オーストラリアは地続き
地理的に言って、もちろんオーストラリアと日本は「地続き」ではありません。両国の間には広大な太平洋が広がっています。しかし、私(主催者)にとっては、この二つは、「地続き」といってもいいのです。
ひとつのたとえ話をします。あなたが、地方のある小さな村で生まれたとします。あなたはその村の小学校に通い、中学校は、幾つかの村からの生徒が通う中学に行ったでしょう。高校は、きっと、県全体から選ばれた生徒のなかの一人として、その高等学校に入学したことでしょう。
こうして、もしあなたが大学にも行ったとすると、おそらく、たとえば東京といった大都会に出て、全国から集まってきたそれぞれの出身地の特色をもった学生たちと、ともに練磨しあったことでしょう。
つまり、生まれ育った村から東京まで、あなたの生活圏は自然に、また、連続的に広がってきたはずです。これを、私は「地続き」の広がりと呼びます。
その広がりが、東京にとどまらず、外国にまでおよんだとしたらどうでしょうか。もちろん、この広がりには、それまでのものとはちょっと異質なもの、たとえば、パスポートが必要とか、外国語の問題があるとか、という国境を越える課題が伴います。
しかし、一人の人間の生活圏の広がりとして、県境と国境に、どんな根本的な違いがあるのでしょうか。
日本のような島国では、国境が海の上にあって、いかにも恒常的な境のような感覚が強いですが、ヨーロッパのような大陸では、国境の受け止められ方は、もっと便宜的なようです。まして、EUができあがって、移動の自由が可能な現在、ヨーロッパでの国境は、実質的には、日本の県境ほどの意味に近いでしょう。
そのようなわけで、私は、「地続き」の感覚で、このオーストラリアまでやってきてしまいました。
したがって、ここにけっこう長く住み着くことになってしまいましたが、それは、地方から東京に出てきてそうしているのと、あまりちがった感覚はありません。
言葉の問題や行ったり来たりにもっと費用がかかるなどの違いは当然あります。でもそれも、程度の問題か、相応のコストのように思えます。
(2003.10.29)
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