精神、神経的機能不全としての問題が主体となってきています。つまりは、「脳の時代」の到来です。
こうした新時代の始まりとともに、この 《自足自律機械》 のメンテナンスについても、いわゆる「健康管理」から、「メンタルヘルス管理」へとその重心を移しつつあります。
また、私たちの健康意識についても相応な変化がみられ、たとえば、運動(エクササイズ)への取り組みでは、健康管理としてのそれは、病的でない身体形成とか減量のためのエネルギー消費を目的とするものが主体となりますが、メンタルヘルス管理としてのそれでは、前者の観点も含めつつ、「君主」たる臓器としての脳の健康度を高めることを目的としたものに主眼がおかれ、それには、エクササイズといった動的なものばかりでなく、メディテーション(瞑想)といった静的なものも含まれたりもします。
さらに最近では、「脳のジム」といったコンセプトもあみだされ、「脳の時代」のヘルス管理が注目されてきています(別記事の「脳の健康、10の維持法」を参照)。
昔、「ミクロの決死隊」というSF映画がありました。隊員を搭乗させた「宇宙船」を、ミクロン単位の大きさに縮小し、それを人体内に「発射」し、病原体退治の「宇宙探査」を行うといったストーリーでした。つまり、そこには、人間の身体をひとつの宇宙にみたてたアイデアがミソとなっています。
最近の医療技術では、まだここまで小さくはできなくとも、薬のカプセル大のカメラが開発されており、それを飲み込んで、消化器官の内部の撮影が行えるまでにはなってきているようです。
ともあれ、こうした「ミクロ・コスモス」といったアイデアとは対照的に、文字通りの宇宙(コスモス)を見渡した、極めて刺激的なアイデアがあります。
それは、今回の講座の中で取り上げているものですが、人間の意識の究極的意味について、全宇宙的視座から構想されたもので、「人間の意識というのは、宇宙が自己認識をするために生み出した宇宙の自己意識器官なのではないか」
とするものです。
つまり、本稿ではここまで、 《自足自律機械》 としてのミクロ・コスモスにおける 《脳=私》 という「専制君主」について述べてきたのですが、それと相似した発想として、この
《脳=私》 という人間の意識が、実際の宇宙自身のもつ「自己意識」に相当するものではないか、とする発想です。すなわち、 《私=宇宙君主》 、あるいは
《人類=宇宙脳》 といった絵も描ける、私たち人間がもつ意識が、全宇宙の意識、つまり、その、心、精神、倫理に成り代っているという見方です。
《自足自律機械》 というミクロ・コスモスの健康維持にすら失敗する、身の程知らずな暴君の続出するこの人類にあって、それが同時に、全宇宙の意識を代表しているとは、なんというその責任の重さ,、そしてそのアイロニーでしょう。
また、地球という、いとおしいほどのこの惑星を、近年、なんとも物騒で「異胎」な惑星にしてしまっている人類が、それほどの稀有な存在としてもらって、果たしてそれで大丈夫なのかという疑問もおこります。
この点についてですが、最近の報道(先月26日)では、太陽系外で地球に似た惑星がはじめて発見されたといいます。つまり、地球に最も近いその太陽系外の惑星でも、2万2千光年の彼方なわけです。まして、そこに人類に相当するような意識を持つ生物が存在するとの証拠は、今のところ何らありません。(あったとしても、交信が往復するだけでも、4万4千年もかかってしまいます。ただ、すでに向こうからの発信が、途中までやってきているかも知れませんが。)
つまり、この宇宙で、人類の孤独はそれほどに茫漠としており、まして、40億年後には、太陽の爆発により地球自体もその火の玉につつまれるといいますから、私たち人類の天涯孤独な運命は、その存在の限り、不変なことかも知れません。
すなわち、 《人類=宇宙脳》 としての役割は、辞退もしにくい、不可避な使命のようです。少なくともこの先、1万年か、2万年かの間は。
以上、私は、人間にまつわるふたつの「宇宙」を考察してきました。そして、それが幸いなことなのか、それとも不幸なことなのか、いずれの「宇宙」でも、私たちは、「君主」であるかのようにふるまうことが可能です。そしてそうした特権は、他方で、「主権」とか、「民主主義」とか、「所有権」とか、「自己実現」とかといった理念とも親類関係を結んでいるのも確かです。
これらすべてをおおう、その中心たる「自意識」。はたしてそれは、そう自認できるほどに、確たるものなのか。 《自足自律機械》 の、おぼつかないドライバーである自身を知るにつけ、「有」の哲学と「無」の哲学(今回の「講座」を参照ください)の結合の必要を思います。
(松崎 元、2006年2月10日)
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