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両生学講座 第29回


         脱「分生空間」


 今講座の題名は、ご覧いただいているように しました。
 この 分生” とは、このサイトの骨格概念である 「両生」 の、ある意味での、反対語です。そしてそのおおむねの意味は、 「両生」 が複数の人生を生きようとしているとすれば、 分生” とは、分割された人生を生きる、と言った意味となります。

 話は卑近となりますが、私の左手の中指の爪には、常に、縦にしわ状の線が入っています。より正確に言えば、この線が出始めたのは、私が中学生の時で、それ以来、消えることなく続いています。
 その中学の一年か二年の夏休み、私は、学校の工作の宿題で組み立て式の本立を作っていました。幅が三十センチにもならない小さな本立で、すべて、厚さ9ミリのほおの木の板を材料としたものでした。この本立の両側板は、底と背に位置する幅2センチほどの二本の横棒で結ばれ、それぞれの側版には二つづつのほぞ穴が空けられ、そこに二本のこの横棒が差し込まれてくさびで固定される構造でした。本は後ろに少し傾いて収められるよう工夫されていて、二本の横棒でそれを受ける恰好です。
 本体がほぼ形をなし、最後にその四つのくさびを作っている時でした。材料の木板の破片をさらに小さく切って、小刀でくさび状に削ろうとしていました。小さな木片ですので固定しにくく、不安定に左手で押さえながら、右手の小刀を使っていたのですが、大きく削ろうと力を入れた瞬間にその木片が転んで、その小刀の先が木片を押さえていた私の左手の中指の先を刺してしまいました。血がどくどくと流れて、これはちょっと大変なことになったと思わされました。
 幸い、怪我は大したことにならずみ済みましたが、それ以降、わたしの指の爪にこの線が出始めたのです。どうやら、小刀の先が指のほぼ中心ほどにも達して、爪の根が作られる組織を変形させてしまったらしく、以来、この線が現われ続けています。
 それから四十数年も経過して、今、この記念碑たるべきこの線を見つめているのですが、その隣の人さし指にも、また別の傷があります。これは、傷つけてからまだ三日にしかならない、新しい切り傷です。寿司修行の仕事場で、ネギを刻んでいて、誤って指の皮まで刻んでしまったものです。ようやく皮膚が固まってきましたが、まだ、触ると痛みがあります。
 以前、先の板長から、「板前は指を切った回数だけ腕が上がる」 と言われたことがありましたが、確かに、その痛みやら、その傷のために仕事に支障をきたす不細工具合から、こんな失敗は繰り返すまいとの気持ちにはさせられます。もちろん、包丁だけでなく、その他もろもろの道具類すべてと、そういう関係にあります。

 今回こうして、指の傷ほどのことなのに、それをこと細かく取り上げているのは、指一本でもかくのごとくで、それが、腕の動きや、足や腰の据え方、体の姿勢などをはじめに、言うまでもないことですが、舌による味わいの鋭さや、耳で聞き取る音の具合、さらには、微妙な臭いの変化による正、異常の感知などなど、料理をする、あるいはもっと広く、物を作ることとは、そうした身体のもつ、あらゆる働きを全面的に動員し、全てが調和しておこなわれる、精緻な 《協業の成果であることを言わんがためです。
 私は確かに、子供のころより工作好きで、こうした痛みや身体の体験も、好んでたくさんしてきたようです。そしてその分、そうした痛みや失敗に鍛えられ、それなりの工夫や知恵も育ててきたようで、それが、よく言われる 「器用さ」 の根源となってきたのでしょう。
 つまり、人間の働きとは、こうした身体全体の働きの、調和し、統合された機能の総産物のことであって、言ってみれば、頭の働き具合も、指一本の使い方と強く結び付いているものであることです。もちろん、頭ばかり使う働きもあり、その意味では、私はどうもそうした「頭組」ではなさそうです。ともあれ、私には、身体を使うことと連動した頭の働きがあってこそ、本来の身体の働きであると感じられることです。まさしく、 「健全な精神は、健全な身体に宿る」 で、もちろん、その逆も真なりです。
 私は、そういう意味で、 「職人」 という働き方を、人間の働き方の原点のように思い始めています。先にも (「『職人』 という総合業」 書きましたが、ひとりで何でもこなそうというのが職人の特徴で、そこには、人としての総合性が凝縮しています。そして逆に、その総合性を分化させ、分断してきたのが、いわゆる 「分業」 といわれるもので、近代産業社会の発展と、その結果としての今日の高能率は、この分業なくしては決してありえなかったものです。言い換えれば、生産の大規模化と組織化です。その中で、いわば、自分でなにもかもをしないで、それぞれ別々に分けたことを専門に、そればかり集中してやり続ける、それこそが、今日の高能率社会の根幹であります。これを、 《職人働き に対して、 組織働き と呼ぶことにします。
 私も、現代の、しかも高度かつ緻密に分業された社会にあって、そのわずかな断片の専門者として仕事することを、これまで、つまり、現役の生産人口時代には、この 「組織働き」 として、担ってきました。
 しかし、人生二周目を迎え、また、そうした生産の中心から外れてもかまわない、あるいは、いやでも外されてしまう脱 「組織働き」 のサイクルに入り、ひょんなことから――当初、 「ボケ防止」 がきっかけでした――関わることととなった 「職人」 としての働き方に、 「分業」 と 「組織働き」 の時代とは明瞭に対比できる、違った世界を見出しています。ですから、これまでの 「生産人口」 であった自分の人生を、こうした脈略において、《分生、つまり、「分化され分断された人生」 であったのではないか――それは決して、総合的に調和し、統合されたものではなかった――と思い始めているのです。
 言い換えれば、少なくとも 「定年退職」 とは、こうした 「組織働き」 という自分の部品化の時期が、自発か強制かを問わず、ともかく終了して、中学生の時のように、自分が自分であり、自分の全体化が復活されうる機会であると思うのです。

 このような見地から、今日の社会をあらためて眺めてみますと、この、グローバルと喧伝され、無国境化されたはずの世界にありながら、私たちの生存が誘導され、許されている 「分生空間」 とは、全体性などとは縁のない、窒息すれすれの閉鎖、分断世界です。
 くわえて、たとえその 「生産人口」 時代を、そうまっとうしてきたからといって、いざ 「定年退職」 という、その 「分生」 の義務が解かれて現世にもどれる時に際しても、なおそこで発見せざるをえないのは、もはや復活も難しいほどに窒息と断片に慣らされた――たとえそれが 「悠々自適生活」 と呼ばれようとも――自己再生の困難な、いかにも寂しい姿ともなりかねない状況です。
 近代産業社会に生産人口の責務を引き受ける時期が必要としても、もし、その責務から解放され、 「分業」 と 「組織働き」 の時期が終わるとするのであれば、その終了は、その後の人生が 「分生空間」 からも解放されてしかるべき区切りでもあるはずです。

 私の左手の二指に印された二つの傷跡は、この 「分生空間」 参入以前と離脱に際した、遠く隔たる二つの時代を結びつける、ひと組の道標であるかのようです。しかもこれら二つの痕跡は、それが身体上の印しであるがゆえに、忘れっぽい頭の働きでも忘れきれない、私をめぐる四十数年をへだてる二つの時代の存在を、そう正確に告げてくれています。


 (2008年2月23日)

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