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    修行第八風景


 予期せぬ一大事が起こりまして、店はいま、緊迫した雰囲気につつまれています。
 というのは、この 「修行風景」 シリーズで 「親方」 と呼んできた店のオーナーであり店長が、突然、店のビジネスを譲渡することを決心し、今月中にも、その売買契約が完了するというのです。
 店には、私も含め、彼の人柄に引かれて働いてきている人も多く、この思いもせぬ彼の決断に、少なくない動揺が広がっています。
 彼の説明によれば、この譲渡は、所有権が移転するのみで、店の名称とかメニューとかスタッフ構成とかにはいっさい手をつけず、これまで通りでゆく、との先方のたっての意向があるというのですが、その彼自身が退くのは間違いありません。彼独特の誠実な営業スタイルが顧客をつかむ一要素でもあったこの店で、その彼なき彼の店が 「これまで通り」 であれるのか、早くも、その波紋を及ぼし始めています。
 たとえば、彼のスポンサーによるビジネスビザで働いてきた、今の店筆頭の寿司板前さんにとっては、このビザも同時に消滅することとなり、彼は日本に帰国せざるを得なくなっています。また、これまでにも 「兄弟子」 として何度も登場してもらっている彼も、オーナーが代わるならここで働く理由はないと、ちょうど新たに店を開こうとしている、以前のこの店で修行した先輩のところに移る決心をしています。
 キッチンを仕切ってきた 「板長」 は、今の段階では残ることを決めているようですが、新オーナーの経営姿勢のいかんでは、転職も選択の内との腹のようです。
 ついでに言っておくと、新たなオーナーとなる人物は韓国の人で、すでにシドニーに回転寿司店を数店もっており、この機会をもって、本格的な日本食レストランへの参入を目指しているようです。そういうねらいのためか、できる限り日本人従業員に残ってもらいたいとの希望のようですが、すでに、上記のように、肝心な寿司部門で人の移動が始まっています。ともあれ、韓国人経営の日本食レストランになるということで、予断もあるのですが、日本人には落ち着かぬ要因となっています。
 また、この店に長く働いてきた人たちの間に、これまで、従業員に細かな配慮を見せてきた現店長が、こんな大きな問題を、事前に何の話もなく一方的に進めてきたことに、ある種の意外感をおこさせています。そこで、予想外の譲渡金額の提示に眼がくらんだとか、そういう人思いな人柄だからこそ、こうした判断ではかえってぎこちなく陥り勝ちなのだとか、いろんな憶測がされています。その一方、この決断の発表以来、これまで長年にわたりその彼を背後で支えてきた奥さんの、晴ればれとした表情が印象的です。

 さて、私ですが、動揺がないわけではありませんが、寿司の修行を持続したい私にとっては、その機会の確保が第一で、その点では、誰がオーナーかは二次的です。しかも、親方も、少なくともこの先半年は、雇われ店長として経営の引継ぎをしていくつもりであるとのことで、私としては、この期間での “特訓” も期待でき、さほどの迷いもなく、居残りを決めました。
 というのも、上記のように、この店の看板である寿司部門において、重要な担い手が二人も辞めて行く事態となっており、緊急の欠員補充は不可避な課題です。寿司職人の確保が容易な環境ならいざしらず、当地では、たとえ募集をしたとしても、時間がかかっても新たに見つかれば幸運で、ずば抜けた条件で引き抜きでもしない限り、その急な補充はまず不可能です。そういう次第で、現実策として手持ちのスタッフの活用は必至で、私としては、高校野球ではありませんが、このピンチは対応しだいでは最大のチャンスになりえる、とふんでいるわけです。
 先日も、辞めてゆく決心をした兄弟子や寿司板さんから、「元さんがその積りなら、いますぐからでも寿司部門に入ってほしい。店長にもそう言います」 との声かけもあり、「もちろん、やる気はありますので、お願いします」 と返答する経緯となっています。ここのところ、私の 「切った」 しゃりが寿司板さんにも好感されており、ある種の 「仲間」 扱いを感じ始めていたところでした。

 さて、こうした次第で、昨日から、寿司部門での第一日目が始まり、私が兄弟子と交代してつけ場 (お客さんと対面して寿司を握る場所) に入って寿司板さんにつき、余りにあわただしく付け刃ながら、私の寿司職人姿の “デビュー” となりました。
 これまで、従業員のまかない食として、私の握った寿司が提供されたことはありましたが、かくして昨日から、先輩の作ったものに一部紛れ込む形ではありながら、早くも、私の握った寿司がお客さんにサーブされるようになりました。寿司板さん曰く、「 『習うより慣れろ』 ですよ」。
 それに合わせて、昨日、仕事が終わった時、親方から、これを使いなさいと一丁の刺身包丁をもらいました。昨年からそうにおわす話はあったのですが、いよいよ、本腰を入れてやりなさいとのサインと受け取っています。
 こうして 「寿司職人」 初日は、「巻きもの」 など習っていなかったことまでいきなりやらされ戸惑いましたが、事前に見よう見まねで 「自習」 していたことも役に立ち、無事なんとかやれこなせました。それにしても、お客さんの目前で、おそらくぎこちなくやっているだろう自分の姿を意識しながら握っていると、肩のこることこの上もありませんでした。
 こうしていよいよ、私の 「七分の四」 は、寿司の道に専念してゆくことになりそうです。

 
 (松崎 元、2007年10月12日)

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