「両生空間」 もくじへ
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連載
これは後になって分かったことだが、彼女の家庭は、彼女がまだ中学生のころ、父親が友人の借金の連帯保証人になり、その友人の事業の企てが失敗に終わったことから、一時、家屋敷や田畑を差し押さえられるという、経済的にも、社会的にも、危機状態を体験していた。
彼女の父親は養子で、その、部落内での分家の地位にある少々の資産農家は、実質、気丈夫な母親によってとりしきられてきていた。戦争が母親のたった一人の身内であった弟を摘み取ってしまったからだった。その当時も、父親は一家の旦那さんとしてそれなりの羽振りは与えられていたが、それも平常時では許されていたことで、破産状態となってからは、母親の手による、止むにやまれぬ厳しい家業運営が始まったようだった。
その危機的状態に陥る以前は、長女である彼女の二歳違いの姉は、地元の小学校を出ると、私立の俗に言われるお嬢さん学校に進み、嫁入り修行を前提とした伝統的教育を受けていた。そこにその困難が襲い、母親は、従来の資産家庭としての振る舞いに見切りをつけ、いわば無産階級に等しい生活様式に切り替えたようだ。そこで、中学生になろうとしていた次女の彼女には徹底した倹約と自助努力を求め、もちろん姉のような進学は過去の話となるばかりか、家業の重さも一部とはいえ担わされる事態となった。彼女の話によれば、学校の試験の際、姉がそうしているように、「勉強しなくちゃならないから農作業の手伝いはできない」
というと、母親は、「手伝いしなくて一番の成績は当たり前だ。手伝って一番とるのがうちの子だ」 と言いわたしたという。
これはさらに後のことだが、僕はその姉の人となりも知るようになり、姉妹両者の性向がいろんな面、ことに経済面で、まるで正反対であることに気付かされた。姉は僕にも似たところがあって、お金には大様だった。加えて、急きょ、高校進学は公立校へと切り替えられた姉は、あわてて受験に取り組み県立高入学は果たしたものの、出くわした環境の変化にとまどい、そうした変化を強いた母親をうらんでいるふしがあった。他方、妹は、お金にはきわめてきちっとしたところがあっただけでなく、その物の考え方、受け止め方に、母親が強い影を落としていた。後に、その母親が早死した時、その死にもっとも衝撃を受けていたのは、そういう彼女で、僕にはあたかも、そういう彼女が、主を失った従者のように見えた。そこで僕は失意にくれる彼女を励まそうと、「お母ちゃんはお前に魔法の呪文をかけたまま、その解き方を教えないでいってしまった」
と言ったことを覚えている。そうした母親ゆずりのしっかり屋が彼女、少なくとも後天面の彼女であった。
かくして、その一農家家庭をめぐっては、姉までは地主階級としての旧来の生活スタイルが維持されていたが、次女の代からは、そうした特権はほぼ失なわれ、二町歩ほどのやや広めの農地所有者ではあったが、部落の他の零細農家とも似た、出稼ぎ依存の家庭へとの変化が生じていた。そういう意味では、姉のうらみは、母親にではなく、むしろそうした変化をもたらした世に向けられるべきであったろう。
先に高校を出た姉は、そうした誇りや見栄ある彼女にはまことに気の毒にも、あたかも子供が奉公に出されるかの扱いに僕には思えたのだが、東京新宿のある衣料品問屋に就職させられ、僕がその妹と知り合った頃は、公務員と見合結婚をして子を産んだばかりであった。そして僕が初めてその長女に紹介された際、彼女の妹のいかにも都会の気配をもつボーイフレンドたる僕は、赤子を抱く彼女から、なんとも羨望に満ちた視線をなげかけられたのだった。小柄ながら威風を漂わす母親も、そうした僕のその異質に、一目をおいて見ているようであった。
その姉に続いて高校を卒業した次女の彼女は、先に書いたように有名公社に就職し、その高校の就職組としては、当時の可能性の中で、まずはベストの道を進んでいたのではあるまいか。
このようにして、僕と彼女が出会ったのは、ともあれひとつの偶然であったのだが、その背景には、こうした日本の社会の流動や攪拌がおこっていたからだろう。だからそれがもし十年前の、あるいは、十年後の社会であったならば、こうした出会いは生じていなかったかも知れない。
そのような、時代の作用が生んだ二つの異分子の結合は、ひとつの特異な化学反応をおこそうとしていた。
その反応現象のひとつが、僕らの間にある、引付け合っていながら、容易には飛び越せない違いであった。
彼女は懸命になって、自分を解ってもらおうと苦心していた。また僕は僕で、その近い遠さにとまどっていた。そして、彼女はある日、自分の日記を僕に見せることを決心し、それを実行した。
僕のノートには、そうした彼女の日記からの書き写しが読める。たとえば、
- 松崎さんの部屋の、あの本、本、本。
息がつまりそうなほどの圧迫感を感じてしまう。
ものすごい力で私を部屋の外へおし出してしまいそうだ。敵意の目で本の大軍をにらんでやったが、一人対何十冊、何百冊、とてもかなわない。ずるいぞ、本のヤツめ、大勢で弱虫の一人をせめるなんて。無理もない、私一人が敗けるのは。あれほどの明るい家庭でも、この本の方が強い感じだ。
そしてこうも読める。
- 仮面の私をひと時も早く見破っておこって下さい.。
- うんときびしくおこって、きらいになってもしかたありません。
- 気取るつもりも、飾るつもりも全くないのです。
- でもやはり苦しいのです。しんどいのです。
- やっぱり、うその私、猫をかぶった私だから、自分でそれがたまらないのです。
- 私をこんなふうにするのはあなたです。
- おねがいです。ひと時も早く私の仮面をとりのぞいて下さい。
一方、僕はこう記している。
- 何という皮肉だろうか。
何という逆転だろうか。
僕の、生きる意味の積極である、その抽象作用者としての僕が、
そこに意義を置き、そこにそれでこその喜びを見ていたはずのものが、
すべての面で幻であったとは。
=僕は彼女をうらむのではない=
その幻に一人芝居を演じていた、その僕が滑稽なのだ。
暗い夜空に向かって大声で笑ってやりたい僕なのだ。
=僕は彼女を髪の毛一本たりとも軽蔑するのではない=
僕が考え、僕の導いた人間のあるべき姿――創造的な人間であり、理知的であり、思考する人間――。
そうでない人間を、脱落した人間と見ていた僕が、
何よりも確かな具体的な喜びを感じ、愛しはじめさえもしていた、
その彼女が、そのそうでない人間だったのだ。
僕がそこに見ていたもの、
そして、それによって生を確認していたもの、そこに深い生きている人間の味を感じていたもの、
それらが全てここに、その抽象作用にあったのではなかったことを、僕自らの手で実証する。
そして、まさにその抽象作用こそが、彼女をかくも苦しめるのだ。
そういう僕らに、時代は、さらに次元を異にする、その時ならではの難題を送りつけてきた。
1970年代初めの日本社会を風靡した出来事のひとつに、成田空港建設問題がある。ことに、当時の僕らにとって、 「成田、三里塚」 は、大学紛争の体験がつちかった時代の権力に異議を申したてる意志の持続として、その象徴的な輝きを放っていた。何しろ、その新国際空港建設の地となった三里塚で、そこに代々生きてきた土着の農民が、あたかも農民一揆のごとくに徒手空拳で、政府の決定に反旗をひるがして果敢に闘っていた。保守的なはずの農民が政府に楯突くそうした伝統を覆す闘いに、全国の多くの若者たちが奮起され、その農民たちの意志に合流しようとしていた。
僕の仲間たちにも、先に政治セクトへの献身を決めた友を通じ、その働きかけがされていた。それは、ただ単に行動を要請するばかりでなく、僕たち土木技術者の卵に、その専門知識を、空港建設を遂行する側にではなく、そうした農民たちに提供し、いわば反体制の技術者にならんとばかりの、僕らならではの意欲をくすぐられる誘いも含まれていた。
仲間のひとりのMがそれに共鳴し、意を決して成田に出かけて行った。大学時代の後輩たちもそれに続いた。僕らの仲間の中で、その次と目されたのは僕だったが、僕はそれを断った。
「帰ってくるところがあるような場所に自分は行けない」 が、その理由として僕が言ったことだった。そして、僕がそういう態度であったために、、成田に参ずるものは、それ以上、仲間うちからは出なかった。
僕はそう断ったことを、彼女がそこに存在しているからかと自問した。だが、僕にとって、この断りはそれ以前の問題だった。
僕はノートにこんなことを書いている。
- 三里塚に行くこと、しかも単に野次馬としてではなく、共に闘う人間として入って行くこと、それは自己の現在までのあらゆる歴史を、その延長としてのここにあること以上に、農民として生きる、土とともに生きることに価値を見出すことであり、舞い戻りの不可能な飛躍をとげることである。
僕は飛躍の意義を否定しない。いやむしろ何よりも大きく、それがあくまでも人間の生の連続性において、存在基盤そのものの、より本質への接近としての変化として、それを肯定する。その思考と意志による自己自身の条件の選択こそ、生きることそのものであると思う。
それがなぜ三里塚でなくてはならないのか。僕はやはりそこには、出来上がったものへの調子のよい平行移動を感じる。
そう書く僕のところに、インドへと旅を進めている友から、 「人間の作ったものが朽ち果ててゆく腐臭」 と、その綿々たる歴史ある地での自己の現の実感をしたためた手紙が届いていた。そしてそのようにして、どこへにも出かけて行かない非行動の僕は、さらにこう記していた。
- 留まり続ける俺。価値の多様と逆説の中に、条件としての関連のみを淡々と過去のものとさせていく今。
この地をける内力は生まれてこない。
しからば俺は、その恐ろしいような日常の繰り返し、繰り返しの中に、人間の空ろさをさらけ出し、全く無意味に生きて行くのであるのか。死が俺からの全ての切断を行ってくれるまで。
男と女が出会った
男は見た自己の傾きを
そして感じた、その空しさを。
その具体感を引き裂けるか。
その出発点としてのそれら具体感、
その感性と実感を見つめ抜けれるものや、
ただそれだけとして。
僕はそういう具体的であることと、その空無感を、ただそう持続していた。
つづく
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