「両生空間」 もくじへ
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連載
その K 社を辞めたあとしばらく、僕は二つの顔をもった居候であった。
ひとつは、社会から落伍した敗北者で、しかも、親や友人たちに依存する寄生者でもあり、そういう社会的不健康を患った、病人であった。
もうひとつの顔は、こういう誰よりも速やかに決断した自分を、僕はどこかで “先がけ” と考えていたふしがあり、一定の共有意識を持ってくれる仲間たちに、自分の内心をつづった文章を送りつけたりもしていた。
年が明けた1970年の厳冬、これを実際に送りつけたかどうかは定かでないが、僕のノートにこんな詩篇が記されている。
- われわれ
わたしにとって そのわれわれが、
どんなにか欠くことのできないものであるかは、
誰よりも、誰よりも、そのわたしが知っている。
わたしにとってそのわれわれが、
わたしの同時な他へのわたしの飛躍であることも、
そのわたしが そしてわれわれが知っている。
この実感。
それが単なるなれ合いでないその証しが、
きっと顕在するであろうその実感。
遠き極寒の北国の友よ
その隔たりの前に この実感が何よりも無力という
この空間的限界。
ひとが孤独であるということが
ただそれであるが故にとの理由でもって
いかなる主体性をも凍てつかせてしまうならば
それは何という背理。
われわれにとってその苦難が
皮肉にも強ききずなとさせているその逆境が
彼にとってはただの極寒でしかないのか。
友よ 君のその努力と忍耐が
決して凍てついた歩みでないということを
私はただ祈りでしか実行しえないのか。
人間にとって、その本来的な空間的限界性は
その極寒に凍死するように 絶対的に無力なのか。
丁度一年前のその寒い日に
その距離こそ比較ではないが
練馬署のその冷たい牢獄につながれた友人の
そこに居る彼が まさしく私であったかもしれないその交錯の
私を何よりも実感としてむち打ったその空間的限界性。
ひとはここにあって そして同時にそこにはあれない・・・
このわれわれの生が意味し
胸の鼓動が聞こえるかの具体性こそ
人の生が意味する
人が生物としての非絶対性の中から
観念として絶対を志向する その
現実的意味を ここに捉える。
その一方、僕は、学生組織をともに作り上げ、もっとも影響を交換しあったひとりの友が、ある政治セクトに加盟した知らせを受けとる。
- かくして、私は他己を一人失った。
二人とも、ただ真摯にのみあろうとして
行きつくべくして、溝をみてしまった。
ああ、何ほどに
人はかくも孤独であるのか
ああ、何ゆえに
人はかくも失ってしまわなくてはならぬのか
私はこんな悲劇の連続に
心を全く閉ざしてしまいそうだ
私の顔は、ただの仮面となってしまいそうだ
ここからが出発なのだろうか
それでもなお それを信じてゆくことが
知の力であり、ひとの使命なのか
これがホントなんだと開けられてみて
それでもやって行ける、やって行くのが人間なのか
まったくのゼロの地点から
ほどなく、ふたたび僕は働きはじめた。いつまでも居候をつづけているわけにはゆかなかった。
ただしそれは、今でいう派遣の仕事で、当時はまだ違法だったはずだ。この種の法改正は、つねに現実に法が追随する。その雇い主は、ずる賢い兄弟が狭いアパート一部屋を借りてオフィスとしている、くずのような会社だった。派遣先は、大手のプラント建設会社で、石化装置の基礎を設計する仕事だった。正社員にまじり、同じ職場で、同じ管理職のもとで働く時間給の労働だった。時には、正社員になれるかの甘い言葉も聞かされ、それに飛びつきたいかの自分が惨めであった。そしてその職場で、ひとりの同僚と出会った。彼は、高卒で、こつこつとそこまで這い上がってきていた。僕は、そうは表に出さなかったが、大卒だがそこまで堕ちてきていた。
- 呪ってみるがよい
- この非情な仕打ちを
- 憤ってみるがよい
- この不条理な定めを
- そんな、そんなたわいもないことに
- あたかも夢と希望をつなぎえると思ったことが
- 無為な愚かな甘さであったことを
-
- この、与えられたものをすべて失った思考が
- ぐったりとこうべをたれて
- 今からどう生きてゆけばいいのですかと
- 路上の通りすがりの人に問うてみるような
- そんな生き方をしなくてはいけないのか
-
- 信じようとしていたことに
- すべて退ってゆかれたこの誤りは
- まったく私のせいなのか
- それが人間だ、それでも人は生きているじゃないかと
- どんなに賛美してみても
- それは絶対に惰性でしかないじゃないか
-
- 俺はただ、なぜ、それが運動しているか
- その息のふきかけをおこなった最初のひと押しが
- 何であり、誰がそうしたのか、それを識ってみたかっただけなんだ
こうして再び働き始めて半年ほどが過ぎた6月2日(1970年)の日付で、 『半年間のソーカツ』 と題した文章が見られる。僕は今、それをこうして読んでみて、それから38年後の、今にある自分の姿勢のひな形が、すでに早くもその当時から形を見せ始めていたのだなと、意外な思いをもってそれを受け止めている。
- 半年間の失業者としての社会的立場より、一定職者へと身をおきかえんとしている今、私の胸中に興味深い変化がみられてきている。一人の人間が定職につくということは、ごく外面的にそのような一職業的立場を堅持することによって、消極的には、人間の存在の最低条件としての労働にまずは関わらなくてはならないという視点から、積極的には、自己の社会的実践の場とし、多くの人達に関わりあって働くということの苦役面を通じて人間のそして社会のありのままを認識するという視点にいたるまで、大きな連続態がそこに見られてきていることだ。
私における一定職者へとの存在地点の変化は、確かに、人間の存在基盤としての職業からの、のがれとしての不定職の否定であり、引きもどされであった。だがそれは、表立てとしてそう言われることのみでおわらず、むしろそれより広大な世界をもった、皮膚の裏面に展開する、潜在し内在する情感としての世界のそれである。現在、刻々と、私の生活圏内に数々のひとびとが各々の明るさをもって入ってくるのが見える。
派遣という身分ではあったが、当時のその仕事は結果として安定していた。時代はやがてその終焉を迎えようとしていたが、当時はまだ、高度経済成長期の末期であった。そして 『ソーカツ』 はさらにつづく。
- 私がこのようなこのようなたぐいのことを、実感を持って語るには、私はまだあまりに未経験すぎる。しかし、たとえ言葉につくされなくとも、そのような、非凡とか異端とかと言う極とは全く反対の極に、ただ、多く多く群れをなして存在している平凡以外の何ものでもない人達の集まりに、軽蔑の視線と罵声をあびせるほど、私は私に自信もなければ、軽率でありたくもないと思う。
- 以上のような意味で、私はたしかに経験主義者であると思う。そして、その点で私は、あてどもないのめりこみの道を、無為なもがきをくり返しながら進んで行くのであろう。しかし、ただ次のような点で、私はそこに自律性を与えてゆきたいし、与えねばならないと思う。
- この半年の体験、それは、この社会の表の部分、きれいごとの部分を裏から見ることであり、また、否定された者の眼で見ることであった。そういったまったく興味深く面白くもある新しい世界の展開は、いつのまにやら、きれいごとの社会に体重をい置いて臆病にものぞき見をしている私を、後ろからどんと突き飛ばすほどの勢いでもあった。だが、この自然発生性も、全くどこにも主体の存在していない天から降って湧いたというようなものでは決してなく、私のような特殊な立場をとりえている私の個別性の、私の周囲の人達から受ける、ある、うしろめたさのゆえであった。人間と人間の関わりの微妙な磁気が、いかに興味深く互いの人間に影響するかということであった。
- (中略)
- ひと昔前のベストセラーに、小田実の 『何でもみてやろう』 があった。先日、フラッと立ち寄った古本屋に、色あせたその本をみつけた。何気なく手にとってぺージをくってみると、彼がその世界放浪の旅を始めたのが、彼の26才の時と知った。それは一種の喜びでもあったが、同時に、そのまことにトッピな精神的若さに、大変なうらやましさを感じた。私にとって、半年でさえそれほどであったのだから、彼のその二年間は、また、世界をまたにかけてのそれは、チキショー、どれほどのものであるのか。この23才の今にして、かくも老いぼれてしまった私が、まことに歯がゆいこと、この上もない。
- まあ、まことに小規模な無軌道であったけれど、この実感は決して忘れたくないと思う。今になってよく考えてみるものの、その会社を飛び出した時の明確な把握がよくできない。ただはっきり言えることは、それが実践だなぞとはおこがましくて決して口には出せないのだけれど、ある現状突破の実行動がどれほど多くの新事実をみせてくれることか。それはもはや、いかなる理論にも支えられていないものではなかろうか。そういう点で、今後、先にもいった経験主義者であるとともに、他方で徹底した主観主義者でもありたいと思う。
先に、当時の僕は、学生時代の体験を鳥の 「飛翔」 と、そして、卒業直後の体験を 「地をはう」 と表現していた。そうしたコントラスト鮮やかな体験を通じて得たものを、今ここに 「経験主義」 と呼び、さらにそれを支えるものを
「主観主義」 とも言っている。そしてこの 「主観主義」 については、こう注釈している。
- 今後の私の生活において、私は社会にとって有用でなくてはならない。しかし同時に、私の資質は刻一刻と殺され、「私」 は死滅して行くものであろう。そこにおいて、ただ頼りとなるよりどころ、それはその主観である。
当時、自分に与えられていた微々たるといえども特権を、わざわざかなぐり捨てることなく受け取るという道を、ある意味で常識的に採っていたなら、それほどの悲惨感をえずともに過ごせたかも知れない。だがその一方、そのようにして自分に所与の特殊条件を一部なりともはぎ取ることにより、色眼鏡の色をそれだけ薄めた視野を得られたのもこれまた確かである。
《地をはう経験と死滅してゆく「私」の主観》 、当時の僕が体得した生の方法であった。
つづく
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