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両生学講座 第5回(両生哲学)
 


   両生学への序論:「疎外」との遭遇



 すでに読者もお判りのように、この「両生空間」における「両生」とは、もはや日本とオーストラリアという地理的脈絡はもたず、人の生にともなう、移動性、二重性、複眼性、立体性などなど、ひとつの現状に固定されることへの問い、あるいは、もうひとつの選択を追究する、そうした、《現況》と《異/他況》という、思想的、哲学的意味を含ませた概念へと発展しています。言い換えれば、そうした思考をひとまず入れておく器として、それを「両生学」と称し、今回の講座では、その主だった構想を述べてみるということで、「序論」といたします。


 「世を忍ぶ仮の姿」
 学業をなんとか終わらせ、いわゆる「社会生活」を始めて間もない頃、私は、学生時代の友人たちと、よく会い、飲み、日ごろにたまった憂さを晴らし合いつつ、周囲からは、「学生気分の抜けない」と言われた生活をしていました。
 そうした会合の日は、勤務がようやく終わった9時や10時に集まるのですから(新宿歌舞伎町の「スカラ座」という喫茶店がとりあえずの集合場所でした)、お開きとなるのはいつも終電後。 「理想」と言えるほどの使命感を伴っていたわけではありませんでしたが、それ相応の “現実とのギャップ” の思いを胸に、誰が言い始めたのか、自分達の昼間の姿を、「世を忍ぶ仮の姿」などと、自嘲めに、かっこう付けたりもしていました。
 60年代末の、高度経済成長も真っ只中のことで、大量生産された私たち新造「建設技術者」たちは、ともあれ、あまたの建設現場でその生産のまさに先兵でしたが、働く環境は旧態依然そのものでした。深夜、酔って帰りつく先は、そうした建設現場の、当時まだ「飯場」と呼ばれていた仮作りのそまつな宿舎で、翌朝までのつかの間の眠りについたものでした。
 そうした飯場で、昼休みなどでは、敷き放しの布団をまるめてそれを枕にごろ寝し、同僚の見るテレビ番組を雑音と黙殺するように遠ざけながら、たとえば、五味川純平の『人間の条件』を読んでいました。付き合いにくいやつと思われていました。
 主人公の梶を自分に重ねていたと言えば大げさですが、平和時のその程度の仕事ですらくりかえしている自分の妥協を知れば、もし自分が梶のような立場にあったなら、「間違いなく、醜く生きる道をとっただろうな」、などと覚りつつ、その読むにしんどいページをくっていました。
 当然に、労働組合の結成などの考えも、頭にはありました。しかし、各地の建設現場に数人ずつ分散されて働く現状では、不満を共有するはずの同僚との接触すら容易でなく、まして、秘密裏に結成までこぎつける道筋など、それこそ、 “ロバ” を針の穴に通すことに等しく思え、結局、そうした “徒労” はとらずにいました。ただ、行動しない自分のふがいなさは、酔った頭のなかでも、覚めたまま沈殿していました。
 私が、その最初の仕事を辞めたのは、就職して半年後の、1969年10月でした。

 「辞める」ということ
 あれから36年余り、紆余曲折はありましたが、その自分史を語るのが本稿の目的ではありません。むしろ、そうした個人の体験ではありながら、そこに潜む、一種、共通する歴史的、人間的意味(大げさに聞こえるかも知れませんが)についてです。
 ただ、そこに進む前に、もう少し、追憶シーンを続けさせてください。その、最初の「辞めること」を決心するまでのいきさつです。
 そうした場合に、誰もがそうであるように、「辞める」という判断には、辞めた後がどうなるのか、その事後への心配や不安があります。後になって思えば、何ともナイーブな思い込みではあったのですが、当時の私は、強い 《恐怖感》 に捕われていました。それは、あえて自分で「村八分」になってゆく心境で、主観的には、親を捨て、家族を捨て、友達を捨て、そして親しんだ場所をも後にして、どこか見知らぬところへ出てゆくに等しいもので、その孤独感はとめどもなく深く、いたっては、その後の自分の生存すら危険にさらされる、とまで思い詰めさせられるほどのものがありました。
 そんな 《恐怖感》 に捕われている時、ふと目にした、新宿駅かいわいの地下道にうずくまる、今で言うホームレスの人々の薄汚れた顔が、自分の顔に見えたことがありました。思い詰めがあったとは言え、「そうまでなっても、おまえは辞めたいのか」という、その覚悟の度を問う瞬間でした。
 その最初の仕事を辞める決心とは、私にとっては、そういう意味を含んでいました。そして、しばらく逡巡したのち、「辞める」と決めた以降は、私にとって、仕事、すなわち、自分を売って金銭をえてゆくこととは、かっての自分の覚悟におとるものではないのか、あるいは、同じ逡巡の練り直しではないか、という問いが、終始伴うものとなったのでした。
 その後、今で言う派遣社員(当時は違法でした)となって食い扶持を稼いでいた時、大手企業の下請労働者として働きつつ、初体験ながら私の予想通り、「村八分者」のたどれる道は、いわば雑草がはびこり、「これはひとつの裏街道だな」との実感をかみしめつつ、反転した陰画を見るように、社会の別像を体験し始めていました。しかしそれは、今になって思えば、《自由》への私式の入り口でした。
 こうして、主観的とはいえ、 《「野たれ死に」する覚悟》 を経ていたということが、その後の人生の節目ふしめを分岐する、確固な原点となりました。
 幸い、私以降の世代は、戦争を体験することなく、何はともあれ、「平和」な生活を維持することができており、梶のような残酷な体験はせずにすんでいます。私は、こうして始まった「裏街道」人生が、そうした戦争体験者のそれに肩を並べるものとは思いませんが、私にとってのそれなりの「戦い」の体験であったことは間違いなく、以後、今日まで、「平和下」ながらも止むことなく、36年間余り続いています。
 

 私は、以上のような私自身の「戦い」の体験を、結局、その相手は何だったのか、それを、「疎外」という角度からとらえたいと構想しています。
 というのは、前回の「両生空間」に書きましたように、「うつ」な心境について、「病気かそれとも気質か」をめぐる永年の問いがあり、それを通じ、それは「病気」ではなく、むしろ「疎外」に対する創造的反応であるとの発見過程について述べました。それを第一ステップに、そうした「うつ」な心境と、歩む「裏街道」とは無関係ではなく、ともに人生にからむ、方や、個人の心理への何かの反映現象であり、他方は、《自由》への選択が強いるコストであるという、同じコインの両面であることが見えてきたからです。そして、そのコインとは何かを考えると、それを捕らえるもっとも有効な概念は、私は、《疎外》以外にはないと考えています。
 ただ、そもそも疎外という概念は通常、狭い範囲で、しかも、ごく特殊な現象と考えられがちです。
 「疎外」を『広辞苑』で引いてみます。
 こうした意味のうち、そうした哲学的背景にはうといまま、とかく、労働に伴う、しかも一種特異な現象と考えがちで、上述の私の体験についても、その本人自身、当初、そうした労働に関連した(しかも「裏街道」に伴う “病的”) 実例として受け止めていたわけです。思うに、ほとんどの人も同様に、そうした疎外体験を、当たり前の現象と受け止め、時には試練とも解釈し、それを我慢し耐え忍び、時に、私のように「辞める」人を脱落者と見る傾向が大勢です。
 しかし、自身を脱落者とは見下せなかった私の場合、そこには、私がそう受け止めるにたる、私をめぐる労働環境以外の何かが関係していたのは確かです。もちろん、それは本人の願望的見解とか、本人自身が「変わり者」だったからというのも、ひとつのありうる説明ですが、さらにそうした要因の「個人化」以外に、私は、私を「うとんじさせる」もっと広い関連があるはずと考えるものがありました。
 そのようにして導き出されてきたものが、以下に述べる、「疎外」の現れ方をめぐる、三つの領域です。
 本稿では、ただ、こうした三つの領域は、序論としてその提起のみとなります。また、それぞれの分析にはまだ濃淡があり、いずれにせよ、この「両生空間」では、追って、その各論を述べてゆく計画です。

 1.労働疎外
 私がそうであったように、労働にともなう疎外は、いわば疎外のもっともポピュラーな分野で、入門篇と言ってもよい体験です。
 逆に、そうであるからこそ、研究の最もすすんでいる分野であり、ことに、労働科学とか、人的資源管理、あるいは労使関係管理の分野での実用的研究では、疎外は、一般に、労働環境から取り除かれるべき有害要素としてとらえられています。
 しかし、労働にともなう疎外は、除去したつもりが(あるいは意図的に)、それをより覆い隠すとか、時には助長させる結果となるなどして、疎外のない労働などとはほど遠い状態が行き渡っているというのが今日の実情です。
 ともあれ、この労働疎外は、三つのうちでは、最も身近なものであるでしょう。

 2.歴史疎外
 エーリッヒ・フロムによれば、西洋文明においては、《疎外》の概念は、旧約聖書の偶像崇拝という概念にまでさかのぼることができるということです。
 それ以来、人間はその偶像崇拝をし続けてきたのですが、神を偶像化することとは、その 偶像が人の手によって作られたものであるにも拘わらず、それを崇拝する、つまり、人間がみずから作り出したものを絶対無謬なものとして崇拝することにほかならず、神に似た姿をとった、国家や、教会や、人物や、所有物を、あたかも神のごとく崇拝することです。その結果、自分自身を創造する主体としては経験しないで、そうした偶像の崇拝を通してのみ自分自身と接することとなってしまいます。人間は彼自身の生命力、つまり彼自身の潜在力の豊かさから疎遠になってしまっており、そして偶像のうちに凍結してしまった生命へ服従するという間接の方法によってのみ自分自身と接していくこととなります。(E. フロム 『マルクスの人間観』合同出版、1979、p.63-5)
 言い換えれば、西洋文明においては、入れ替わり立ち代り、そうした偶像崇拝が繰り返されてきており、ことに、近代にいたって、ニーチェの唱えた「神が死んだ」後には、さらに神に代わって、科学であるとか、イデオロギーであるとか、経済価値とか利益であるとかが、新たな偶像として崇拝され続けています。
 こうした偶像化は、東洋においても、神の名こそ違え、その崇拝自体は同様で、まして今日においては、洋の東西は融合して「グローバル化」し、、偶像化の歴史は、この地球をくまなくおおうようになっています。そのように、歴史とは、《疎外》の歴史ともいえるものです。
 こうした歴史における《疎外》は、歴史上の出来事、ひとつ一つのうちに、まさに具体的に現れています。
 先に記した 「星友 良夫」 だった人について の星友氏の体験についても、また、上述の『人間の条件』の梶の体験についても、そこには、狂った偶像化による悲惨で巨大な国家行為がもたらした疎外の経験の一つひとつが見出せます。
 私の場合も、上記のような「辞める」体験という労働疎外の背後に、こうした歴史疎外が、今回の別記事 戦争と私 に述べているように、基調低音として響いていたことは確かです。
 ひとりの個人が、生まれ育った社会の影響を受けているのは当然で、さらに、そうした個人が、個的性向において、さらに歴史と特異に関わりを深めてゆくのもまた当然であり、一見、労働疎外と判断される事例も、そう単純に存在するのはむしろまれで、こうした歴史疎外の要素とも深く関連しているものと思われます。
 また、先の本講座第一回の 学問としての「両生」 で述べた、庶民が 「作られた歴史を生かされる」 こともその別例であり、また、、第二回の オーストラリアは地続き(続) で述べた 「私たち自身が自分の歴史の歴史家になること」 は、こうした《疎外》から、自身を取り戻そうとするこころみであることは、すでに読者もお気付きのことと思います。

 3.疎外論としての「唯識」
 この「唯識」が、ここにいきなり飛び出してくることに、読者は戸惑われていることと思います。
 それも当然で、その導入の解説を先に提示すべきで、講義のひとつとしてそれを設ける積りでいたのですが、本稿が先にたち、順序が逆となってしまいました。
 また、筆者の理解として、この分野で充分満足なものに達しているとは、正直なとことろ、断言できません。そういう次第で、ここでの分析はまだ、「試み」の域を出ていないことをお断りさせていただきます。
 ともあれ、まず結論から述べますと、唯識とは、私の見るところ、上述した偶像崇拝を排し、純粋な至上の概念を追及しているという意味では、西洋におけるその追究と同じものを扱っていると考えられ、その意味で、唯識が目標とする「覚り」とは、こうした疎外を克服した状態を言っているのではないか、というものです。
 今の段階では、まだ「仮説」にすぎませんが、上述のように、追って議論を深めてゆく積りです。
 ところで、その「唯識」ですが、これは、大乗仏教における教えの基本部分で、岡野守也氏は、それを「大乗仏教の深層心理学」と呼び、「人間はすべて、智慧と慈悲の溢れる<ブッダ=目覚めたもの>になりうる・・・・ 唯識は、そうした主張を、いわば心理学-深層心理学的に、ひじょうに説得力あるかたちで理論化した、大乗仏教の一到達点である」 (『唯識の心理学-改訂版』青土社2005年、p.8) と述べています。
 この唯識の考えに「疎外」という概念は一度も登場しません。それも当然で、上述のように、「疎外」という概念は西洋文明における産物で、東洋では、そういう捕らえ方をしませんでした。東洋ではむしろ、この世を一般的に、「煩悩」あふれる世界ととらえ、それから「解脱」し、「覚り」をひらくことを追究してきました。
 西洋の疎外の概念は、この世の問題の存在やその原因を分析しそう概念化したものですが、こうした東洋のアプローチを、問題の解決を優先した方法論と見れば、両者の対象とする問題そのものは同じものではないか、とするのが私の見方です。つまり、あらっぽく言えば、煩悩あふれるこの世も、疎外の蔓延するこの世も、同じことを言っているのではないか、との着眼です。
 そのように、「疎外」と「唯識」が同一対象を扱っているとしてのぞむと、興味深いことが見えてきます。すなわち、本講座第四回のメランコリーの文化で述べたように、ギリシャ文明以来の、「うつ」な心理を創造的に組み立てようとする西洋文明における取り組みは、最先端の抗うつ剤という神経化学的「偶像」と、「疎外」という実体論の二項対立に到達しました。他方、唯識の「深層心理学」は、すでに千年以上も前に大乗仏教の教えとして完成されているにも拘らず、西洋での偶像化のごとく、その真意への理解は広まらない一方、岡野氏が主張するように、1960年代の米国西海岸生まれの「トランスパーソナル心理学」との「習合」 (『唯識のすすめ』NHK出版1998年、p.352) をへて、ようやく、東洋宗教と心理学の出会いを生んでいます。つまりは、疎外と唯識の遭遇、あるいは、疎外論として唯識を読むことも可能な状況が現れてきているのではないか、と考えるわけです。
 この序論では、とりあえず、これ以上は踏み込みませんが、岡野氏の言う最も高い「自己超越」のレベルへの到達に関連して、以下に引用する、人間が究極的に何を目指しているかについて、フロムが取り上げたゲーテの晩年の視点に注目したいと思います。
 このゲーテの視点のうち、「理性」を「覚り」と、「知性」を「煩悩」と読みかえれば、洋の東西こそ違え、同じものを目指していることが、浮かび上がってくるのではないでしょうか。
 蛇足ながら、私はかつて、「覚り」とは、一種の「あきらめ」へと人を誘導する宗教的ごまかしではないかと考えていましたが、唯識でいう「覚り」については、上記のように、根本的に再認識しはじめています。

 (松崎 元、2005年12月13日)

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