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熱力業風景
(その6)


まるで道化か阿呆


 先に、 「言葉の城壁」 と書きました。
 言うまでもなく、言葉の世界は深く、ひとりの人間の深浅は、その言葉使いの深浅に等しいと言っても過言ではないでしょう。
 少なくとも、外国語の世界の、その日常の場に入り込む以上、言葉上の稚拙はその人の程度として判断されかねません。
 ましてや、その外国語の現場で仕事をするわけですから、そのされかねない程度判断―― 一種の二重の自己像――の自認を避けるわけにはゆきません。
 それは、意図的な図柄ではあるとせよ、まるで自分が二重人格患者であることを覚るようなものです。
 それはけっこう、おっくう、かつ、苦痛な体験です。それにまかり間違うと、まるで道化か阿呆、という話にもなりかねません。

 ある場面――、前回に書いた 「政・労・使」 の三者構成のシステムのうちの、 「労」 に対しての “根回し” をしていた際の風景です。
 こうした必要から接する相手は、むろん、一般組合員ではなく、幹部連中となります。そして、そういうリーダー格の人物となると、その人となりは、並々ならぬ信念と強い押しを備えた人物が通例です。
 そういう彼らと接する場には、私が単独で乗り込むことはまずないのですが、たとえ脇役でそこにいるとしても、それなりの対応が必要がゆえにそこにいるわけです。
 それに、そうした場――たとえば組合本部の役員会議室――では、まずは出くわすことのない、ひとりの 「ジャパニーズ」 として、私がそこにいるわけです。ふつう、彼らの日常体験では、 「ジャパニーズ」 に接する機会は、オーストラリアに進出してきた日本企業の、現地駐在員としての会社側の日本人と接する場合がほとんどです。彼らにしてみれば、そういう日本人は、いわば敵側の日本人で、十二分にも用心してかかるべき相手であるわけです。
 むろん、設定された議題はそうした交渉ごとではありませんので、そんな “敵意” がもろに表わされることはありません。そうなのですが、それだけに、彼らの日ごろの隠された心情が、独特の彼らの用語や言い回しをもって表わされてきます。それに、そうした人物には、英国スコットランドとかアイルランドとか、強いなまりをもった人もまれではありません。
 そういう場面では、断言できますが、そこでの機微にとんだやり取りなぞ、私にはとうてい不可能です。ボールが投げ込まれているなとは感じても、無難な返球にとどめるのがやっとです。むろん、相手は不満な面持ちですが、そういう丁々発止は、私のそこでの役目ではないと決めています。
 むしろ私の役目は、彼らの日常のそうした場面ではおこりそうもない、ある意味では軌道から外れた、また別の意味では最も核心に触れる話を、言葉上は稚拙ながら、誠実な態度をもって、話しかけることです。
 もちろん、空振りに終わることもありますが、それでも、何か違ったメッセージを送ってきているな、とのサインを与えることぐらいにおいては、足跡を残しているはずです。

 一方、労組幹部には、もうひとつのタイプがあります。
 彼らは通常、さして強い個性や押しを感じさせません。むしろ、包容力のある、よき隣人を思わせるタイプです。
 むろんそうだからと言って、彼らがわかりやすい英語をしゃべってくれるわけではありません。ここでも、つよいなまりとのつきあいは避けられません。
 そういう彼らは、おしなべて、ひとの話を聞く耳をもっています。少なくとも、そういう “ふり” はできる、ある多能さを備えています。
 前者のタイプを守旧派のリーダーと分類すれば、後者は、革新派のリーダーとも振り分けることができます。
 我々がコンサルタントとして、行き詰まったかの現状の解決をめざす拠りどころとするのは、こうした後者のタイプのリーダーです。

 ここで、私の我流精神分析的な加筆をすると、前者タイプのリーダーは、どこか、病んだ自分のパーソナリティーや何らかの弱点を否定するために組合リーダーになったような、一種のマフィアボス(やくざ親分)的な吸引力――魔性――を持っています。もちろん、さまざまな理屈や観念で、そういう内面をかくす武装をしているのですが、おおむね、そういう彼らが語る団結は、結局、偏狭なナショナリズムと紙一重なところがあります。そしてそれだけに、正確な現状分析をおこなう能力に、そうしたバイアスがかかってしまっています。
 後者タイプのリーダーは、強い個性は欠くものの、バランスある人柄や、広い視野と冷静な観察力からくる有能な実務能力の持ち主です。そして、ひとつの組合の指導を、前者型とペアを組みつつ、刷新的な役割を推進しているようです。むろん彼らは組合のリーダーですから、団結にひびを入らせるような分裂的行動を見せるような愚はおかしません。いわば、前者の吸引力と後者の実務能力を組み合わせた、前者の組合委員長、後者の書記長といった役割分担を作り上げています。
 私はこうした二者を、前者の 「患者型(patient)」 、後者の 「ふり者型(pretender)」 と名付けたらどうかと考えています。
 (2012年4月27日)

 ちょっと長くなりますが、上記に加えて、 「政・労・使」 の 「三者構成」 のうちの、 「使」 との “根回し” の一シーンについても書いてみます。
 今日、 「使」 とひとことで言っても、その構成はちょっと複雑です。つまり、新市場経済が世界的に蔓延し、ここオーストラリアでも、労働市場の自由化が進んでいます。すなわち、労働者を雇う 「使」 の側に、いわゆる人材派遣会社があまたと生まれてきています。
 言うまでもなく、そうした彼らは、いわゆる生産企業ではなく、サービス企業です。つまり、この 「熱力業」 プロジェクトの場面では、 「イクシス」 というLNGプロジェクトを実行する元請け企業 (国際的エンジニアリング会社)、あるいはその下請け企業 (地元の建設会社) に、労働者を供給しようという諸企業です。
 その中でも、我々は “良質” の会社を選択しなければなりません。つまり、露骨に反労働組合的な立場をとっている会社がかかわってくれば、それこそ、 “本当の” 労使対立が生じてしまいます。そういう “悪質” な派遣企業は、表面的な見せ掛けとは裏腹に、古典的な搾取会社で、ある意味では、元請け企業にも歓迎されます。しかし、発展途上国ならいざ知らず、オーストラリアのような先進国、つまり、資本の自由とともに労働組合活動の自由も保証されている国では、結局、そういう企業の存在は、こじれた労使紛争の種となります。多くの場合、労働組合から告訴されて、長々とした裁判に引きづり込まれます。この熱力業の例の場合、プロジェクトの完成の遅延となって、巨大な予算過剰が生じます。
 しかしながら、現在のオーストラリアの熱力業ように、深刻な労働力不足が生じている環境は、そうした悪質な派遣企業の温床です。
 先日も、ある人材派遣企業との会議の際、この間、その企業側に次第しだいに見え始めてきていた、そういう 「古典的」 な姿勢が顕著となり、私たちも、いよいよの決断をせざるを得なくなりました。この企業は、以前はもっとまともな姿勢を持っていたのですが、上記のような労働市場環境は、この会社をより安易な金儲けの道へと走らせたようです。
 私たちの会社も、 「しのぎ」 を必要としているわけで、その点では残念かつ苦しい選択となりますが、この先、これまでに築いてきた関係を断念しても、相手を選び直す判断を固めているところです。
 今日のビジネス社会で、最終的に近道となるのは、その内心はともあれ、良き 「ふり者型(pretender)」 ――労組も企業も――参加者であることが必須条件と私たちは考えています。

 (2012年5月2日)

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