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 連載

相互邂逅


11

 旅とは移動しないこと、あるいは、不動即旅。この禅の公案のような表現は、今の僕だから意味をなす。 ただ、今、こうして若きころの自分、少なくともそのノートと再会し、当時の僕は、そういう意味などを到底理解できるはずもなかったのだが――当時の僕が、たとえば、 「不動の動者」 などと口にしたとて、いったい誰がそれを信用したろう――、ただ、結果的にはそうした意味をなす、 “不動の行動” をとっていたようなのだ。
 あるいは、当時の僕のある種の直観が、地をけれない自分の地のけり方を、暗黙然のうちにも、実行していたようである。言いかえれば、いわゆる 「旅」 の嘘っぽさを、自分なりに気付いていたようであり、そしてその 「けらないけり方」 とは、自分の 「矛盾」 を、いわば、そのままにさらし続けることでもあった。

 1971年の12月、円の対ドルレートが、それまでの360円から308円に切り上げられて不況の騒ぎが広がっているころ、僕にもひとつの重大ニュースが伝えられた。彼女が妊娠したとの知らせであった。
 12月19日の日付で、以下のような記述がある。
 これは半分、屁理屈なのだけれど、当時、僕は、世間で結婚というものが、結婚が先で妊娠が後という順番であることに、ことが逆のように思えてならなかった。愛情や親しみが、毎日、少しづつ増してゆくのは連続した変化で、そこに突然に取って付けたように、何をきっかけとして結婚という不連続な騒ぎが持ち込まれるのか、それが腑に落ちなかった。しかし、その連続した発展が、二人の問題から三人の問題へと変わるのなら、それは別の問題であった。そこに、結婚という巣作りは自然な発展と思えた。
 ただ、そうと頭が考えても、当時の僕が、こうして自分の青年時代に終止符を打ち、その次の時代へと入ってゆくことに、それまでの自己分裂的状態がいっそう重篤化してゆくのではないかと、その回避を望みたい自分があったのも確かだった。たとえばこうだ。
 一方、彼女は、順番が逆であることも含む、そうした事の進行すべてに大きく動揺し、生むこと自体にも決心がつかないでいた。そして、そういう自身を 「化けの皮がはげてきた」 と、自分自身をさいなんでもいた。当然、彼女にも、娘時代に別れを告げるため、安易ではない決断が求められていた。
 そして、ふたりは、互いにそれを越えた。

 これは、1月16日との日付のある記録である。
 その一ヶ月後の2月26日、新宿のなじみの飲み屋の二階の座敷で、僕らは僕らの友人たちの催す 「結婚を祝う会」 で結婚した。
 僕は、彼女が希望する勤め先の上司の出席も断らせ、門出の彼女の衣装も、白のワンピースを新調するだけにした。こうして、僕だけでなく、彼女にとっての晴れの場からも、形式とみられるものは一切取り去ってしまった。
 また、これは、僕の当時のノートのどこを探してもその詳しい日付は」見当たらないのだが、1月初めのどこかで、僕は、その妊娠が想像妊娠であったことを告げられていた。
 しかし、その通告のもたらす事態の奇なる展開に、 「事実上、何かが試されていたのか」 とは受け止めさせられたものの、 「巣作り」 に雛がたとえいなくても、もはや僕にとっては大した意味の違いをもたらすものではなかった。僕は、決断に何ら変更を加えることなく、すべてをそのままに進めた。

 かくして、東京中野の、小さな町工場に隣り合う家賃1万6千円の六畳一間のアパートで、僕らの新婚生活が始まったのだった。それは、僕にとってのそういう 「旅」 の始まりであった。

 つづく
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