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  甲州 恵林寺の思い出


 恵林寺 (えりんじ) の思い出、とは言っても、私はそのお寺にお参りしたり、ましてやその境内に立ち入ったことすらあるわけでもありません。ただ、いつも、その門前を通りすぎるだけでした。
 甲州、塩山の北、甲武信岳 (その頂上が甲州、武蔵、信州の三国境をなす) にその源を発し、甲府盆地を流れ下る笛吹川の扇状地のほぼ中央に、武田信玄の菩提寺として知られる、恵林寺があります。
 その門前を最初に通りすぎたのは学生時代のことでした。新宿を最終の夜行鈍行列車で立ち、まだ夜も明けやらぬ塩山駅に到着、暗がりの中で一番バスを待ち、早朝、その小さな田舎のバスにゆられて、当時は 「新地平(しんちだいら)」 と呼ばれていた終点まで行きました。そんなバスですらかろうじて通れるほどの曲がりくねった山道の、朝もやに煙る行止まりが、谷沿いの貧相な、その名も語る開拓地でした。おそらく、その奥に位置する、「西沢渓谷」 と呼ばれる、渓谷美と秋の紅葉で知られた景勝地がなければ、そんなバス路線すら考慮されなかったでしょう。
 その地が今では、「西沢渓谷入り口」 と名を変え、また、裏の秩父山稜をぶちぬいて奥多摩と結ぶトンネルも建設され、当然、道路も昔とは天地の差ほどに整備、高級化されて立派な観光地に生まれ変り、訪れるあまたの客を迎えています。
 このバスが、塩山の町並みをはずれ、田園地帯に出てしばらく走ったあたりで止まるバス停が、「恵林寺前」 でした。いつも、車窓からその山門と境内の森を見やるだけでしたが、幾度も通ううちに、その名と光景はしだいに私の記憶にしるされてゆきました。もちろん、その土地柄、あるいは、門前の看板に読める文字から、それが信玄にゆかりの深い寺であることも、それとはなしに覚ることとなりました。
 ただ私は、その 「西沢渓谷」 を訪ねるためにではなく、そのひと筋となりの谷、 「東沢」 に行くため、社会人となってから渡豪までの十数年の間に、幾度となく、そのバスを利用していました。
 山登りの経験も長くなり、沢登りというやや技量のいる分野が気に入り、ことにこの 「東沢」 の、変化に富む谷容や、スケールの大きいその大自然の造形に魅かれ、また、ちょっと危険なそのコースに必要な挑戦的な緊張感も、私を飽くことなく通わせた理由でした。
 その 「東沢」 は、五月の連休の頃は、まだ沢のあちこちに冬の荒々しさをしのばせる雪のデブリが残り、夏はその冷たい渓流に足を洗わせ涼を味わい、秋は紅葉をめでながら心まで紅に染め、それぞれが別人のような姿を見せるその渓谷美人に会いたくて、足しげく通ったものでした。
 また、この地には、もうひとつの、運命的とでも形容したくなる、ある関わりがあります。
 それは、先にも書きました、私の人生において最初の辞職をしようとしていた時のことでした。私は、つのるやりきれなさと、その先どうすべきか、自分の身の振り方の思案のため、秋の数日間を過ごしたところが、このバスの終点に近い、谷沿いの村落にあった小さな温泉宿でした。
 その日、私は思い立って新宿発の列車に乗ろうとしていました。勤め先にも、家族にも、何も連絡していませんでしたので、私は親友の一人に電話を入れ、「これから一週間ほど姿を隠すので、ちょっと騒ぎとなるかもしれない。心配は無用だが、後を頼む」、と言い残して車中の人となりました。それから数日、その温泉宿 (と言っても、民宿に毛の生えたもの程度でしたが) で、湯につかったり、谷間を散歩したり、読書をしたりして模索の時を過ごしました。
 やがてようやくの決心を得、山を下って帰路に着き、翌日、上司に退職の意志を伝えました。上司の部長からは当然にその理由を聞かれました。私は、「はっきりとした理由はありますが、理解して頂けるとは思えませんので申し上げません」 と、開き直ったかのようにそう答えていました。実際、そこにまでいたった道筋をその人に説明しなければならない義務を感じてはいませんでした。上司は、「お前は、よっぽどのアホか、よっぽどかしこいのか、そのどっちかだ」 と言い、憮然とした顔で私をにらんでいました。

 最近になって、しかもここオーストラリアの地で、そのような思い出につらなる恵林寺の名に、禅の本を読むなかで再び出会いました。
 日本人なら誰しも、「心頭滅却すれば火もまた涼し」 といった言い回しを記憶しているかと思います。私は、その出典もよくは知らずに、この語句を、精神主義の固まりのようであまり好んでいませんでした。それが、禅の本なら必ずと言ってよいほどよく出くわす、その世界では有名な文言であることを、ここに至って知ることとなりました。
 先にも触れたことがありますが、甲斐の名将、武田信玄が、その禅修業の師と仰いだのが、この禅院、恵林寺の住職、快川和尚であったといいます。信玄が織田信長との戦い中に病死した後、この寺に逃げ込んだ敵兵を引渡すのをその和尚が拒否したとの理由で,、寺は信長の大軍に包囲され、寺内の人々が楼上に集められたところに火を放たれ、そこで残した時世の句(遺けつ)がそれでした。1582年4月3日のことです。ただ、正確には、次のようであったと言います。

 すなわち、禅の平安な境地に達するに、自然の山水のみがそれをもたらすわけでない。心頭滅却すれば、火焔そのものも、その自然のように清涼である。
 和尚の言う山水が、たとえ五世紀もへようとも、私の通った現代の山水に連なっていることは疑いなく、彼も信玄もその笛吹川の水を飲み、その山麓の冷透な大気を呼吸していたことでしょう。また、私は、この 「火」 を、生きる現実のもつリアリティー、あるいは逆境、と読み替えたいと思います。すなわち、今日、事故にでも会わない限り、身を炎にさらすことはまさかないとしても、しかし、心身を死に至らせる恐れのある過酷な責務にさいなまれている人は、決して少数でも異例でもありません。そうした社会環境にあっても、「涼しく」、つまり、自由に生きられ、そして死ねる姿勢。私の 「東沢」 通いは、期せずして、そうした思想を培ったその土地や自然との接触でもあり、さらに、私にとってその人生最初の 「社会的」 決断が、その地でおこなわれたわけでもありました。

 以上の思い出に加えて、さらに私は、この地への、もうひとつの関わりを語らねばなりません。
 それは、私にとって極めてつらい遭遇となった出来事です。私がオーストラリアに渡った次の年、1985年のことでありました。
 上に述べた、私の雲隠れの後始末を頼んだ友人が、私の辞職の後半年ほどして、やはり彼も勤めを辞め、私と同じように、一時、今で言うフリーターとなって生活費を稼ぐかたわら、自分の生くべき道を模索していました。そうしてその後、奥さんと二人して英国に渡り、社会福祉関係の勉強に熱意を燃やしていました。一方、私もやがてフリーターを卒業し、建設技術者の労働組合の専従に職を得、働き甲斐というものを見つけ始めていました。そして、組合員を率いてヨーロッパに見学旅行に行った1977年、その友人カップルとパリで合流し、ドーバー海峡を供に渡ってきた彼らの車で、南仏、北イタリアを一緒にドライブ旅行しました。その際、英語をたくみにこなす彼に私は頼り切りで、おおいに彼のたくましさを感じたものでした。
 そうして、1984年、その労働組合でのある大仕事が決着して、今度は私が決断して、渡豪するいきさつとなりました。その当時、彼は、その英語力と技術屋の経験を生かし、インドネシアの高速道路建設プロジェクト現場で、監督として働いていました。そしてその翌年、彼の仕事がひと段落するとのことで、それなら、帰国の前にオーストラリアに立ち寄り、ひさびさに再会しようとの計画でいました。それが、予定の時期が近づいても彼からの連絡がなく、何がおこっているのかと案じていたのが、その年の前半でした。
 その1985年の夏、日本に一時帰国すると、彼が行方不明、との報が私を待っていました。彼は、体調不調のまま日本に直接帰国した後、7月のある日、 「これから山梨に行く」 と言う電話連絡を奥さんに残したまま、行方不明となっていました。その時、私には、彼がなぜ 「山梨」 を選んだのか、とっさに感じるものがありました。そこで、私がかって逗留したあたりを手始めに、彼の写真を持って、別の友人とともに、その一帯をたずねて回りました。しかし、手がかりは発見できずに終わりました。
 その彼が、山梨県内のいわば隣の景勝地、昇仙峡のある崖下で、遺体となって発見されたとの連絡を受けたのは、その年の10月でした。私はオーストラリアにもどっていました。
 同じ笛吹川水系の別の支流、荒川にある、これも渓谷美の地が昇仙峡です。
 彼の死をめぐっては、それが不可解な死であっただけに、その真相について、いまなおあえて謎のままに残されているところがあります。ただ、これはおそらく私の独りよがりで、またそれでよいのですが、私には、この、彼と私の、場所をめぐっての共通性に、つらくそしてやる瀬ない、ひと筋の因縁を噛み締めるものがあります。
  

 このような、甲州、恵林寺をめぐる私の思い出があり、それは巡りめぐって、いま、一対のリアリティーとなって、このオーストラリアでもありありとよみがえってきます。すなわち、ぞの一対のリアリティーとは、ひとりの和尚が火すら涼しと極限の逆境に向かう思想であり、他は、そこまで共有するものがあったひとりの友人が、その山水にそのように孤独に死んだという痛恨です。
 
 (松崎 元、2007年4月3日)
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