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 連載

相互邂逅




 その K 社を辞めたあとしばらく、僕は二つの顔をもった居候であった。
 ひとつは、社会から落伍した敗北者で、しかも、親や友人たちに依存する寄生者でもあり、そういう社会的不健康を患った、病人であった。
 もうひとつの顔は、こういう誰よりも速やかに決断した自分を、僕はどこかで “先がけ” と考えていたふしがあり、一定の共有意識を持ってくれる仲間たちに、自分の内心をつづった文章を送りつけたりもしていた。

 年が明けた1970年の厳冬、これを実際に送りつけたかどうかは定かでないが、僕のノートにこんな詩篇が記されている。
 その一方、僕は、学生組織をともに作り上げ、もっとも影響を交換しあったひとりの友が、ある政治セクトに加盟した知らせを受けとる。
 ほどなく、ふたたび僕は働きはじめた。いつまでも居候をつづけているわけにはゆかなかった。
 ただしそれは、今でいう派遣の仕事で、当時はまだ違法だったはずだ。この種の法改正は、つねに現実に法が追随する。その雇い主は、ずる賢い兄弟が狭いアパート一部屋を借りてオフィスとしている、くずのような会社だった。派遣先は、大手のプラント建設会社で、石化装置の基礎を設計する仕事だった。正社員にまじり、同じ職場で、同じ管理職のもとで働く時間給の労働だった。時には、正社員になれるかの甘い言葉も聞かされ、それに飛びつきたいかの自分が惨めであった。そしてその職場で、ひとりの同僚と出会った。彼は、高卒で、こつこつとそこまで這い上がってきていた。僕は、そうは表に出さなかったが、大卒だがそこまで堕ちてきていた。
 こうして再び働き始めて半年ほどが過ぎた6月2日(1970年)の日付で、 『半年間のソーカツ』 と題した文章が見られる。僕は今、それをこうして読んでみて、それから38年後の、今にある自分の姿勢のひな形が、すでに早くもその当時から形を見せ始めていたのだなと、意外な思いをもってそれを受け止めている。
 派遣という身分ではあったが、当時のその仕事は結果として安定していた。時代はやがてその終焉を迎えようとしていたが、当時はまだ、高度経済成長期の末期であった。そして 『ソーカツ』 はさらにつづく。   先に、当時の僕は、学生時代の体験を鳥の 「飛翔」 と、そして、卒業直後の体験を 「地をはう」 と表現していた。そうしたコントラスト鮮やかな体験を通じて得たものを、今ここに 「経験主義」 と呼び、さらにそれを支えるものを 「主観主義」 とも言っている。そしてこの 「主観主義」 については、こう注釈している。
 当時、自分に与えられていた微々たるといえども特権を、わざわざかなぐり捨てることなく受け取るという道を、ある意味で常識的に採っていたなら、それほどの悲惨感をえずともに過ごせたかも知れない。だがその一方、そのようにして自分に所与の特殊条件を一部なりともはぎ取ることにより、色眼鏡の色をそれだけ薄めた視野を得られたのもこれまた確かである。
  《地をはう経験と死滅してゆく「」の主観》 、当時の僕が体得した生の方法であった。

 つづく
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