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両生学講座 第31回
こちら側とあちら側
まず最初に、今回の講座は、別掲のエッセイ、「人の物化と物の人化」 の続きという関係にあります。お手数ですが、まず、そちらを先にお読みください。
読者のみなさんは、自分について、その内外の境をどこに置いていますか。
私もそうだったのですが、漠然としてではあれ、おそらくその境目は私たちの皮膚でしょう。その皮膚表面を境界として、そのこちら側を内部、あちら側を外部と考えてきたと思います。
その境目についてなのですが、私は最近、それを皮膚とするのは適当ではないのではないか、と考え始めています。というのは、その境をもっと内側のどこかに置き始めている自分に、次第しだいに気付かされてきたからです。そこで、結論から先に述べますと、結局、自分のものといえるのは自分の意識だけで、それ以外の自分の身体をもふくめたすべてを「外界」 と考えるのが妥当ではないか、と考えるのです。つまり、自分の身体も周囲の世界も、自分にとっての自然や環境に等しいものではないか、とするものです。
確かに、自分の身体は自分の意思のもとに置けるのですが、私の体験からすると、私が自分の身体の “専制君主”であろうとすると、どうも身体の方が調子を悪くしやすく、逆に、身体が発している声――それはひそかなもので、よく注意しないと聞き取れないのですが――を聞いた方が、万事、具合がよさそうなのです。つまり、そうした方が、体もうまく動いてくれるし、気持もいいし、楽でもあるのです。ですから、自分が自分の体の主で、それを支配している、あるいは、支配できるとするのは、どうやらとても窮屈な発想で、畢竟、それこそが、もろもろの病気の根源なのではないかと思えてきているのです。言うなれば、自分の身体の独立を許し、あたかもそれが自分の
《植民地》かのごとく君臨、支配するのは、もう止めてみてはどうか、という発想です。
こうした発想へのアプローチは、実はすでに、前々回のエッセイの 「私の健康観」 に述べました。つまり、そこに書いた、健康とは 「心身という二つの対象を想定した、エコロジー的な調和状態」という考え方は、 「心」、つまり自分自身は、「体」と調和しないとうまくやってゆけないという発想に基づいています。むしろ、うまくやってゆけないどころか、それこそが、自分のもつ潜在能力を発揮する原理、原則であり、そうして、そのように体と付き合い会うことを知った結果の「感動的」とでも表現したくなる、自分自身の健やかさの実感でもあるのです。そのように、明らかに、「心」 と 「体+自然」というふうに、線引きをしようとしています。ただそのエッセイを書いた段階では、その線引きがどこかについて、はっきりと認識していたわけではありませんでしたが。
また、同エッセイでも述べましたが、ことに、自転車通勤の体験が、こうした発想に至る多くのヒントを与えてくれました。それは、ひらたく言えば、もはや社会をあげてのスローガンとなっている、「運動の大切さ」
を言っているだけもあるのですが、しかしその違いは、そこでも繰り返されるであろう、「しなければならない」 と、またしても身体に命令を下す、その主のそうしたあり方の問題です。
身体とは、 「自足自律機械」しかけの私 にも書いたように、動くマシンです。マシンですから、動かさなくては錆ついてしまいますし、動き続けるよう必要なエネルギーも与えてやらねばなりません。そして、そういうマシンの健全な働きの頂点に、この、私たちの意識が宿っています。したがって、そのマシンの、たとえば心臓というポンプが止まってしまうだけで、私たちの意識は途絶えてしまいます。また、余談ですが、これも自転車の体験より気づいたことですが、両足の筋肉は、それを繰り返し収縮させることで、血液を送り戻すポンプの役割も果たしているようです。つまり、運動をしながら心臓への負担を軽減しているわけです。
いうまでもなく、脳は私たちの意識の根源ですが、それでも一つの臓器であるという面は変わりません。そういうインフラストラクチャーとしての身体に支えられて、私たちのこの意識が存在しえ、そして、そのように存在しえているにも関わらず、それは頻繁に、傲慢な専制君主として振舞いたがるのです。
解剖学者の養老孟司は、あるところで、このように言っています。
私の言う「こちら側とあちら側」を分ける線引きも、こういう感じのものなのですが、この 「脳が作った世界」 の筆頭こそ私の意識であり、他方の「脳を作った世界(自然、といってもいい)」 は、そうであるからこそ、意識にとっての 「インフラストラクチャー」 なのです。そういう線をめぐって、その「こちら側」に意識が存在し、その意識は、その「あちら側」の全体によって、ことに物的に、支えられているのです。
そこで、冒頭で触れた「人の物化と物の人化」 の議論にもどるのですが、商品化をめぐって「人の物化と物の人化」――この問題を、《物化人化問題》と短縮して呼びたいと思います――が起こるのも、この「こちら側」と「あちら側」 を分ける線があるがゆえに、つまり二項対立があるからこそ、起こっていると考えられます。言いかえれば、その一見やっかいな問題も、(1) 私の「こちら側」を維持するためには「あちら側」 に頼らざるをえなく、(2) この関係がゆえ、生活の維持をめぐる不可避な命題を生み、(3) それに対する処方としての《二重(ふたえ)の構え》 を見出す、との三段論法的に整理できます。つまり、こういう線引きが補助線となって、これら三種の一見別々の問題が、同根同列の問題であったと見え始めることです。すなわち、その根源は、《物化人化問題》=物の集合であるはずの人間が意識をもつ、というところにあることです。
このように述べてくると、古典的議論である、唯心論か唯物論か、という二元論も――それは線引きの問題というより、はなからその二項対立は前提とされ、その意味で不毛に展開されていましたが――、その線引きをこのように置けば、それこそ、「鶏が先か卵が先か」 の議論そのものとも見えてきます。また、一世を風靡した 「シニファン」 と 「シニフェ」 という、「 X X するもの」 と「 X X されるもの」 という構造主義 (記号論) の議論の原点にも、そうした線引きは解りやすい糸口を与えてくれます ( 「ブーメラン現象」 参照)。
私たちは、この「こちら側」と「あちら側」 を分ける線をめぐって、日々その横断を繰り返し、その度に、《物化人化問題》を体験しています。ことに、その境界をあらぬところに設けたり、そうであると信じこまされたりすることにより、単なる作為があたかも本質かのごとく錯覚させられたりもしています。上にあげた、自分の身体の《植民地化》 をめぐる問題などは、その境界を皮膚上に置くことによる弊害 (その境界を地球全体まで広げた結果が地球環境破壊) で、上述のような線引きの認識により、明瞭に改善の契機がつかめる問題なのではないかと思われます。
どうやら 「私」 という存在は、身体にとって、どこからかやってきた侵略者のごときもので、本来、あまり歓迎されてはいない異存在か、時にはそれが変じて、あたかも
「神」 のごとくたてまつられてしまう奇存在のようです。ですから、そういう間借り生活者は、威張りくさるのはやめて静かに謙虚に暮すべきであり、そこに「神」 を見出す者は、それこそ自分の投影であると念じるべきでありましょう。
さて、ここまで来たところで、この 「こちら側」と「あちら側」については、別掲エッセイ、「人の物化と物の人化」 で述べている、インターネットの世界に関連し、興味深い議論が展開できそうです。それは次回の本講座のテーマとしたいと思います。お楽しみに。
(2008年5月13日)
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