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修行第十二風景
私が巻き込まれて体験、目撃しているオーナー変更後の風景は、おそらく、生活者のだれもがそうである、巻き込まざるを得ない、ある競争劇のひとつのようです。
つまり、私がそこに 「ニッチ」 を発見し、その発見は当を得てそれなりの成果を見せ初めていたこの寿司の世界――正確にはオーストラリアの――は、いやはや、私以外の誰かにとっても、ニッチであったようです。
その誰かとは、言わずもがな、この店の新たなオーナーで、韓国にいる時に日本料理店で修行したことを発端に、その経験をもってオーストラリアに移住、小さな寿司店を皮切りに商売の腕をみがき、ここまで力をつけてきた人物で、そういうその人にとっても、この寿司の世界は、ニッチであったようです。
ところで、彼のその 「小さな寿司店」 ですが、その店は、今も私の住むキャンプシーの駅前にあり 【写真】 、彼の話では数年前に人に売り、今は別の韓国人によって経営されています。
私は、この地に住み始め、その店の名を初めて見た時、その 「東海」 ――店の看板に 「東海」 と漢字で、「Dong Hae」 と英語記した韓国語で表示されています――という名に、寿司屋の名としては変な名だな、と感じた記憶があります。つまり、私の感覚では、「東海」
では日本の東海地方を連想してしまって、子供のころ家族連れで潮干狩りに行った蒲郡あたりの、あの温暖なのったりとした海を思い浮かべ、ちょっと寿司のイメージには遠いのでした。しかし、それが韓国人経営と知り、その
「東海」 が日本海を意味しているとさらにさとって、「日本海」 という名ならありそうだなとも、思い直していたところでした。
私にとって、そんないわくのあるこの店は、その彼が付けたままの名で現在に至っています。つまり、オーストラリアとは、そういう 《文化的交錯》 が日常茶飯事でおこってしまう場であるのです。
で、そういう 「ニッチ争い劇」 の話ですが、寿司という日本文化の一端に関し、この修行にかかわりはじめてつくづくと感じさせられているのですが、確かに寿司は、日本の日本たるところを実に縦横に深め、表し、築き上げ、そして文字通り、味わせてくれている分野だなと感じています。それを先には、職人という角度で私にとってのそのニッチ具合の意味を書きましたが、まったく別のねらいからとは言え、この韓国人オーナーにとっても、新規開拓に足る分野であったようです。
アボリジニー文化を別として、独自伝統文化に欠けるオーストラリアでは、何ごとについても外来で、料理についても、オージーがそれらしいとさえ受け取れば、どんなまがい物でもまかり通ってしまうところがあります。
いまの店は、そういうオーストラリアでも、本来の日本スタイルを残そうとする 「オーセンティック」 さを持ってはいますが、もし日本人の誰かが旅行の途中ででも立ち寄ったとすれば、ある種のごちゃ混ぜの気配は感じ取ることができるでしょう。
そういう 「現地化」 という意味では、日本で育った寿司という文化を武器に、日本での先行きに限界を見出した元オーナーが、日本に居続けたらここまで順調にはやってこれなかったであろうと自認するように、
《文化的交錯》 の現場であるオーストラリアにあっては、ある程度の現地化さえ果たせば、だれでもが、自分の文化を糧にできる可能性が開けていたのでした。
そうした、オーストラリアならではの可能性の “競技場” で、いろんな出身背景をもった選手たちが力を競っているのですが、方やビジネスつまり使用者としての角度から、方や修行を期待する徒弟つまり被使用者としての角度からと、それぞれ相対する立場においての競争となると、現社会の構成原理のひとつである、資本主義的主従関係が、いやでも作用してこざるをえません。
そういう意味では、私が体験してきた修行風景は、世界のど田舎であるここオーストラリアならではのもので、それゆえ、その資本主義的関係からの抜け出しも可能であったかの、そうした
「ニッチ」 の発見と考えようとしていたのですが、なんのなんの、そのいまいましい神の手は、天網恢恢、どんな隙間も見逃すことなく、この辺地までにもおよんできていました。
さて、こうして火蓋が切られた――必ずしもその積りでいたわけでもなかった――生存競争劇にあって、私は、前回にも書きました国際色豊かな 「ごっちゃ煮」
の中で、ぐつぐつと煮詰められています。
ことに、ひと月前からは、それまでの週5日営業の方向が逆転し、週7日ぶっ通しの営業に切り替えられ、それに応じたシフト勤務体制を満たそうと、新たな従業員が入れ替わり立ち代り入ってきています。
おかげで、以前の、いつも同じ顔ぶれで毎日を働く (私は週4日勤務でしたが)、ある種の緊密な職場環境は落ち着きをなくしたものへと変じ、意思の疎通の悪さから生ずる食い違いや志気の低下、非効率も目立ってきています。
そうした波乱含みな店なのですが、他面では、営業日が5日から7日に増加したことから、寿司部門での人手もそれだけ多く必要となって私にひとつの機会をもたらし、今のところ、依然維持している週4日のうちの一日、私が寿司の助手としてつけ場に入るようになりました。まだ未経験ということで、一番お客の少ない月曜日が私の出番で、これまでなんとかこなしてきています。
思い起こせば、私がオーストラリアに渡る数年前から、日本では持ち帰り寿司 (うちの近所は 「小僧寿し」 でした) というものが広まり始め、私もその値段的手軽さを歓迎した記憶がよみがえってきます。ちなみに、旧オーナーが東京錦糸町の自店ののれんをたたんでオーストラリアに渡ってきたのも、私と同じ1984年だったそうです。
そのように、日本では、個人経営の寿司屋に代わり、会社組織の持ち帰り寿司や回転寿司、出前専門寿司が街々を席巻してきた――職人の世界の会社組織による乗っ取り――わけですが、オーストラリアでは、これとはやや異なった変化が見られます。
もともとオーストラリアでは、顧客数も限られ、寿司屋単独店の開業は難しく、日本食レストランが寿司も出すといった併設型が一般的でした。それが近年、日本の持ち帰り寿司や回転寿司の成功が波及してきたのでしょう、同様な進出がここでも見られ、寿司屋という分野でも多種
「ごっちゃ煮」 の状態―― 「ビーフ握り」 とか 「とんかつ巻き」 といった奇妙な寿司まであります――が見られます。しかもその経営者も、日本人、韓国人、中国人などなどと多文化的で、この点でもオーストラリア的です。
旧オーナーがこれほど早く店を売り渡してしまう決心をするとは予想外でしたが、それは、そうした即断を許すほどにも好条件をもって店の譲渡がありえたほど、この商売の魅力の存在をしめしているとも解釈できます。もちろん、この店のケースでは彼の才覚が大きく作用していると思いますが、その一方、寿司という日本文化の一端には、それほどの強みがあることの証拠ともいえ、今後も世界に、それぞれの現地化を果たした、二種類の
「ごっちゃ煮」 を生ませてゆくものと思われます。方や、ビジネス志向の、方や、職人志向の。
【追記】 一昨日、「来々週より火曜日も出て、寿司のセカンドをやってくれないか」、との話がありました。ちょうど、今では副業となったコンサルタント業方面の新しい仕事の話も来ていた所で、即答はしていないのですが、私にしては、週休三日制を二日に削るかどうかの分かれ目に立っています。忙しくはなりますが、寿司修行の実際の機会が増えることでもあり、当初の三年の修行予定も、あとほぼ一年を残すのみとなっており、この話を受け、ペースを上げて行くつもりでいます。今後、そのしわ寄せが、おそらく、「訳読」
作業の方に一番現われてくるでしょうが。
(松崎 元、2008年2月10日)
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