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 連載
 僕はその K 社では、結局、六ヶ月働いただけだった。
 その半年間は、僕の人生で、もっともネガティブで、もっとも鬱屈とした日々であった。予感通りの、牢獄生活であった。
 僕がその半年で味わった自分の未熟さや無知は苦くはあったが敵ではなかった。ただ、自分が誰かの手足にされているのみだという強い思いが、そこでの努力を無意味にさせ、そこに居続けることをいたたまれなくさせていた。
 その当時をカバーする 「No 6」 のノートに、小さな紙片がはさまれ、そこに小さな文字で、以下のような記述が読める。おそらく、派遣された地方の建設現場での仕事のかたわら、書き残したものであろう。
  -  人がひとり、あらゆる人間関係を断たれ、砂を噛むような荒涼とした生活を強いられた時、その空しさがどんなものか、とても筆につくせるものではない。何を考え、何をしていても、私のあらゆるよりどころを、微塵のように吹きやってしまう、その心の冷風。その私が、ほんのさ細な暖かみを求めて、うらぶれた街の路地裏の、ひとつのドアを押して、そのどこに私の罪があろうか。そして、そのドアのむこうに、ただの偶然以外の何の理由もなく、私を待つかのように出会った人。その人が、私にとって関心をよびおこすいかなるものも持っていなくとも、それを私の視力の脆弱性と誰が言えよう。私はそこに、人間の平等を理論づけると同時に、人の持つしみじみとした味をかみしめるであろう。
 
さらに、こんな記入もある。
  -  今日もまたかくてありけり
 明日もまたかくてありなむ
 なにをあくせく、思いわずらう
 俺がおれでなくなってから、もう幾日が過ぎ去ったであろうか。そして今、その俺が甦ってくるその場は、この今日であり、この明日なのか。
 このもてあそばれているような矛盾
 誰か、この止揚を論じてくれ
 矛盾そのものだと、審判を下してくれ。
 
 今、この俺を説明するただ一つの論理
 それは、賃金が多いの少ないの、休みが皆無同然なの
 そう云った歯切れの悪くて、単なる比較の問題からは、何も出てこない
 もっと歯切れが悪く、徹底的に主観的なディメンションから
 「俺はイヤダー」  このさけびしかない
 俺が俺でない、俺の手のとどかない所で、俺が機械のように動き、俺と何の関係もないことにもかかわらず、それは俺から、俺のもっとも俺である、人間としてのエネルギーを吸いとって行ってしまう。
 
このノートの最初のページには、日付はないが、そのノートへの最初の記入が詩篇の形をもってこうしるされている。
  -  ほっといてくれ ほっといてくれ
 私があなたたちに無関心であるように
 
 どうでもいいじゃないか 私のことなぞ
 あなたたちの前を通りすぎる多くの人達のように
 
 たとえあなたたちがそうでなくても
 私は仕事をしている私に自分を感じられないのだから
 あなたたちにも無関心なことがあるように
 私にも無関心なことがあってもいいではないか
 たとえそれが あなたたちであったとしても
 
 無駄も承知 労費も承知
 そして あなたたちの云う くだらんことであることも
 
題名と日付をつけた記述もある。
  -               <ぼくの物語>
 奇妙な対抗意識が その時 ぼくをすっぽりとくるむ
 利己的な個有意識がそのぼくを閉鎖する
 そのぼくはみごとに単純化され 分化されている
 焦燥とほくそえみ
 この両者がすべての混沌をぬぐい去り
 すべてのもろもろに赤黒い決着をつける
 毒々しいその色とその粘性
 あらゆる繊細は その異臭にそまり 疲労となって沈澱する
 
 疲労はくり返しくり返し
 無感覚をぼくの枕もとに堆積させては去って行った
 
 奇妙な防衛意識の瘠野のまっただ中に、ぼくはかく来ていた
 それは論理でも歩みでもなかった
 白日の夢でもあり、闇の夜の魔術でもあった
 すべての選択自体がそう決定されていたのか それとも その選択さえも許されていなかったのか
 ともかくその瘠野のまっただ中に
 北も南も 一切の方向の存在しない虚構の帝国がいとなまれていた
 小高い丘の上からその展望をまの当りにした時
 ぼくは裏っかえされた自分を感じるだけだった
 そしてはげしい目まいが そのぼくを襲った。
 1969.10.15
 
  -               喪失
 鳥がその翼を奪われた時、その鳥は一体何を考えるのか。空のその青さも、その雄大さも、彼にとってはただの虚空にすぎない。
 虚空に向って、鳥が飛び立とうとすればするほど、その羽は何の抵抗感もなく、ただ空を切る。
 あの満身をこめて打った翼が、空気をいっぱいにとらえた時のあの重量感。肩の筋肉の緊張は、ほおを切る風の加速となってつぶさに彼にぶつかり、同時に彼のやわらかくそしてしなやかな羽毛をはげしく波打たせながら、渦を巻いて彼の飛翔に覚醒する。
 ああ、彼にとって、その実感は夢であったのか。
 眼下に、畑を林を、山を谷をなでていった彼の羽ばたく姿は幻だったのか。
 彼の眼は、もはやその巨大な立体感をとらえられないかも知れない。
 その羽毛は日々に輝きを失い、肩の筋肉はみるみる衰える。
 彼のその用意されていたもの全ては、今やしかばね同然と化した。
 彼は今、彼に与えられている恐ろしいほどの平面の上で、ただ日々をついやす。
-                                    10.22
 
僕がその会社を辞めたのは、この十月の末であった。
 一緒に卒業した仲間たちのなかで、最も早い離脱であり、落伍であった。
 かくして僕の青年期は終わり、長く地をはう並み人の時代に入ってゆく。つまり、両親が僕に相続してくれた遺産といえるものは最高学位までの教育であったのだが、そんな特権をこうして早くも食いつぶし、裸で社会を渡ってゆかねばならなくなった。
「親の心、子知らず」 そのものであった。
 つづく
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