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両生学講座 第14回(両生歴史学
 



        
歴史ごころ


 前回の本講座で、島崎藤村の 『夜明け前』 を読んでいると書きました。しかも、ひとつの出会いとして、「運命的」 に読んでいるとも書きました。
 それを読み終えました。
 この、奥行き深く、含みの多い作品を、一筋縄では言い表しきれないのですが、それを 「えい、やっ」 とまとめてしまうと、それは、藤村が自分の生涯の重みを託して書いた、明治維新とは何であったのか、ということであり、そして、明治維新とは、今も、私たちの中でおこっている、ということです。


 まず、そのように、 『夜明け前』 を体験して発見したものは、この悲劇的物語の主人公、つまり藤村の父である、作品中では青山半蔵、実名では島崎正樹が、ひとりの 「ゴッホ」 だったということです。
 封建制の崩壊と近代の萌芽が、西洋列強による外力にあぶられて進行するという激動の時代にあって、いかに生くべきか、真摯に実践しつづけた人間が、心身の均衡を保ってゆけないほどに、自己の信念と迫りくる現実のはざまで追い詰め、切り刻まれ、正気を失って悲劇死をとげる。そうした死を伴う生をいきたという意味で、島崎正樹はヴィンセント・ヴァン・ゴッホと重なり合う道を歩んだ。ゆえに私は、「彼はゴッホだった」 と受け止めました。また、両者が生きた国は異なれ、ふたりの死の時も、前者が1886年(明治19年)に56歳で、後者が1890年に37歳で、と同時代でした。
 こうしたふたりのゴッホには、また、理解深いふたりの近親者がいて、世間からは見捨てられそうなその二つの人生をすくい上げ、今日の私たちにまで届きうるよう、その無産の人生を永遠の遺産にして守りぬきました。そうした近親者とは、正樹の子、藤村(本名、春樹)であり、ヴィンセントの弟、テオでした。ただ、正確には、テオの場合、兄の死を追うように自分も病死してしまい、こうした仕事 (私設の美術館を建て作品を展示) をなしとげたのは、テオの未亡人ヨハンナでした。
 牧師の息子として生まれ、人を愛でもって救おうと、哀れな売春婦と結婚するようなゴッホでしたが、他方、代々引継がれてきた本陣、問屋、庄屋の長男に生まれた正樹は、封建制の支配階級の末端にあって、ゴッホの与えた愛と同質のものをもって、農民たちに接しました。しかも、権力の横暴が目に余るようになる既存体制への落胆ばかりでなく、代々続いた自身の地位や職業も崩壊に向かいます。そうした中で、彼は、末期に差し掛かった封建制度や揺れ動く社会へ強い疑念をいだき、平田派の国学思想を通じ、理想の世界像をまだ生まれたての日本の原形に求める復古主義に託しました。
 本陣 (武家専用の宿屋) という特権(同時に義務も)を与えられているとはいえ、問屋として宿屋事業を経営するかたわら、そうした思想追究の道にも励む正樹。母親や妻は、そうした脇道に情熱を燃やす彼を、そういう人だとは認めつつ、もっと商売に専念してくれればとの思いがその内心でした。
 本人、正樹にしてみれば、いずれが 「世を忍ぶ仮の姿」 であったのか。深い板ばさみの生き方を、彼は生きねばなりませんでした。


 藤村は、そういうジレンマを、父の姿を通して、この生涯最後の作品に描きました。しかも、そのジレンマは、父や彼個人のジレンマであるとともに、開国に揺れ動く日本自体のジレンマでもありました。
 この作品の前半は、そうした日本のありさまを、当時の交通幹線のひとつ、木曽街道の宿場、馬籠の本陣の日常を詳細に描くことで、時代のリアリティーを浮かび上がらせています。
 また後半では、ストーリーの主調は、思想追究者としての父親像を通じた、時代の描写や分析へと転じられ、前半とは異なった表現スタイルのもとで、物語は思念的な深みを帯びてきます。
 読者として、著者の導く複合的な視座を通し、そうした時代状況に接して認識させられることは、当時の日本のもつ、今日の世界情勢にある一面との類似性です。
 例えば、当時の勤王派の先鋒、水戸浪士の千人を越える武装集団が、家族も引き連れ、冬の雪中を、水戸から、上州、信州をへて、馬籠を通り、京に向かって行く場面があります。外敵に妥協する幕府に叛旗をひるがえす、ナイーブなほどに純粋な一団に、藩幕体制の側の一角を支える主人公も同情を注いでいるのですが、この謀反集団は、今日的には、“日本原理主義のテロリストたち” とも見れます。この一団にせよ、また、その後の、新政府軍と旧幕府側との間の戊辰戦争にせよ、今日の中東を思わせる情勢が当時の日本にはあり、強力な先進外国勢力の介入や策略をきっかけとして発生した、まさに、内乱状態にある日本がありました。
 そうした、やや異例な表現構成を通じ、時代の複雑な内実を反映させた作品表現を体験することで、私はもうひとつの発見をしました。
 藤村は、主人公が傾倒する国学の一派、平田派への情熱を、ことごと仔細に描きます。
 国学といえば、その父は、今日でも当時でも本居宣長の名があげれられますが、その本居が、儒学を外来学問、つまり 「漢(から)ごころ」 としてしりぞけ、事の本質を 「大和ごころ」 への回帰、つまり 「新しい古(いにしえ)」 、あるいは、「自然(おのずから)に帰れ」 と説き、当時の知識人たちを動かします。
 蘭学をはじめとする洋学は、もっとも新しい外来学問でしたが、そうした学問が、実学として有用であることは認めつつ、自らの魂のもっとも深く帰属して行く先 (今の言葉でいえば、「自らのアイデンティティー」) を、中世をも越えて遠い昔に探ろうとしたわけです。そうした思想追究は、私には、日本なりの 「ルネッサンス」 であったとも受け止められます。
 また、そういう儒教自体も、秦の始皇帝時代、復古をとなえて危険思想と断罪され、焚書にふされたわけですが、この、昔に何かを求めて行く姿勢、ここに何か原則的な流れがあるように思えたのでした。
 というのは、まず私事で恐縮ですが、いつも私は、気がつくと、「歴史」 をやっているのです。
 ちなみに、大学で土木工学を学んでいたころ、その卒論となった時、やはり、歴史をやっていました。つまり、日本では、この工学分野を 「土木」 と称しているのですが、その、なんともやぼったい名が、英語では、いかにもスマートな 「シビル・エンジニアリング」 つまり 「市民工学」 と称すると知りました。そして、それをなぜかと追究する中で、歴史にたどりついていたのでした。当時、母校の土木工学科にそうした歴史を担当指導する教員はおらず、困惑されたものでした。
 ある疑問をいだいた時、それがどうしてそうなっているのかと、過去を振り返って探ってみたくなるのは、当然な発想であり、自然な流れです。
 これまた私の卑近な体験例ですが、山を歩いていて道に迷った時、確かであった所までいったん戻ってみる (未知ではなく既知に立ち返る) というのは、遠回りなようですが、万一の致命的失敗を避ける重い原則です。
 つまり、そうした、確かなものを確認するために時間を遡行する作業、これが 「歴史」 に向かう姿勢であり、これを、本居宣長の言葉を拝借して、「歴史ごころ」 と呼んでみたいと思います。
  『夜明け前』 は、たしかに、この 「歴史ごころ」 を扱っています。しかも、ひとりの 「ゴッホ」 を父として持ってしまった藤村は、父のジレンマの人生と自分の人生に、さらに板ばさみとなって苦悶したはずです。そうした彼が、第三の 「ゴッホ」 になる覚悟で書いた作品が 『夜明け前』 であったと私には読めます。そこに、自死があったかどうかはもう無意味な詮索で、その有無はおそらく、意思と現実のおりなす、ある偶然の産物のほどでしかなかったでしょう。


 前回、この 『夜明け前』 に取り掛かった理由のひとつに、司馬遼太郎のいう 「鬼胎」 とのかかわりがあると書きました。また、幕末期、多くの 「尊皇攘夷」 派の志士たちが、いつのまにやら 「開国派」 に変貌してしまった、その逆転に、あるいは、それが 「逆転」 と見える自分の知識に、なんとも腑に落ちないものを感ずると書きました。
 つまり、こうした問いへの答えを求め、この作品を描く藤村の作業に、「歴史ごころ」 を共有しようとしたわけです。
 そうした共有作業の結果はどうであったのか。
 先に述べたように、私は、幕末期に存在した、重層するジレンマに注目します。時代を受け止めようとすればするほど巻き込まれてしまう、逃れようのない板ばさみが、幕府にも、尊皇攘夷派にも、まして、一人の個人である主人公半増にもありました。
 それを、あるものは、実利にさとく現実主義にとびついて生き延び、あるものは、ナイーブな純粋心情に訴えて自滅し、またあるものは、いずれにも傾かず、その身を切り裂く矛盾に全身をさらして命を磨耗させました。もちろん、これらの選択肢の間を、故意に、あるいはやむなく、渡り歩いた者も少なくなかったでしょう。
 そうした歴史的試練を体験しながら、いかんせん、歴史的発展段階として、当時の日本と西洋列強との間に歴然として存在した、時間にして、一世紀半から二世紀のギャップは、それを克服しようとした日本の発展パターンに、一連の歪み、つまり、圧縮された発展に伴う後遺症、を内在させました。そうした発展は、西洋世界では、近代への脱皮に欠かせなかった封建制の自生的な崩壊、つまり、専制王政の共和制への移行や民主主義的議会制度の発達に裏打ちされたものでありました。しかし日本では、その急がれた発展のため、西洋社会にみられた一連の近代化の基層は、形式的な移植や底の浅い模造におわらされ、内実は、封建制の残存ばかりか、古代以来の遺制である天皇制の近代化された再生=王政復古をも骨格とした、日本的擬似近代制度を生み落としました。
 日本のもついじらしいようなユニークさが、青年期の揺れ動く自我のように、外国勢力というえぐいエゴに遭遇し、自己の存亡の危機にさらされた末の、そういう生きるすべでありました。
 司馬のいう 「鬼胎」 も、この西洋の受け売りを父に、不連続化された歴史発展を母に、祝福されずに懐胎された命であったのでしょう。


 こうした歪みや擬似性を内在させた発展の延長上に、悲惨な1931-45年の “アジア・太平洋戦争” があり、さらなる延長上に、現在の私たちの時代が位置しています。
 例えば、副島隆彦の 『属国・日本論』 (五月書房) が言うような、明治維新期には英国に、第二次大戦以降は米国にあやつられる、隠蔽され続けてきた日本の別像も、そうした歪みや擬似性を補完する代物です。
 今日、世界には依然、ヘゲモニーのギャップは存在しており、その支配国は国益としてその存続を固持しています。日本は、かって、東アジアに帝国を築くことをこころみ、そのヘゲモニー所有国の一角に食い込もうとしました。しかし、その野望は完敗させられ、その特異な一時期を例外に、再度、主導ヘゲモニーへの従属国としての位置を保って安泰を維持してきています。
 明治維新を生きた藤村の父親のジレンマは、歴史として、今日へと引継がれているばかりでなく、その父親像をモデルに時代を表現し、そうしたジレンマを自ら意識的に担った藤村の志も、いまだ今日的です。時代としても、個人の生き方としても、明治維新のジレンマは、いまだに存在し続けています。
 まさしく、いまだ 「夜明け前」 です。

 (松崎 元、2006年10月14日)
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