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連載
僕は、当時のノートを読み、その当時の自分に再会しているのだが、そうした若き自分の表現法に、一種のパターンがあるのに気づく。というのは、そのほとんどが、自分への問いや疑問とそれへの回答という、自問自答の形となっている。つまり、その時の自分への負荷や否定に対し、そう答えることによって、必死に自分で自分を支えようとしていることがうかがえる。
ちなみに以下の詩篇をみてみよう。そのインデント(行頭の文字のひっこみ)に注目してほしい。
- 今朝、ひとつの歯車がカチッとおりた
進んで行くものが進んでいる
私の中で、私ではないものが。
そう、それは私のまねいたすべなのだ
私が、それだけでしかないと。
私はだから、怖れひれふして
哀れと、みじめに、頭をたれねばならぬのか。
否、私はそのような通用制度を認めない
だからといって、一体私の何が変わったというのか。
何も変わりもしない私を
あたかも大事のすんだごとく
あるいは大事に至らなかったのごとく
語り定めてしまうその陰の者を
私は問いつめる
その安泰な制度を。
“認めない” 私は、
私の力でもって私を、
存在させ、防衛していかねばならない。
その存在権は、畢竟、
何の依存も協力も期待しえるものではない。
軍隊をもつか、
それとも、一本の野の花となるか。
このように、インデントした最初の二段落に続き、インデントなしの最後の段落となっている。まさに、引っ込んだ自分を再度奮起させ前に押し出そうという気持ちが、そこに形としても表現されている。さらに面白いのは、最初、そのようなインデントの扱いを意識せずに書き始めているのか、後半の、インデントなしの
「押し出し」 部分が期せずしてやってきたのか、ノートの綴じ目ぎりぎりにまでおよんで、窮屈そうに記入されている作品も見られることである。
ともあれ、そのようにして、前半の、自分自身についての描写を通じてそれを客観化し、後半において、そこからの飛躍を獲得している。いわば、各々の格闘のさまがそこに見られる。
ところで、僕にとって、この還暦も越えた長旅にあって、その最初がいつだったのか定かではないのだが、繰り返し思い出される原体験のような風景がある。なんでもない、日常の些細なシーンなのだが、不思議なことに、決して忘れ去られてしまわないのだ。そして、それを確かこの頃に、一度書き留めたことがあると思い出し、それらのノートのページをくりながらも、それを探していた。
あった。それは、この、僕がもっとも底をさまよっている頃の記述の中だった。
それは、こんな風に描写される風景である。
- すっかりと熟れた柿の実に、透明な秋の夕日が低い角度から照射し、事もなげに過ぎて行った今日の一日の最後の繊細を演じている。
朝夕のめっきりな冷たさに、柿の実は白く粉をふき、やがて枝をはなれて地へと帰すその一瞬まで、もうすっかりと都会化したこの一画にあっても、けなげなドラマをとげんとしている。
赤いといっても、その赤さには冷たさがある。たわわと言っても、そこには重荷がある。枝々をわずかにゆする夕暮れの風に、遠くから聞こえる子供たちの声に、ガラスの破片のような、冬へと通ずる季節の鋭角が冷たく含まれている。
窓のガラス戸が、そのわずかな風圧に、にぶい繰り返しをもって、カタン、カタンと、けだるい周期を繰り返している。建具の変化で、やがては消えてゆくであろう、この語るともない語りかけが、静まりきった室内に、カタン、カタンとうったえかける。夕日はますます弱まる。空の色も、昼間のあの輝かしいプルーを変化させて、柿の実の粉の白さにも似たベールをつけて、一番星のひと光りを境に、やがて到来してくる星と月の、秋の夜空へとのバトンタッチを準備している。一つとして不自然にではなく、一ヵ所として不連続にではなく、ただ、静かに、静かに、そして劇的に。
この音、この音は幼い私のにおいがする。遊びにあきてふと耳が主になった時か、母にしかられて泣き疲れた時か、いつかどこかで、この音をいく度となく聞いたことがある。
今の私と、どこかでつながっている、その時のこの音。
このノートの当時、そろそろアルミ製のものも出始めていたが、古い我が家の窓の建具はまだ木製で、太い桟に溝が刻まれ、そこに30cm角ほどのガラスが一枚いちまいはめこまれていた。その溝はガラスの厚さより少し広く刻まれていて遊びがあり、風が吹くと、各々のガラスがその溝の内を揺れ動いた。その度に、幾枚もはめ込まれたガラスのすべてが一斉に揺れるので、カタン、カタンとけだるい音を繰り返すのであった。もちろん、その後のアルミ製のサッシにはそうした遊びはなく、たとえ強い風でも音も出さない。したがって、こうした私の追憶を、現代の若者たちと共有するのは難しいかも知れない。
ついでの話だが、シドニーのこのおんぼろアパートに引っ越す前に住んでいたほぼ新築のアパートは、下町風情の周囲には似合わず、ちょっとこったデザインが施されていた。軒下にはハロゲンのスポットライトが一定間隔で埋め込まれていて、日暮れとともに自動点灯し、その建物はまるで著名建築物のように夜通しライトアップされていた。そしてその窓は、僕がこうして体験した昔日の窓枠のように、小さな区画に桟で分けられていて、一見、クラシックな雰囲気をかもしていた。そのある日、窓をみがこうとしてその窓枠をよく見たのだが、なんとその桟は、一枚の大きなガラスに、きゃしゃなそれがただ貼り付けられているようで、まったく構造上の意味はないただの意匠であった。お陰で、窓ガラスみがきには邪魔なことこの上もなかったし、なつかしい音を思いださせてくれることもなかった。
上の記入がなされたページに続いてノートされているのが、以下のメモである。
- 部屋の中は、もうすっかりと暗い。
今日の一日の最後の明るさを残して
- 沈んでいった太陽のわずかな残光が
北のこの窓から差し込む唯一の光となって
白い紙面の上に
文字を書くのがやっとのほどの
ほのかな明るさをもたらしている。
ペンを置いて、
右手をわずかに差しのべるだけで、
机上のスタンドは
この幾十倍、幾百倍もの光量を与える。
だが、それはあまりにも簡単すぎ、
そしてそれだのに、
あまりにも残酷である。
おまえたちは、それほどにも沈黙なのか
なぜ
1970年の末、私の 「ワンゲル」 時代の良き同僚でありライバルで、それ以降、深く交友を続けてきた T が、国境を越える旅に旅立った。
当時、小田実がやってみせたいわゆる 「世界無賃旅行」 は、一種の熱病となって我々の世代を掻き立てていた。こんな、矮小な島国とその現実を後にし、広い世界に自分の足で踏みだしてみる、それがどれほどに魅力にとみ、勇気をふるいおこさせていたことか。そうした緊張とときめきに、僕らは誰もが捕えられていた。
その夕、東京、竹芝桟橋から出航する貨物船に乗る彼を、田町の喫茶店で会って見送った。彼は、山行きに使い古したザックひとつに、透明なビニール傘を一本もつだけで、その後、幾年にも渡るその旅にたって行った。
僕は、喉から手が出るほどに、旅立つ彼がうらやましかった。僕も、決心ひとつで、そうした旅は不可能ではなかった。ただ、そういう自分の飛躍が、それをさせなかった。飛躍する自分に不連続を感じ、それに自分を任せることに抵抗があった。
その後 T からは、最初の寄港地シンガポールから第一信が届き、間を置きつつではありながら、陸路、マレーシア、タイ、ビルマ、インドと旅を続けるその地その時の、苦労と感動をつづる熱い手紙が送られてきた。
- 「それが、その沈下が、一人の肉体が持つ、
無自覚な疲れの構図であるとしたならば」
私の空白をよぎって、
シベリアからの寒気団がそう告げた。
無動と云うことの
空無の虚空に浮遊することの、
逆転した積極性の内腑に、
凍てついた白刃がつき立つ。
寒気に身ぶるいし、
思わず私は身構える。
「かく至りついたこの私に
どのような看過と忘却があったのか」
転身の新鮮と緊張に
瞬時の身の焦がしを感じたとしても
その飛躍した自己同一性が、
エネルギーとロマンチシズムの昇華物だと、
その私は知っているのか。
友はその飛躍を文字通り飛躍し
新鮮な感動をつづって送り届けてくる。
彼はその飛躍を食わなければならなかった。
かくして、僕の1970年は暮れていった。
つづく
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