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両生学講座 第32回
私‐世界共和国
今回では、わが 《両生学》 の 「ダイナミズム」 とでも呼びたいような、思わぬ次元への展開が、いよいよもって始まることになりそうです。
それには、ふたつの角度から、またしても、 「両生」 的にアプローチしてゆくことになります。ちなみに、それらはいずれも、この三月の日本行きの
“お土産品” による読書体験を土台としています。
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前回の「こちら側とあちら側」 と題した講座の最後で、「次回では、インターネットの世界に関連して興味深い議論が展開できそう」、と予告しました。
実は、その 「こちら側とあちら側」 という表現自体も、一種のインターネット用語です。私はこの表現を、梅田望夫の 『ウェブ進化論』 (ちくま新書) から拝借しました。
というのは、私は自分で自分のサイトを持ち、しかもそこに、あえて 「ボランティア」 として自分の書きものを発表し、つまり、いまやそれほどに 「ウェブ」 の世界とは密接不離となっていながら、その世界がなんたるものか、まだよく解っていないところがありました。そこで、先の日本行きを前に作った 「買い物リスト」 の中に、上記の本を (松岡正剛のサイト「千夜千冊」を手掛かりにして) 挙げておきました。
この本は、その副題に――本当の大変化はこれから始まる――とあるように、パーソナルコンピュータの普及とインターネットテクノロジーのもたらす変化を、18−19世紀の(広義の)産業革命に匹敵する変革ととらえる意欲的な著作です。まずそこで、その概容を、安直ながら、そのカバーに見られる案内文を借りてご紹介いたします。
- インターネットが登場して10年。いま、I T 関連コストの劇的な低下= 「チープ革命」 と技術革新により、ネット社会が地殻変動を起こし、リアル世界との関連にも大きな変化が生じている。ネット参加者の急増とグーグルが牽引する検索技術の進化は、旧来の権威をつきくずし、「知」
の世界の秩序を再編成しつつある。そして、ネット上にたまった富の再配分による全く新しい経済圏も生まれてきている。このウェブ時代をどう生きるか。ブログ、ロングテール、Web2.0
などの新現象を読み解きながら、大変化の本質をとらえ、変化に創造的・積極的に対処する知恵を説く、待望の書。
というこの本の中で、著者は、ことにグーグルに注目し、その強さの秘密と意味を説明してくれています。私も、自分のサイトにグーグルの検索システムを借用しているように、すでにその変化に取り込まれている者のひとりで、だからこそ、その相手が何者か、知りたかったわけです。それに、その検索が
(もはや無数ともいえる世界中の諸サイトの内容にまで及びながら) どうしてそんなに瞬時に処理することが可能なのか、不思議に思っていたところでもありました。そして、その謎を解いてくれたのが、この、「こちら側とあちら側」
という説明でした。
以下は、こうして得た私の理解ですが、私たちは、この 「新時代」 に参加するにあたり、少なくとも、一台のコンピュータとその中にインプットする一連のプログラムを、自前で用意しなければなりません。ことに、マイクロソフト社がソフト業界を席捲した後は、私たちはその押しつけがましい攻勢につきあわされ、自分には必要でもない新バージョン製品を買わされてきています。つまり、私たちは、マイクロソフトにはじまるそうした諸製品を、自主、強制の違いはありながらも、ともあれ自前でそれらを購入、保持しなければなりません。言い換えれば、私たちの
「こちら側」 にそれらすべてを用意することが常識となっていました。
ところがグーグルの斬新さは、この常識をくつがえし、それら (少なくともその部分) を 「あちら側」、つまりグーグル自身で用意し、私たちは、それによる利便のみを使用料ぬきで利用できるシステムを提供したことです。(ただ、こういう方式はなにもグーグルが初めてではなく、民放テレビ放送もそれに相当する方式といえ、その視聴者はただで番組を楽しめる代わりにコマーシャルにつきあわされるわけです。)
著者梅田によれば、現在グーグルは、それぞれを繋げた30万台のコンピュータ (これが瞬時の検索の決め手らしい) をはじめ、必要なプログラム、文字通りの膨大なデータ、それら全て――今の段階では、検索してもらえるには自サイトの登録が必要ですが――を
「あちら側」 に用意し、私たちは、そのサイトをヒットしキーワードを入力しさえすれば、ただで利用できるようにしたことです。むろん、こうしたシステムの構築には大きな費用がかかりますが、グーグルはそれを独自の広告方式の導入によってまかなっています。すなわち、利用者が検索にあたってキーワードを打ち込むと、そのキーワードに関連した広告(ないしそのリンク)をその回答画面に配置するという検索連動広告方式を開発することによって、従来の不特定多数を対象とせざるを得なかった広告方式より、はるかに効率のよい宣伝効果をそのスポンサーに提供したのです。それが、そのすさまじい速度で拡大する広告収入と、それから得る莫大な利益の秘密です。
こうしたビジネスモデルは確かに斬新で、それこそが、マイクロソフトを時代遅れとさせている根源です。それに加え、グーグルのさらなる事業展望は、世界中のありとあらゆる情報を組織し、それがグーグルの検索から得られるようにする、世界の情報インフラ――
「世界政府が仮にあるとすれば、それがしなければならない使命」 とグーグルは構想――となることだといいます。ことに、世界中の図書館にある、すべての書物のすべてのページをデジタル情報化し、それを誰もがどこでも、無料でアクセスできるようにすることだといいます。私個人としては、この事業の完成に大いに期待するのですが、もちろん、それによる甚大な損害が予想されるのは出版業界です。グーグルは、すでに始まっている著作権協会や出版界がおこす訴訟に対し、自ら200名の弁護士を雇用し、その事業は
「著作権上の公正使用の範囲内」 との論陣をはる構えを整えているようです。
梅田望夫は、続編の 『ウェブ時代をゆく』(ちくま新書) とともに、私たちという、不特定多数無限大の良質な部分が (ウェブ世界で傍若無人に振舞う名無しの悪質な部分を凌駕し)、こうしたテクノロジーと組み合わされることにより、現代の混沌をいい方向へと変えてゆけるはずという、この歴史上前例のない新時代へのオプティミズムを展開しています。
私としては、前回のエッセイ、「人の物化と物の人化」 でも述べたように、ウェブを通じた 「ボランティア」 つまり 「ただ」 の意見《交換》に、私としてのある信念と期待を託してきており、そういう意味では、梅田望夫のオプティミズムの同調者です。つまり、私自身は自分の著作を無料かつ自前で 《公開》 し――梅田は公開による方式を 「新しい知的生産の流儀」( 『ウェブ時代をゆく』 p.163) と呼んでいます――、すでに 「あちら側」 にそういう形での存在たることを果たしていますので、グーグルは脅威でも救世主でもありません。ですから、私と梅田との間に一線を画するものは、私がそうしたウェブ世界との付き合いの一方、たとえば、寿司修行であるとか自事業の継続とかという “旧” 世界との関わりも維持して 「二重の構え」 をあえてとり、 「あちら側」 の存在を商品化から隔離しようとしていること = 「聖域化」 があります (梅田も二重的構えは意識しているようですが商品化世界の範囲内です)。グーグルはその《公開》した《交換》と広告収入とを結びつけることに成功したという意味で、もっとも進んだビジネスモデルとされているようですが、その世界においても、相変わらずに二重構えの姿勢を崩していないのが私の方式です。
ウェブ時代が新時代をもたらしているのは疑いありませんが、それが、たとえ新味な方式によるとは言え、広告収入という商品交換の随伴手段をその拠り所としている以上、ウェブがそれ自体で、決定的な――
《物化人化問題》 を乗り越えてゆける――突破口にはなりえないのではないかという疑問を私は抱きます。さらに、グーグル的オントレプレナーシップ(企業精神)について、私はそこに、 “ベスト・アンド・ブライテスト(ずばぬけて頭脳明晰)” を自称する人たちがそれゆえに至る、選民マインド――まさにハリウッド的、アメリカ的――の陥穽が待ち受けているのではないかと危惧します。
すなわち、《公開》した《交換》とは、聖域化すなわち商品化手段との隔離があればこそ意味があるとするのが私の流儀であり、その有無が突破口の有無につながると考えるものです。
ウェブ時代以前、こうした聖域化――書きながら出版しない――は、《交換》をも拒否してしまうという事実上の自滅行為を意味せざるをえませんでした。しかし、ウェブというテクノロジーのおかげで、そこのところの可能性がかろうじて開けそうだと考えています。私にとって、これが、ウェブ時代の
「可能性の中心」 と言えます。
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つい先日、新書ながら、手ごたえのある本を読み終えました。柄谷行人の 『世界共和国へ』 (岩波書店) です。
じつは、この柄谷行人という批評家については、因縁といっては大げさなのですが、二十年以上もの昔、結果的にはその後長らく関わることとなった、ある関心を見出していたようです。というのは、1984年、私が一大決心をしてオーストラリアに渡ってきた際、その限られていたはずの荷物の中に、彼の初期の著作、 『マルクスその可能性の中心』 (1978年発行) を入れ、持ち運んできていました。
私がなぜその本をわざわざ携えてきたのか、記憶はおぼろげなのですが、若かりし頃、私も一応その洗礼をうけた、いわゆるマルクス主義といわれるものに、足元からの批判をあらわしている、と私には受け止められたことが、その動機となっていたように思い出されます。ただ、渡豪後、その南半球の世界の田舎で、時折、思い出したようにその本を取り出す以外、彼のその後の著作や活動とは縁遠くなっていました。それが最近、韓国人の友人から、柄谷行人が韓国の知識人の間で評判になっているとの話を聞き、改めて、彼の諸著作を調べ直し、その後の発展を知った次第でした。
そして先の日本行きを前に用意した本の購入リストの中に、この 『世界共和国へ』 やそのほか文庫本数冊も加えられ、帰豪後それらをひも解きつつ、二十数年の歳月の隔たりを埋め戻さんとしています。
私がこの 「世界共和国」 というタイトルに関心を引かれたことには、もうひとつのエピソードがあります。それは、私のタイ人の友人で、マルクシストの自称をはばからない人物がいるのですが、その彼が、長年の努力を実らせ、「世界政府」
に関する著作をほぼ完成させたことがあります。その草稿はタイ語で書かれ、やがて英語に訳されるということで、それを日本語に訳してくれと頼まれています。
そうした彼との会話の中で、「世界政府」 を英語で world government と呼んだところ、government ではなく、world administration だという返事がかえってきました。つまり、今の各国家のシステムをたとえひとつに絞ったとしても、それをただ世界規模に格上げするだけでは意味がないというもののようでした。それを日本語でどう訳すのか、まだ適語は見出していないのですが。
さて、こうした身辺のエピソードの一方、世界では、ヨーロッパ連合が成立し、アジアでも議論上での段階ではありながら同様の構想が語られ、米州でも――こちらは親米‐反米をめぐって南北対立の様相が濃くなっていますが――ブロック化の話はあがっています。ともあれ、こうして世界がいくつかのブロックにまとまったその先で、いよいよひとつの単位にさらに収束するのではないかと見るのは、漠然ながら、私としても考えられない話ではありませんでした。
それやこれやで、「世界政府」 についての議論が、なにか “旬” のものになりつつあるなとの印象があり、この柄谷の本のページをくり始めた次第でありました。
この 『世界共和国へ』 は、私にとっては、つまみ食いや聞きかじりでお茶をにごしてきた様々の事柄に、教科書風な網羅的視野をもたらしてくれるものでした。ただ、教科書風というのは、一般的とか入門的という意味ではなく、「コンパクトにわかりやすく」
(著者あとがき) まとめられた、それでいて、内容はいささかも薄まってはいない、という意味です。ですからむしろ、余りに凝縮され過ぎている感が強く、もっと詳しい叙述が求められるものでもありました。そこで、その元本とでもいえる 『トランスクリティーク』 (岩波書店、柄谷行人集、第三巻) とその英訳版を急きょ取り寄せ、さらにつっこんだ読解が進行中でもあります。
ただ、私にとってはそれほどの、岩波書店にとっても、その新書赤版が通算1000点を突破する記念出版のNo.1001の重要タイトルであるはずなのに、私の手元にあるこの一冊は、2006年4月の発行以来まだ二刷にしかなっておらず、その売れ行きはかんばしくない様子です。今日の日本社会では、こうしたビック・ピクチャー(大構想)で、しかもその目次を見ても硬い用語ばかりが並んでいるような本は、はなから毛嫌いされているのでしょう。同書の韓国語訳はよく売れているとの話なのですが。
こうして、この本を手始めに、柄谷の近年の著作を概読して、私は今、うれしい興奮にとらわれています。
というのは、彼が、私の知らないうちに切り開いていた世界が、そのおこがましさは“千”も承知で言うのですが、私がその間に、「両生学」 として展開してきた視界と、期せずして、同じとは言わずとも、同類のものであった、という驚くべき発見によってです。
たとえば、 『トランスクリティーク』 という題名―― 「移相批評」 とでも訳したいのですが――も、その副題を 「カントとマルクス」 としているように、二人の思想の世界を相互に読み比べてみる、つまり、その視差から生じる新たな眺望をあらわしたものであることです。しかも、カントもマルクスも同様な視点を根底にしていたというのです。つまり、柄谷にとって、そうした一種の
《移動》 によって得られる視界の差が彼の、そしてどうやらカントもマルクスも、それぞれの仕事の方法的原理となっていることです。これは、私が、当初、地理的移動による発見体験をもとに、両生概念を開発してきた、そのプロセスと通じ合います。ただ違いは、柄谷が既存の思想世界を考察対象としてきたのに対し、私が生活の場である現実世界をその対象としてきたことです。ともあれ、取り組む対象に違いはあれ、その探究方法が、驚くほど似ていることです。
そのようにして、彼が、カントとマルクスという両眼をもって 「立体視」 した視界に見えてきたものが、「世界共和国」、つまり、既成の国家の枠組みを超越した 「アソシエーション」 の連合による新たな世界像です。
彼の説明によれば、アソシエーショニズムとは、「商品交換の原理が存在するような都市的空間で、国家や共同体の拘束を斥けるとともに、共同体にあった互酬性を高次元で取りかえそうとする運動」 のことです。ここにおいて私は、この 「互酬」 という概念に大いに注目するのですが、これこそ、私が述べてきている、「ボランティア」、すなわち、無償――商品交換を介在させない――で自分の何かを提供することによって形成される、人と人との、「すがすがしい」 相互関係のことです。(そのボランティア活動を、学校の授業や企業の職務のひとつに取り入れようとの動きがありますが、これは、その活動が定着する前にその深さを殺しておこうとする、陰謀じみた企てです。)
ただ、私の理解の限りでは、この世界共和国にせよアソシエーショニズムせよ、柄谷のこれらのキー概念は、どこかつかまえにくいところがあります。どうもそれらは、政治システムであって思想的姿勢でなく、政治システムでなくて思想的姿勢である、といったような、異次元を股にかけたものであるようです。私はそうしたとらえにくさを欠点であるとは決して考えませんが、一般に、容易でないのは確かです。
さて、すでに本講座もそうとう長くなりましたので、柄谷の紹介は、あと一点にとどめます。それは、こうした構想を実践する運動方法として、彼は、消費者としての取り組みに重点をおこうと提唱しています。それは彼の一連の「理論」的分析の中で最も「現実」的方策に接近した部分です。私は、批評家という通常なら「物書き」で終わる立場を、彼がこのように通例の土俵を超えようとしているところに注目し、彼の彼たるところと好感をもちます。そういう彼ではあるのですが、また、それだからこそ、この部分は、これまでの彼の主張の中で、一番の、弱点とは言わずとも、未成熟部であるかと見ます。もちろん、それを不要とするのではなく、今後に期待し、応援するものです。
つまり、柄谷の運動方法とは、世界を変えようとするこれまでの革命運動が生産点における労働者の運動に焦点が当てられる傾向を持ってきたことに対し、それを、市場における消費者の運動に重点を移そうというものです。それは、人間は労働者であると同時に消費者でもあり、また、労働の場は資本家にとってその権力を労働者に対し優勢に行使できる場であるのですが、商品市場では消費者としての労働者が、逆転した優位性を発揮できる――資本家にとって、生産された商品も売れなければ元も子もない――という、彼の理論分析に基づいたものです。もちろん、彼の主張は、あっちがだめだったから今度はこっちだ、といった単純、安易なものでないことは断言しておきますが、私は、それが、新たな世界を築いてゆく未来への可能性のもうひとつの要素とはとらえられても、それが単独で、「その可能性の中心」 には成りにくいのではないか、と見ます。なぜなら、人間がその生存のために、切ないほどに物に依存しなくてはならないのは、賃金労働や消費行動以前の根本条件で、しかも今日の世界において、そうした物のほとんどが商品としてしか存在していない、しかもその度を高めている、ことがあります。いわば、無期限に商品購入の拒否を続けられない弱点がやはり消費者側にもあるわけです。つまり、生産点でも消費点でも、資本家と労働者が互いにその存在をぶつけあっていることに変わりはないと思います。
「人の物化と物の人化」 および 「こちら側とあちら側」 で述べたように、私たちをめぐる、物の人化と人の物化、つまり 《物化人化問題》は、人間にとっての根本的な条件です。それを図式的に示すと、
- 人の物化――「私の商品化」 として生産過程で発生――労働運動として対抗可能
- 物の人化――「商品に取り込まれ」 て消費過程で発生――消費者運動として対抗可能
と、表現でき、いずれも、おのおの単独での取り組みでは越えられない相互の絡み合いを特徴としています。それだからこそ、二重腰をとる必要がある、とするのが、本両生論の骨格です。いうならば、一方が他方に依存し、またその逆があり、それがゆえに、依存しているからこそ超越点をも見出せる、そういう、ダイナミズムです。
そういう脈略で、先に述べた 《聖域》 が、量、質ともに拡大し、次第しだいに人々の共有するものとなり、そしてついに、それが世界標準となってきたとき、世界共和国の第一歩が始まったと言えるのではないでしょうか。また、だからこそ、世界共和国への道筋は、私たち一人ひとりの自分の人生との日々の取り組み方が基盤となるという意味で、「私
- 世界共和国」 であるのだと思います。そこに、世界の 「可能性の中心」 があると思います。
(2008年6月14日)
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