「両生空間」 もくじへ 
                                                                 HPへ戻る
 

両生学講座 第19回(両生人類学
 



        
究極の健康法



 まず初めに、前回にキータームとして据えた 「商量」 という言葉についてです。

 この 「商」 を漢和辞典――以前に書いた 「角川漢和中辞典」 です――でひいてみると、その意味はふたつあり、 「商量」 の場合は、「あきなう」 方の 「商」 ではなく、 「はかる」 方の 「商」 であることがわかります。
  ところで、 「商」 の持つこの 「はかる」 との意について、これは私の憶測ですが、 「商」 の 「あきなう」 との意はむしろ後世になってからの派生で、もともとは、 「はかる」 のみが語源だったのでは。つまり、古代、商いとは物々交換がその発端で、そこでは、交換とは互いの物品の量を 「はかる」 ことを意味していたと思われます。それが後になって、貨幣の発生や物量概念の発達とともに、利益やお客の概念も生まれて、 「はかる」 行為の意味も多義化し、 「あきなう」 の意が分化したのではないでしょうか。言ってみれば、そういう歴史が、 「商」 という語にくみとれます。
 ともあれ、禅でいう 「商量」 とは、ことに、《自分の量をはかる》 ことに重点を置いています。そして、さらに想像をたくましくすると、そのはかられた自分が、何と 《交換》 されているのか、を問うこと。
 そう理解すると、禅問答の難解さも、意図的にそうしているのではないか、と見当が付いてきます。つまり、その問答の意味がそれなりにとれてしまったのでは、 「お前の量はそれほどなのだぞ」 と諭そうとしている禅匠のねらいがそれてしまいます。徹底的に相手を突き放し、その量の矮小さを思い知らさねばならない時、やさしく説いて聞かせることなどは問題外でありましょう。あたかも、言ってもきかない小児を、体罰をもって、つまり、一種の暴力をもって教え諭すように、ある次元の壁を乗り越えさせなければならない場合、そうした言葉の暴力、つまり強い刺激が必要であり、有効なのだと思います。ポイントは、その、諭されるべきことが、「自分自身にある」 と本人が気付くかどうか、にあります。つまり、内省の視野の陶冶です。


 今年2月の本講座で、「解脱」 とは 「アヘン」 かと問い、禅修業をも念頭に置きながら、「現実に目を向けず精神的 『解脱』 だけを問題としているとなると、いまだアヘンのそしりをまぬがれることにはならないでしょう」、と書きました。
 そこで、そう書いた私自身を商量しなければならないのですが、つまり、禅思想自体がそのように見える、そうした私の考えについて、それほどに、「矮小」 ではなかったのかと。

 ところで、私には、どこをどう言いつくろうとも、この世界すべての人間が、ともに等しく扱われているとは決して考えられず、明らかかつ大規模な不公正があり、また、それを是認するシステムが、政治的にも、経済的にも、宗教的においてすらも、全地球にはびこっている、と考える私があります。
 これは私事で恐縮なのですが、私は昨年八月、還暦を迎えました。この人生の大台に至るあいだ、私は、いく度か職種や業種を変え、学研への復帰もし、そして国境を越える地理的移動までして、それ相応の体験をしてきました。その結果に得ているものは、ひとことで言って、上記のような憂世な世界観です。つまり、60歳までの人生は、無我夢中ではありましたが、そうした世界観を学ぶに至る、インプットの過程でありました。ただ、到底、この世界観が完成したものであるとは思えませんが、そうした体験を経た、内実を伴ったものであることは疑えず、還暦という人生の節目を意識した模索の後、本サイトという、稚拙な物書きの場の設定とそのネット出版を始めました。
 還暦を境としたこうした決断がそれなりに転機となり、私の人生が、どうやら、インプットの時期からアウトプットの時期に移ってきていることを意味しているようなのです。またこの時期に前後して、 「リタイアメント」 などと銘打って、時好の計画や事業にも意欲を投じてきましたが、その木は育たず、むしろ、その不首尾な体験をてことして、ことさら、 「両生」 の思いも深めてきています。
 そこでですが、もし、この一連の体験や 「イン」 から 「アウト」 への反転が真実を射ているとしますと、還暦までは私の半生に過ぎず、そこが人生の折り返し点であったという見方もでき、人生120年といった、途方もないアイデアも浮かびます。それはともかくとして、こうしてようやくにして 「学び」 を終えた晩生の徒として、私は今後の 「半生」 に、そうして蒔いた種からの収穫をめざした農耕作業ができないものかと念じています。
 どうもこれまで、私は、たとえ 「憂世」 を言葉にしたとしても、それが 「様々な意匠」 のひとつに過ぎない軽薄を否定できませんでした。しかし、この半生をへて、限られたものながら、それに触れうる何がしかの身のほどは得たのではないかと思っています。その意味で、この半生のインプットは、私にとって、他に代えることのできない、かけがえのない財産であります。

 そういう次第で、私は、こうして得るに至った憂世な思いを、時流の歯の浮いたような楽観論や興国観に譲るつもりは毛頭なく、古臭い言葉ながら、義の志を、私なりに持ち続けて行きたいと思っています。
 言うまでもなく、もはや現代の資本主義は、その触手を、この地球と私たちの存在のありとあらゆる間隙にまで伸ばしきり、それと無縁の生活や生き方なぞ、考えようもありません。
 つまりこうした生硬な志は、だれもがそうであるように、長年の人生道程のうちに、常に、おびやかされ、揺れ動き、とどのつまり、それと 《交換》 したはずの何か――金、地位、名誉、権力、空手形、不健康、エトセトラ――を持たされることとなります。
 私の場合も、そうした逡巡をへた結果、ある実生活的な結論を見るに至っています。すなわち、先にも書きましたが、お金、マネーに、出来るだけ依存しない生活、つまり、商品の売買という手段に出来るだけ少なく頼ろうとする生活姿勢が、心身を守るという受動的なねらいばかりでなく、見方次第ではオフェンス法としても、きわめて有効な手段であると考えるようになっています。これは、比喩的に言っているのではありません。

 金銭価値が生まれて、それはあくまでも便宜上であったはずのそうした 「はかり」 方が、商品が蔓延するに至った今日では、あたかもそれが本質であるかとも錯誤され、そしてそうした本末転倒した 《交換》 が、あらゆる分野に、あまりにも公然とまかり通っています。つまり、畢竟、単なる数字でしかない金銭価値に、人や人生の価値までが、まことしやかに置き換えられてしまう、ありうべからざるまやかし。
 いうなれば、義の砦は、実務、制度として、ことごとく不毛化され、だからこそ、それは志ある個々の人間の内を土壌とするしかない、との認識です。角度を変えて言えば、突飛に聞こえるかも知れませんが、心身を守るある種の健康法の実行が各個人に定着することにより、それがもっとも有効な砦の構築に結びつくとの認識です。そうです、政治や経済、まして宗教に頼るのではなく、自分の毎日の健康法の究極化としてです。あくまでも、下から。


 つまり、禅思想とは、商量という内省を通じて、今日においても、きわめて有効な実戦性を提供しているといえます。禅とは、そういう、手段になることに徹した思想である、と思います。たとえ相手が、現代の資本主義であるとしても。 
 そして、もし、この私の理解にくるいがないとすれば、禅はアヘンであるどころか、もっとも効果的な抗アヘン法、つまり、 《究極の健康法》 と言えるのではないでしょうか。


 (松崎 元、2007年4月12日)
                                                  「両生空間」 もくじへ 
                                                 HPへ戻る
                  Copyright(C) Hajime Matsuzaki  この文書、画像の無断使用は厳禁いたします