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両生学講座 第16回(両生人類学
 



       
「多重植民地」時代



 「オリエンタリズム」 という言葉があります。
 この言葉は、パレスチナ出身のエドワード ・ W ・ サイードという学者の言葉です。その出身地から連想されるように、彼は、西欧文明に徹底的な批判を加えました。その鍵となる概念が、この 「オリエンタリズム」 です。
 サイードはこう言っています。「オリエンタリズムとは、オリエントを支配し再構成し威圧するための西洋の様式(スタイル)なのである」。
 平たく言うと、オリエンタリズムとは、欧米が、東洋ばかりでなく、世界を支配するための、彼らの都合のいいように組み立てられた理屈です。かっての、英国のインド支配も、フランスのベトナム支配も、今のアメリカのイラク戦争や先のアフガン戦争も、すべて、こうした理屈に立って行われてきました。かっての日本の朝鮮、中国侵略も、そういう意味では、日本式の 「オリエンタリズム」 行為といえます。
 学問分野において、人類学そのものも、そうしたオリエンタリズムを支える学問研究として発展してきたものです。西洋によって支配されるべき未開発人種を研究し、その支配と被支配に役立てる、そうした経緯と使命を持っているものです。
 日本では、しかし、そうした学問はあまり発達しませんでした。ですから、戦前戦中の朝鮮、中国の植民地化も、同根文化、同種人種との一方的思い込みを持ってあたり、その信念と行為の間には恐ろしいギャップをつくりだし、結果、大失敗しました。その点、欧米のそうした学問研究は緻密かつ実務的で歴史もあり、そのおかげて、いまだに、彼らの支配は世界に君臨しています。ちなみに、かっての英国によるインド亜大陸支配は、わずか数千人の英国人の植民地駐在で、効率的に実行されたといいます。
 そうした経緯から、人類学と植民地主義は、切ってもきれない関係にあります。
 ただ最近は、そうした関係の中から、サイードのように、被植民地の被支配民族出身の研究者が登場し、そうしたオリエンタリズム的な人類学を逆手どった人類学、つまり、反支配の人類学を編み出してきています。
 では、かっての侵略戦争中ならいざ知らず、今日の私たちの生活に、そうした人類学が、どのように重要なのでしょうか。


 
私という植民地
 「私」 と 「植民地」 を並べてみるのは、ちょっとした用語の誤使用かのように受け取られるかもしれません。その逸脱したもの同士をあえて結び付けようとするのが、ここでのあえての試みです。
 つまり、「植民地」 の古典的意味である、特定の地理的領土への政治的、経済的、軍事的、文化的支配といった定義を離れ、もっと一般的に、《人間による人間支配の装置やシステム》 を 「植民地」 と呼ぶこととします。

 昨12月の第15回の講座で、両生歴史学のひとまずの節目として、「動点観測、定点観測」 と題して講話しました。すなわち、「動く」 観測をしなければならないのは、ほとんどの生活者、すなわち、労働者や被支配者として生きるしかない人びとにとって、避けられない道であり、そして、もしそうであるなら、むしろ、「動く」 ことを原点としたものの見方があってもよいのではないか、とする提案でした。
 生きるために、さまざまな姿はあろうとも、自らを商品とし、それを売って生きる糧をえる、そうした 「原理」 にさらされる人びとにとって、今日に限らず、その生活環境はまことに厳しく、一生涯、安住した職業をえられる人は、きわめてぬきんでた才能に恵まれるか、あるいは特権的な生まれをもった、ほんの一握りの人たちのみでしょう。その他の 「庶民」 は、ともあれ、生活という生存競争に、たとえ勝者とならずとも、つつましい暮らしを守ろうとするだけでも、考えられる限り多岐な選択をとらざるをえません。
 そうした選択、すなわち 「動的必然」 が、一見、不動かにみえる、 「国」 という分野にも及んでいるとするのが、「両生」 の考えでした。
 そうして、いくつかの考察の結果、到達したのが、日本という国が植民地であったという地点です。
 かって日本は、朝鮮や台湾、中国を植民地としましたが、「アジア太平洋戦争」 の敗戦により、こんどは、アメリカの、「属国」 どころか、「植民地」 とされたというのが、私の認識です。もちろん、この戦後の 「植民地」 化は、日本が行った 「植民地」 化とは、その様相を大いに異としています。むしろ、「アメリカ化」 といってよいような、巧みに人びとの内面にまで入り込み、価値観の同化まで伴うような、いっそう高度かつ大規模な 「植民地」 化の “成功例” といえましょう。
 そういう発見を、過去20年強にわたるオーストラリア生活、つまり、「両生生活」 がもたらしてくれました。
 しかし、ここで、「植民地」 の定義を、古典的なものから、より現代的で拡大したものとする時、多くの新たな光景が私たちの視野に入ってきます。

 ところで、その新定義の適用に入る前に、その 「植民地」 的情況を発見するに至る、相関する 「とばくち体験」 に触れておきたいと思います。
 それは、いくつかの二重構造=分化との遭遇です。たとえば、オーストラリアで生活するようになって、自分を、「日本人であって日本人でなし」 と感じる分化や、自分が日々傾倒していること (典型が仕事) における、「仮の姿、実の姿」 といった分化にかかわるものです。
 前者の分化に関しては、まだ留学生になって間もないころ、それがどのような事項であっても、何かにつけて、私の周囲に、日本にかかわる話題がのぼった時、どうしたわけか、まるで自分が常になんらかの正解を用意していなければならないかのような気分にとらわれたものでした。それで、「英語で言う日本 X X 」 といったような本をあさったりしたこともありました。ですが、そのうち、「俺はいつから外務省のスポークスマンになったんだ」 などと覚るようになったわです。つまり、いわゆる 「日本人」 であることと、実際の自分との間に、簡単には無視できない距離や違和のあることに気付きました。上記の植民地論の用語を用いて言えば、ナショナル・アイデンティティーに私自身のアイデンティティーを、とうてい帰属させられないことに目覚まされたわけです。
 そういう意味で 「国離れ」 する体験がありました。
 後者の分化については、これは、もっと長いつきあいがあります。その明らかな発端は、いわゆる職業、つまり、労働ににかかわるようになってからです。言い換えれば、自分を 「商品」 にする体験をし始めてからです。そこに存在していた世界は、たとえそれだけの報酬をえるためのものとしても、それだけの帰属を求められる、その相当関係の納得性を問うてくる世界でした。それが、量的なものなのかそれとも質的ものなのか、あるいは両方なのか、ともあれ、私にとってそれは、等式ではとても結び付けきれない、不可解な関係でした。
 この労働上の関係を、「植民地」 の新定義を当てはめて言えば、私はたしかに、雇用主という組織、団体に帰属を強制される 「被植民地民」 でありました。またそこには、帰属すべき先として存在する、ナショナル・アイデンティティーならぬ企業アイデンティティーがあったことも確かです。そして毎日の通勤とは、その企業アイデンティティーと自らのアイデンティティーの間のギャップを、そうした認識自体がまるで自分の責任かのように感じながら往復する、味の悪い繰り返し行為でありました。
 こうした分化は、それだけに留まりません。それとのつきあいの長さという面では、子供時代からの一連の体験があります。
 私たち家族は、父の転勤の関係で、ほぼ2、3年おきに、引越しをしていました。それは、ある時は、東京から地方都市への引越しであり、ある時はその逆でした。なかには地方都市間の引越しもありましたが、ことに印象的であったのは、前者の二方向に代表される、中央と地方との “最大落差” 間の移動でした。そしてそれが中央から地方に向かうベクトルであるとき、そこには一種の優越性を伴う移動を感じさせられ (時には、そうした落差に歯向う地元のワルの攻撃の的とされたこともありました)、またその逆の場合には、ある劣等感を伴うものがありました。そのようにして、同じ私でありながら、異なる意味をもつ私があるとの分化を発見していました。
 そういう意味で、私が体験した日本でのあり様は、地方は中央の様々な意味の優位性によって支配される 「植民地」 であるといえます。少なくとも、私はそういう落差の存在を感じ、子供心なりに、またそれだからこそより直裁に――時には言葉のなまりの違いがゆえに、時には自分のあずかり知らぬ有名人らが私のいた 「中央」 のどこかに住んでいるという事実がゆえに、私はおどおどさせられ、あるいは特別視されながら――ありありとその格差を感じ取っていました。
 その理由はどlうであれ、「移動」 という、私を 《異化》 させる体験が、そうした格差の看取力を、私に育ませてくれたことは確かです。
 そして、最後に、かつ、「私という植民地」 と小見出しにもかかげているように、特に言及しておきたい領域として、私の内面においての分化と 「植民地」 関係――これこそ、もっとも長期にわたるつきあい――があります。それは、典型的には、自身のもつ劣等感と優越感が作り出す、自己内部の自分による自分の抑圧、被抑圧関係です。もちろん、この優劣関係を引き起こすものは、内部世界に反映された社会的なものの鏡像です。そして、その社会的原因への挑戦やら客観化を通じた克服により、その植民地関係自身も変動してきました。言うまでもなく、こうした克服は、上に述べたさまざまな次元における移動とも連動したものです。つまり、私の内部にそのように投影されていた、その時代、その次元の植民地的価値観=擬制あるいは押し付けられたアイデンティティーは、ひとつひとつそぎ落とされ、ようやく、自分自身のアイデンティティーがえられてきたように思います。ただ、この最終的アイデンティティーも、それは、こうした過程をへて追求、形成されてきたもので、本来よりそのようにあったものではなさそうです。ましてや、「日本人だからこそ持つアイデンティティー」 と生来のもののように称される説は、おおいに眉唾物に思われます。そういう意味で、この最終的な自己アイデンティティーは、きわめて社会的かつ動的なもので、私の人生の産物といえるものです。ちなみに、私の場合、この生産に60年を要しました。
 
 こうして、ロシアのマトリョーシカ人形のように、地球規模から個人の内面まで、「植民地」 は、いくつもの次元に対応した、入れ子人形の構造を形成しています。
 玉ねぎの皮をむくように、その入れ子を次々にはいでいって、では、最後には何があるのか。それは、ただの最小人形の中の空っぽな小空間です。
 しかし、その、空っぽの発見こそが真の自己アイデンティティーであるという、一種アイロニカルな実相がそこに存在しているわけです。
 その意味で、むしろ、「アイデンティティーなんぞ、なくて当然、くそ食らえ」 と、悪態をついてみたくもなります。


 両生人類学の提唱
 さて、このようにして到達した、「反植民地」 あるいは 「反オリエンタリズム」 の視座と、「空アイデンティティー」 という視座との交点に、「両生人類学」 の起点を定めたいと思います。
 すなわち、今日のグローバル時代とは、一方で、情報技術や交通手段の発展により、この地球の地理的尺度が極限にまで縮小されている物的条件に加え、他方、情報技術の発達やメディアの寡占化による人心操作の容易化により、私たちの内部世界の 「植民地化」 も極度に発達・深化しているという精神的条件が折り重なっている、 「多重植民地」 の時代です。
 そうして、一見、国際化し無国籍化した人間が増え、ある意味ではあこがれの対象ともなっている中で、またそうであるからこそ、この 「多重植民地」 状況がもたらす、誰のものでもない本当の自己アイデンティティーの形成――いったん空にしたアイデンティティーに中身を与えてゆく作業――が問われています。
 そうした必要にかみ合ってゆける場として、「両生人類学」 という 《思考分野》 (今回のエッセイ 「学問を職人する」 で述べたように、必ずしも学問分野であろうとはこだわりません) を提起したいと思います。


 (松崎 元、2007年1月11日)
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