「両生空間」 もくじへ 
                                                                   HPへ戻る
 


     
   学問を職人する


 2005年9月の第一回の両生学講座で、「学問としての 『両生』 」 とのタイトルのもとで、「両生学」 とは何かについて述べました。
 実をいうと、そのように、「両生」 そのものの定義付けやら意義やらを書いてはみたのですが、そうではありながら、本当のところ何をやりたいのか、内実は手探り同然で、あっちこっちへと揺れ動きながら、これまでの15回の講義を続けてきました。
 確かに、そこでは両生学を 「学問」 とよび、「学際的 ・ 応用的学問分野」 と定義してはみたのですが、意気込みはともあれ、それが、いわゆる 「学問」 と分類してよいものかどうか、厳密なところ、日ごとに危うさを増してきています。
 また、それとは逆に、こうした模索の中で、「やりたいこと」 については、いっそうはっきりとしてきています。つまり、私が試みたいことは、アカデミックな学術研究はさておき、もっと実用的なものです。たしかに、学術的な研究成果を対象のひとつとはしますが、それも、実用性の範囲においてであり、アカデミズムの論証のジャングルに踏み込もうとするものではありません。
 むしろ、いかに生きようかと悩み模索する、私たちの人生航海に必要な海図やガイドブックとしての有用性を主眼に、それに有効である限りの深さと広さを優先する議論です。
 言い換えれば、ための議論ではなく、それがいかに役立つのかの議論です。
 時代に目をやれば、社会ルールの根幹が、「結果の平等」 から 「機会の平等」 とやらへと変えられつつあり、「結果」 は、それが平等であろうが格差に満たされていようが、もはや、公の責任ではなく個の責任とされ、それに応じ、“個の武装” もおのずから、やむをえない状況となっています。すなわち、もう、立派な “戦争” の時代です。
 しかし、そうした中、また、そうであるからこそ、両生学は、人を出し抜こう、相手を踏みしだこう、とする意図にくみするものではなく、むしろ、そうした状況にもまどわされない判断力をつちかう、そうした視座の提供に寄与したいとするものです。
 また、何をもって 「実用的」 とするのか、その内実については、あくまでも、「学術」 に対して 「実用」 本位であるという意図を主眼とし、決して、「実利的」 であるとの意味 (ことに物的、金銭的実利) を保証するものではありません。そして、実利的でもなく、学術的でも、まして、エリート主義でもない、この二重、三重の 「ない」 に挟まれた、きわどい隙間を切り開いてゆきたいと願うものです。
 先に私は、「知識を職人する」 というエッセイを書きました。そこで、知識という食材をつかっておこなう「料理」という表現で、「職人する」 極意を説明しました。
 その習いで言えば、学問についても、それを 「料理」 するやり方がありそうです。すなわち、「学問を職人する」 方法が。
 そこでですが、そのように、「職人された」 人類学として、私は 「両生人類学」 を定義、提唱したいと思います。
 その第一回の講義を、この新年の皮切りに、別記事にて提供しております。ご一読を。

 (松崎 元、2007年1月7日)
                                                          「両生空間」 もくじへ 
                                                            HPへ戻る
                  Copyright(C) Hajime Matsuzaki  この文書、画像の無断使用は厳禁いたします