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《老いへの一歩》シリーズ
銀行の宣伝文句ではありませんが、自分の 「将来のシュミレーション」 が気になる年齢になりました。ただし、お金の話ではありません。命の “しまい方”
についてです。
若い時代の将来とは、ただ先に向かってオープンに開かれていて、そもそも “終点” 自体が存在していませんでした。また、あったとしても、それは遥か彼方の、まるで影響圏外の問題にすぎませんでした。
それがいつの頃からか、自分のどこかに、向こうから見返してくる、ある逆算する地点が位置しはじめていることに気が付きます。もちろん、その位置がどこかは、まだ不明瞭です。ですが、しだいにその輪郭が浮かび上がってくる感じはしています。
私の場合、それとともに、誰か充分年齢のへだたった人の声が、そういう逆算の話を伝える声であることと覚り、それを求めるようになりました。つまり、そういう声の主は、私にとって
「先頭ランナー」 なのです。
他方、そういう 「先頭ランナー」 ではない、 “その他ランナーズ” の声は、批判とか、理念とか、好みとか欲の話とかと、まだまだ “遊び” のある事々についてです。しかし、次第しだいに、そうした
「遊び」 抜きの、待ったなしの声が必要となってきていることに気付きます。それが、 「先頭ランナー」 の語る経験談です。時には、取り返しのつかぬ失敗談も含む、実際にやってしまった具体例についての話です。
これまでにも、私の書き物に幾度か登場していただいたのですが、私の身近な友人に、15歳年上のバエさんがいます。私にとっては、彼がその 「先頭ランナー」
です。
そこで思うのですが、彼とのこの15年という年齢差は、実に、含蓄のある歳のひらきであります。近過ぎでもなく、遠過ぎでもない、実に、絶妙な差なのです。
むろん、人と人の出会いとは偶然のなせるわざで、彼と私の間の、この15年の差というのも偶然です。つまり、そうした偶然でしかないものが、この15年という差、つまり、私と
「先頭ランナー」 との距離であり、その隔たりが、その待ったなしの声をやり取りするには、最もふさわしい距離であるようなのです。
彼が、隣国韓国の生まれで、しかもそれが1931年(昭和6年)という日本植民地下のことであったことについては、先にも述べました。
そういう彼と私の、地理的、歴史的違いによる差異に始まる話については、ここでは対象としません。
今回はただ、個人と個人の間の年齢的へだたりが15歳であるという、それにまつわる人生ステージの差異のもたらす意味についてです。
私たちは、日本人と韓国人という外国人同士でありながら、幸いにして、 「日本語」 を共通語として――この意味については 「日本語を介するという「幸運」」 を参照――、事実上、何も隠さないほどの親しい交流ができるまでになりました。そういう意味では、まさしく、 “同国人同士” のような親友です。
そういう、ほぼ完ぺきな親交関係を持てるという基盤のもとに、人生の重要な場面にあっての、やり直しのできない、 “一回きり” の選択や決断について、さまざまな話をやり取りしてきました。
そうした “命題” をしだいに共有し合いながら、やり取りし合う実例を納得するにはむろん、その子細な条件に自分のものを “代入” する必要はあります。しかし、それら以外の骨格においては、あたかも、私自身の将来の
「シュミレーション」 を見るに等しいものがそこにあるのです。
上に、私は彼を 「親友」 と書きました。ただ、 「親友」 というだけなら、私には、日本やここオーストラリアに、そう呼ぶに等しい人々を他にも持っています。しかし、そうした人たちはみなほぼ同世代で、彼のように、15歳ほどもの年齢差のある人はいません。
つまり、 「親友」 プラス15歳の年齢差、がゆえに生じる特別の意味があります。これが、ここにいう 「シュミレーション」 効果なのです。
少々イモーショナルな言い方をすれば、彼は、私に代って先に生きてくれている、15年後の私なのです。
そういう彼が、昨年末、咽喉に癌が発見され、いまではそれが全身に転移して、末期症状に至っています。先週には、入院先からホスピスに移され、文字通り、最期を過ごしています。
そういう彼を見るにつけ、私も、大なり小なり、彼のような死に方をするのだろうと受け止めています。
むろん、実際におこることは同じではないでしょう。ちなみに、彼は生涯の喫煙家で、咽喉の癌も、その結果であることは疑いありません。そういう意味では、私の喫煙歴は、20歳代中ごろのほんの数年間だけで、彼のそれとは大きな違いがあります。つまり、咽喉癌には罹らないでしょう。また、彼と出会った16年前、彼はいまの私ほどのフィジカルな健康度ではなかったように思い出されます。そういう違いから言えば、私は彼より長生きするのかもしれません。そうであるかも知れませんが、しかし、彼が、昨年末の癌の発病まで、同年齢世代に較べて模範的な健康度を示していたように、私にも、行方をはばんで待ち伏せしている、思わぬ伏兵が用意されているのかも知れません。
そういう彼という私の 「先頭ランナー」 の走りっぷりを、数年前からであったでしょうか、自分に代るシュミレーションとして見ている私がありました。
そういう彼の足跡から、学ぶものを学ぼうと思いました。あるいは、生意気ながら、そういう彼の失敗からは、それを繰り返さないようにしなくてはいけないと思いました。
むろん彼も、自分の失敗や過ちについて、それまで彼以外の誰も知らなかったことまでも含め、何ら隠すことなく、私に明かしてくれました。
こうして私は、彼という 「先頭ランナー」 の後を、15年遅れて走りながら、後続ランナーとしての安易さと有利さを享受してきました。
しかし、いまや彼は、その 「先頭ランナー」 の役目を果たしおえようとしており、いよいよ今度は自分が、その位置にせり上ってゆくことになるのかと、さみしさと、よるべなさと、孤独さの予感にさらされています。
もう、そうした一回かぎりの選択に関し、掛け替えのない経験事例を添えて、相談に乗ってくれる存在はなくなる。
もう、軽率に下した私の選択に、それとなく自分の失敗談を語って、その再考を促してくれたそうした声は聞かれなくなる。
日本の植民地の朝鮮に生まれ、自らを模範的な皇国少年であったといい、もう、日本人からも聞くことのなくなった教育勅語の暗唱を今でも口にでき、そして、子供時代に覚えた軍歌を、その哀愁のままに再現させて歌うことのできるその彼の存在がなかったら、私は、自分の出生国である日本のことを、かくも長いレンジと国境をまたぐ視点をもって、考えてくることはできなかったことでしょう。
『天皇の陰謀』 の訳読は、今年7月いっぱいをめどに完成させる積りでいます。叶うなら、私の 「先頭ランナー」 の、いましばしの走りっぷりを、どうか見させていただきたい。そうして、せめて、この訳読という私にとってのマラソンを、完走し終わるところまで、見とどけていただきたい。
(2013年2月19日)
【追記】 2013年2月22日、午後11時20分。
さきほど、バエさんが逝去されたとの連絡をもらいました。午後10時だったそうです。私が、今日の午後にホスピスを訪れた時は、呼吸がもういかにも困難となっていて、残された時間があまりないことは予感されました。私にとって、それが彼との最後の時間でした。
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