「両生空間」 もくじへ 
                                                                        HPへ戻る
 

両生学講座 第9回(両生社会保障学)
 



      《健康》という「年金」



 読者はすでにお気付きのように、私には、強い健康意識があります。
 子供のころに病気がちであったためか、身体の異常に敏感なところがあるようで、若いころには、大江健三郎の作品からの “感染” で、一時、ヒポコンデリア (心気症) ではないかと悩んだこともありました。
 そんな私の 「健康意識」 は、三十歳をはさんだ数年間、ある労働組合の専従役員として働いていた当時には、そうした個人的性向をこえて職業的責務にも反映され、「労災としての精神神経疾患」 という新分野を開拓する熱源ともなりました。
 こうして、私の 「健康意識」 は、単に身体面だけのものではない、精神面にもおよぶ、しかも、一定レベルの専門的知識と経験を伴ったものへと発展してきました。
 現在においては、こうした経歴をへて身につけた “セミプロ” 「健康意識」 が、私の日常にも明らかに足跡を残しており、おかげで、60歳を迎えようとする実年齢ながら、健康年齢としては、はるかに “若づくり” ですごすことができています。
 たとえば、前回のエッセイで 「ボケ防止への一次プロジェクト」 について書きましたが、健康への信頼なくしては、そのような取り組みにも、思い切って入って行けなかったことは確かです。
 「体が資本」 という言葉がありますが、むしろ今日では、体ばかりでなく、心身両面にわたって 「健康が資本」 であるわけで、また、「健全なる身体に健全なる精神が宿る」 という意味では、「精神のみの健康」 はなく、ことさらな精神主義にも傾かない、両面バランスのとれた健康が肝心です。
 つまり、健康と意欲さえ十全であれば、大台の年齢にこびることも、躊躇することもなく、まだまだ幅広い選択を、楽しんでゆけるものです。

 健康とは
 さてここで、その健康という考え方なのですが、読者は、このエッセイのタイトルの健康が 《健康》 となっていることにお気付きかと思います。
 つまり、ここでは、通常の 「健康」 という概念と区別して 《健康》 と表し、ここ独自の考え方としてそれを捉えていることを示しています。
 では、その考え方とは、通常のものとどうちがうのでしょう。
 前回の講座を思い出していただきたいのですが、そこに、仮説としてですが、「生活習慣病としての精神神経疾患やメンタルな不健康」 という考えを示しました。
 今日、「健康」 について、それが 「心身ともの健康」 という考え方は浸透していると思います。しかし、その心身両面の健康が、この 「生活習慣」 という視点を含めて考慮されていることは、「浸透」 にはまだ程遠い状態であるのではないかと思います。
 つまり、私たちの生活の短期的な個々の横断面においての 「心身ともの健康」 は考慮されても、長期にわたって継続し、累積する、縦断面としての 「心身ともの健康」 あるいは 「不健康」 が考慮されることはまれなのではないかとするものです。ことに、生涯にわたってつづく精神的健康・不健康の影響について考慮したいとすることが、この 《健康》 という概念の特徴です。

 ファジーな部分
 それでは、そのような 《健康》 概念が、一体、どのように重要となってくるのでしょう。
 ただ、それを論ずる前に、ひとつの「お断り」があります。
 それは、「精神的な健康・不健康」 といっても、精神面の場合、身体的なそれに比べ、その定義に幅があることです。また、人によっては、それは価値観によるとして選択の問題とする向きもあるかと思います。
 筆者としては、こうした「幅」の存在は、この面での究明と浸透が身体面ほど進んでいないことが大きな要因として寄与していると考えているのですが、ともあれ、現状として、精神面にはそうした定義上のファジーさが伴っています。しかしその一方、明らかに精神的不健康と考えられる場合――たとえば、過労(反応性鬱病)による自殺とか、ギャンブル・深酒癖、金品浪費癖――が数多いのも事実です。
 ここでの議論は、そうした明らかな部分を中心に展開いたしますが、そうしたファジーな部分への踏み込みもひとつの特徴としています。そうした独自面を、あらかじめお断りしておきたいと存じます。

  プチ富裕層
 それでは、 《健康》 という概念が事態を隔する実例を、年金という角度から考えてみたいと思います。
 まず、この年金ですが、実態をよく注意して観察すると、その “恩恵” の普及については、きわめてバラツキがあります。
 私の見るところ、65歳前後までに完全に年金にたよった 「悠々自適」 な生活に入れる人は、たとえば (広義でみた) 一千万団塊世代に限ってみても、おそらく、その2割に満たない、きわめて限られた人たちのみのようであることです(我「団塊」でなし参照)。そして、他の圧倒的多数の人々は、不足する年金収入を補うため継続して働く (日本経済新聞の調査 [2006年3月8日付記事] では、団塊世代の74パーセントの人が、年金収入を補うため、定年後も仕事を続けると回答)、あるいは、継続した社会参加のため、完全退職しない、いわば “非−悠々自適” な人たちです。
 つまり、あたかもそれが “当たり前” かのように喧伝されているこうした 「悠々自適派」 の人たちは、実のところは極めて少数派で、圧倒的多数は、理由はこもごもであれ、「仕事継続派」 であることです。
 また、すでにその流れが始って20年ほどが経過していますが、年金が、社会保障の一環として、低水準ながら、老後の最低生活の保障を意味していたものから、個人の 「自己責任」 において、自前で積み立てるものへと政策変更されてきています。そうした潮流のなかで、今日においては、年金そのものが、相続資産と並ぶ、私的個別資産という傾向を強めています。
 この数年、「富裕層」 という言葉が、社会の常用語に加えられた感がありますが、ここでいう 「悠々自適派」 も、数パーセントと見られているそうした 「富裕層」 につづく、そうした政策的動向の中で生じてきた、 「プチ富裕層」 と見て、大きなずれはないと思われます。
 ちなみに、近年、日本社会でも、貧富の差が広がったとの議論がさかんとなっています。大竹文男大阪大学教授は、その著書 『日本の不平等』 で、所得不平等感の高まりは、「年齢内で格差の大きい高齢者比率の上昇と単身・二人世帯の増加が反映したもの」 (日経記事より)、と分析していますが、まさに、(同書の保守的な分析においても) 高齢者層での収入格差の広がりが指摘されています。

 マネー価値への変換
 次に、年金とは、とどのつまり、老後のために蓄えられた預金の時間をかけた取りくずしです。すなわち、現在 (現役) の生活の価値のいくらかを、将来 (退職後) にそなえて、金銭価値に置き換えて蓄積させておくことです。
 あるファイナンシャル・プランナーによれば、退職時収入の6割の生涯年金収入を確保しようとするならば、労働生涯収入のうち、16〜19パーセントを積み立てておく必要があるとのことです。
 年金問題とは、この2割ほどの負荷を、現役時代の自分に課すか、それとも、現役時代には軽減し、退職後もその負担を継続し、生涯によりならして負荷するのか、の選択のようです (政府はすでに後者への方向を推進しています)。
 ただし、数字の上ではそうですが、ほんとうは、果たしてそれだけなのか。
 そこでですが、この、金銭(マネー)価値に置き換えることは、なるほど便宜性に富んでいますが、その実際の意味です。
 一見、老後とは、だれにも不可避な、死へといたる衰弱のプロセスで、そこに予期される様々な収入なき出費が伴います。ですが、「退職後」 あるいは 「老後」 と呼ばれる時期は、マネー価値による蓄えにすがる以外には手の打ちようのないほど、無為な時期なのでしょうか。あるいは、たとえマネー価値としての蓄えの必要は皆無ではないとしても、それが唯一の対策でしょうか。
 私は、このマネー以外の方法に 《健康》 があることを、特にここで強調したいと思います。そして、マネーと健康が、往々にして、両雄並び立ちがたいもののようであることです。
 つまり、一方の極の選択は、意識の有無はさておき、現在を犠牲にし、健康を無視してまでも、マネー蓄積に傾倒することです。そして老後、すぐれぬ健康に、確かに高価な医療は受けられるかもしれませんが、高水準の病室やホスピスで続けられる老後生活が、果たして、かつて望んでいたものなのかどうか。多言は要しないことでしょう。
 もちろん、最良の選択は、現在を犠牲にすることなく、万全な老後への蓄えが得られることであることは、言うまでもありません。

 ストレスに切り刻まれた心身
 そこでですが、上に述べた、広義の団塊世代のうち、2割ほどの 「悠々自適派」 とは、社会構成層として、どのような人びとであるかを考えてみたいと思います。
 彼らがそうした充分な年金収入が確保できるのは、政府年金のほかに、厚生年金による上乗せ年金があり、しかも、その積み立て総額がその生涯収入の高さから、充分に大きい人々です。
 そのような人びとが働いてきた職場とは、おおむね、大企業とか大規模政府機関で、企業あるいは政府のビューロクラット(官僚、“民”僚)として、その生涯を送ってきた人たちです。他方、中小企業、あるいは自営業で働いてきた人たちは、厚生年金はあったと場合も上乗せ額に限度があり、積み立て総額は大きく見劣りしているというのが実情でしょう。
 こうした官民組織のビューロクラットとして働いてきた人たちの職場環境を見ると、ことに大企業の場合、その人的管理はきわめて高度です。その管理内容は、医学はもとより、心理学、組織学、社会学、経済学、財政・金融学、人的資源管理学などを駆使した先端のテクニックが、現役中はもとより、OBとなった後の生涯にすらわたって適用され、かつ、日常生活の隅々にまで浸透しています。そのように、洗練かつ緻密な管理に、生涯にわたってさらされ、しかも、強力な使命感にたって、組織目的の遂行に貢献してきた人びとが彼らであるわけです。
 こうした日本の主要組織人の 「ヘルス状況」 を如実に指摘する文献があります。日本社会生産性本部 (元生産性本部=過去50年にわたり、日本の主要企業、組織を主要対象に生産性運動を展開してきた組織) のメンタル・ヘルス研究所による、2005年版 『産業人メンタルヘルス白書』 です。それによると、残業増による長時間労働が今日の 「産業人」 のメンタルな不健康の 「元凶」 とし、長い残業が、睡眠時間を減らし、家庭生活をゆがめ、ひいては自殺念慮をも引き起こすと警告しています。同研究所はことに、自殺防止を図るための特別の措置が必要とも提起しています。
 少なくとも、これが日本の 「産業人」 の健康にかかわる昨年時点での断面であり、リアリティーです。
 ことにつけ 「戦争」 と表現されることの多い、企業間、組織間、グループ間、個人間 の競争の渦中にあって、それがたとえ平和時であっても、一人の個人にのしかかる重さとして、実際の 「戦争」 とその軽重に差があるとは、決して断言しえないものでしょう。それが現に、自殺や過労死として、多くの 「戦死者」 (戦後、日本人の実際の戦死者はゼロ。自殺者は7年連続3万人超) を生んでいるわけです。
 日本の人々は、こうした高ストレスな人生を、おそらくその史上ではじめて経験しています。そうした人生の結果が、その老後=労働生涯の終わった後に、どのような影響をもたらすのか。ことに、生涯の労働負荷との関連という面では、どんな研究においても、未踏となっているフロンティアな分野です。にもかかわらず、定年を境に、その生活環境の激変は、突如に、確実に、制度的に到来します。そして、その適応にさまざまな問題をもたらすことは、臨床的にも数々の事例によっても、取り上げられてきています。
 さらに、それをなんとか克服したとしても、長年のストレスに切り刻まれた心身がおこす 「燃え尽き」 あるいは 「抜け殻」 現象も、並べて案じられるその結果です。
 そのようにして、一見、年金が充分としても、それを得るために費やしてきたそのコストとして引き受けざるをえない、そうとうな医療支出や保険料、あるいは 「ハッピーリタイアメント」 とかと宣伝される暇つぶし (人生時間の浪費) の費用などなど、なかば不可避とも見られるその使途は、そうであるだけに、今日では新ビジネスとして、さまざまな形で皮算用されています。
 いったんマネー価値に変換された人間価値は、いざそれを使用しようとするとき、それは商品として流通するものしか、つまり、購入と消費を通じてしか、もどってきません。たとえ 「利子」 はついていたとしても。
 繰り返しますが、 《健康》 は、商品ではありません。健全なあなたそのものであるはずです。

 先のエッセイ(「星友 良夫」 だった人について )でも述べましたが、もし必要なら、ここにおいても、失われたものを 「取り戻す」、そうした観点は、ふたたび、注視されるのではないでしょうか。
 人生、八十余年。世界一です。与えられた時間は、まだまだたっぷりです。それは決して、現役人生の残余などではありません。

 「企業価値観的ゾンビ」
 科学用語のなかに、 「哲学的ゾンビ」 という言葉があります ( 「ゾンビ」 とは 「生きかえった死体」 のこと)。
 この語は、たとえば極めて高度なロボットができた場合のように、外見、そして行動など、客観的ふるまいは人間との区別がつかないほどであるのですが、一切の意識や倫理的、心的反応をもたない、といった場合に用いられます。
 繰り返しとなりますが、現代にあって、ことにビジネス界 (政府機関もその傾向を強めつつあります) の要求は、その企業体の目的にそった価値観が緻密かつ高度に貫徹されるよう組織化されており、労働組合も弱体化しそのチェック機能を失いつつあります。もちろん「ゾンビ」 とは極論ですが、その一員となって働くことは、あたかも 「企業価値観的ゾンビ」 に接近してゆくことを意味し、企業管理とは、とかくその極論がターゲットとなりがちです。そして、どこまでそうなるか、それが、企業人、組織人、産業人としての、その献身の度を計る尺度となります。
 こうした 「企業価値観的ゾンビ」 と 「生身の人間」 との亀裂をめぐる毎日の往復、あるいは、両者が混濁したグレーゾーンのライフスタイルが、畢竟、何ももたらすのか。その産物が、今後しだいに、医療さらには社会全体の新たな課題となるのは、おそらく避けられないのではないかと私は予想します。

 言い古されていることですが、お金に代えられないもののひとつが 《健康》 です。
 冒頭で述べたように、健康と意欲さえ十全であれば、大台の年齢にこびることも、躊躇することもなく、まだまだ幅広い選択を、楽しんでゆけるものです。

 マクロな議論への展望
 最後に、これは、決して、付け足しで述べられることではなく、もちろんその積もりでもないのですが、人生の結果として、上の選択の例でいえば、現役時代に健康を害するほどに働き、それでも、老後への蓄積などほど遠く、かつ、病気がちな老後を迎えている、とのケースもありえます。おそらく、表面的には目立たないものの、社会全体では、相当数にのぼると考えられます。
 これこそ、社会制度としてののセイフティーネットが救い上げるべきケースであると思うのですが、現行の制度では、たとえ国民年金の最低の支払い義務を果たしていたとしても、その年金では、家賃にもならないでしょう。そればかりか、高齢者への無料医療ですら、姿を消しています。
 年金とは、本来、貧困層向けにこそ万全に用意されるべきで、富裕層向けには、不完全でも自力でなんとかできるのです。
 ともあれ、こうした議論は、社会のマクロな制度についてのもので、「両生云々学」 として、個人の立場にたったミクロな視点を柱としてきたこれまでの構成とは、視界がことなります。ですが、もちろん、必要な視点ですので、今後あらためて、そうしたマクロな議論を、「両生政治学」 とか 「両生社会学」 といった角度で、アプローチしたいと思います。

 (松崎 元、2006年4月14日)
                                                            「両生空間」 もくじへ 
                                                              HPへ戻る
                  Copyright(C) Hajime Matsuzaki  この文書、画像の無断使用は厳禁いたします