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連載


         相互邂逅


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 僕は、自分が反骨心ある人間とは考えたことはなく、そんな強靭な自己の持ち主だと思ったこともない。むしろ、自分はきわめて臆病で優柔不断な人間と思ってきている。でも、そういう僕でも、あるいは、そういう僕だから、反骨心にも似たある “挑み” を続けてきている対象はある。それは、僕の内の 「劣等感」 とか 「コンプレックス」 とかと言われる何ものかだ。
 だから、そういうやつとは物心ついてからの長い付き合いで、今となっては、むしろ、そいつにある親しみや、初々しき往時を感じる。だがその当時、むろんそいつには、そんな柔な僕でも、いやでも歯向かわざるをえなかった。そういう意味では、それ以上のがれようのない、内に巣食った敵であった。
 十代のころ、そいつには、「根性」 漫画のストーリーのごとく、文字通りに、歯をくいしばって我武者羅に向っていったものだ。
 二十歳を過ぎてからは、さすがに自分へのいくらかの誇りもまじって、素朴な張り合い意識からは脱していたが、社会に出てから遭遇する巨大な壁を前に非力感に打ちのめされながら、それは、孤立感と背中合せになって僕を占領していた。加えて、その孤軍奮闘のさ中、あえぐように自ら選択した落伍の道と裏腹になって、それはさらに、今でいう 「自己責任」 意識へとも変質させられていた。ただ当時、世にそんなレッテルはまだ用意されておらず、自分で自身の立つ瀬を、 「村八分」 とか、やや開き直って 「人生裏街道」 とかと命名していた。
 ともあれ、長年にわたって僕を駆ってきたものは、そうした、自分を立ち上がらさせざるをえないほど追い詰められた鬱屈感であり、僕としては、決して、立派な動機やモデル像に率いられたものではないと思っている。

 僕の記憶では、意識してそうした 「挑戦」 に立ち上がった最初のこころみは、中学生の時だった。
 小学生の前半は、僕は小児性の腎臓炎を主に病気がちで、よく学校を休んでいた。また、この学校というものは、それに正常に参加、つまり通学しない場合には、僕に何とも後ろめたい思いを抱かせるものであった。今でもはっきりと思い出すのが、小学校三年の時、具合をわるくして母に連れられて医者に行こうとしていた時のことである。その我が家の家庭医は、僕の通う小学校の近所にあり、しかも、そこに行くには、学校の脇を通ってゆかねばならなかった。なおも悪いことに、私の属したクラスはその道を見下ろせる二階にあり、午前の授業の行われているその時間帯に二人してそこを通る際、僕はクラス中の視線から見下ろされているような気がして罪人のように肩身が狭かった。
 それでも、小学校上級になると、プールで行われる体育の水泳の授業にも参加できるようになっていた。そして、目標とされる25メートルに、当初はとうてい到達できず、一緒に泳いで達成したクラスメートを妬み、彼は途中で足をついていたなどと嘘を言いふらすようなこともしながら、やがて自分もその目標をクリアーできるようになっていた。
 中学に入って一年の時、学内の水泳大会で、僕は学年別25メートル競泳で上位に入ってしまった。そこで先生に目をつけられ、その夏の区の水泳大会の出場候補選手とされてしまい、にわか仕込みでも水泳部員といっしょに練習する成り行きとなった。そしてその初日、コーチの先生は、25メートルしか泳げない僕に、いきなり、200メートルを泳げとプールに飛び込ませた。あの時の苦しい思いは今でもありありと思い出せるが、ほうほうの体でプールを四往復した。ただ、肝心の区の大会には、最後の選抜の練習の日、そうとは知らず、誘われて通い始めていた塾があったために休んでしまって、それまでで終わっていた。
 そんな体験をしつつ、その一方で、わりあい背の高い僕を、そうした僕の健康事情にうとい人たちが、僕を見ては必ずといってよいほど、「何か運動をしているの?」 と聞くのであった。兄が熱心な野球少年であったのを知ってのことだったかも知れないが、それを尋ねられる度に、何も運動といわれるほどのものをやっていない僕は、これまた、後ろめたくふがいのない気持ちを抱かされていた。
 そのようにして、中学生の中ごろ、思いを決してバスケット部に入った。ところがその部活動では、ボールにもろくに触らせてもらえず、毎日走らされるばかりで退屈で、これも長続きせずに終わっていた。
 こうして、さすがに自分でも、高校に入ったら何か運動部をやるんだと、その負の意識を克服しようと、内心ひそかに決心していた。

 去る三月、僕が日本から送ったノートは、その高校時代の三年生の5月から始っている。高校三年というと、それは昭和39年、1964年のことで、5月とは、東京オリンピックが開催される5ヵ月前だった。

  「No.1」 とマークされた大学ノートの最初のページには、小型のノートが挟み込まれており、その最初にこうした記入がある。
 それまでの僕の高校生生活は、バレーボール部のクラブ活動一色であったといってよい。勉強の方はそっちのけで、僕はこの運動部活動にまさしく青春を燃やし、その快く回転をし始めた毎日からは、日記に向かわせるような自己の暗部はいつのまにか忘れられていた。
 この日記を始めた5月と言えば、その二年前、高校に入って一ヶ月あまり、どの運動部にしようかと観察をつづけ、それをバレーボール部に決めて入部した月である。そしてその後の丸二年間の部活動により、僕は完璧にその 「運動コンプレックス」 を克服することができたばかりでなく、チームメイトたち、ことに4人の同学年同士で、さわやかな友情を発展させることもできていた。それが、大学受験という自分を襲う気象の大変化を前にして、そう内省の手段を採り上げ始めていた。
 それでも、その5月の末の時点では、まだ、たわいもない記録やあこがれの類の記入に終わっている。
 6月なかば、三年間のクラブ活動の最後となる公式試合があった。夏のインターハイの地方予選である。さすがに、そこに始まろうとしていた 「気象の変化」 を敏感にとらえてこう表現している。
 クラブ活動から引退し、勉学に没頭しているはずのその後のノートは、 「初志貫徹」 とか 「I will endeavor」 とかと、自分を叱咤する語句が目立つ。だが年が変わると、ありうべく、願望と実際とのギャップに揺れ動く様子もうかがえるようになる。
 その一方、2月中旬、高校三年間の最後の授業が終わったちょうどその日、東京より兄が帰ってきて話し込んだとある。
 いよいよの大学受験を直前にした3月初め、ノートには、それまでの過去を思い出して、こんな記述がある。
 この文章は、ノートにはさまれすっかりと黄ばんだ半裁のワラ半紙に、親に宛てた手紙の下書き風に書かれていたものだ。果たして本当の手紙となったのかどうかはさだかでないが、そのころ遭遇していた 「問題」 に対する自分の望み方を述べている。そしてその問題とはこうだった。
 先に、大学受験を控えて、母方の叔父より彼の出身大学に口をきいてくれるという申し出がされていた。僕自身、それを甘んじて受け入れようとしていながら、内心、快くなく、一種の非常の覚悟として 「一浪」 の事態を両親に申し出ようとするものであった。もう他界してしまったが、その叔父とは、当時、オリンピックに備え日本中が建設ブームに沸いているなか、建設技師として成功し、それまでもそしてそれ以後も、僕にその世界の裏表を知る機会を与えてくれ、建設の分野に進もうとする僕の決心に少なくない影響をおよぼした人物であった。
 この手紙風文章はさらに以下のように続いている。
 幸か不幸か、叔父の出身大学には、おそらく僕の出来が悪すぎたためだろう、不合格となり、僕が自力のみで受けた大学になんとか合格することができた。かくして、結果的には、こうした一浪の覚悟は杞憂に終わった。

 後になって改めて述べることになるだろうが、僕は成人しても、何かことあるごとに、自分の思考が最終的に歴史にたどりついていることを幾度も経験している。ほかでもない、このノート類の発見も、僕自身の過去つまり歴史への意識的関わりの結果であるといってよい。巷には、 「中年オジサンの歴史好き」 といった言い方もあるようだが、こうした僕の場合の歴史志向は、いつ、どのように形成されたのか、つねずねから疑問に思ってきた。
 それが、今、この一連のノート記録や、それに刺激されて思い起こす事々により、その発端は、中学の時のある先生の影響にあったのではと思い至っている。
 その Y 先生は、早稲田を出た若い先生で、授業にはいつも竹棒を持参し、教室内を歩き回りながらそれを生徒の頭すれすれにぶんぶん振りまわして威圧する、何とも物騒な先生だった。彼の専門は歴史で、僕はその彼の授業から、歴史への興味を引き出されたようだ。というのは、僕にとって、それまでの歴史とは、年代と退屈な出来事が羅列された死んだ世界でしかなく、そこに、生きた流れや因果関係があるなどとはむろん想像もしていなかったからだ。
 それはある日の授業のことだった。その
Y 先生は我々生徒にひとつの質問を与えた。それは世界史の時間で、1917年のロシア革命についての授業だった。 「ロシアで革命がおこって大混乱になっている時、もしお前らが日本の軍隊だったらどうするか」、たしかそんな質問だった。生徒は皆押し黙って頭を下げ、その恐怖の竹棒のうなり音を頭上に聞いていた。そうして沈黙を決め込む生徒たちに Y 先生がよく言ったせりふが、「お前らぁ、生きてんのかぁ」 であった。僕は教室後方の席から恐るおそる手をあげた。彼が 「松崎!」 とその竹棒を止めて僕を指した。「はい、僕ならこのすきにロシアに攻めてゆきます」 と半信半疑で答えた。すると彼はかっと目を開き、「そうだ松崎、それが日本のシベリア出兵だ」 と声も大きく断言した。僕は思わず顔を赤面させて自分の考えが当をえていたことに驚喜するとともに、歴史がぐっと身近になったような感覚も発見していた。
 さらに、この 「No.1」 のノートに目を通していて、風邪で一日寝ていたという日、大学受験を目前にした二月末というのに、「フトンの中で 『昭和史』 を終りまで読んだ」 との記述に目がとまった。岩波新書のそれだろう。おそらくその本は、当時、日本史を担当し、江戸、明治あたりは少々はしょっても、昭和になってからの歴史を丁寧に教えてくれていた F 先生の推薦書にちがいない。三年のしかも年が改まってからの生徒は、みな受験に奔走して授業どころではなかった。ところが、そんな浮足立った我々に、その時しか、しかもその時だから、F 先生は、あたかも落ち着けとい言わんばかりに、 日本の現代史を黙々と授業してくれていた。普段は物静かでどこか頼りないそんな F 先生に、僕は外見にはそぐわぬ強い信念のようなものを感じ、ある敬意を見出していた。
 その 『昭和史』 の読後感として、ノートには以下のような記述が読める。
 何やら、今日の米国像を見通したかのような読後評だ。その推薦本からの受け売りとは言え、これは、43年前、僕が満18歳半の時の感想ということになる。

 この記述の翌々日、僕は当時住んでいた名古屋を出発、受験場のある東京に乗り込んだ。そして、その一ヶ月半後には、新大学生としての東京生活が始まっていた。
ただ、その大学は工科系のみの私大で、それこそ 「知的」 な 「女の人」 をみつけようにも、そもそも女子学生は全学でもほんの数えるほどで、ことに僕の入った土木工学科は、野郎どもの巣窟であった。

 つづく
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