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連載
旅とは移動しないこと、あるいは、不動即旅。この禅の公案のような表現は、今の僕だから意味をなす。 ただ、今、こうして若きころの自分、少なくともそのノートと再会し、当時の僕は、そういう意味などを到底理解できるはずもなかったのだが――当時の僕が、たとえば、
「不動の動者」 などと口にしたとて、いったい誰がそれを信用したろう――、ただ、結果的にはそうした意味をなす、 “不動の行動” をとっていたようなのだ。
あるいは、当時の僕のある種の直観が、地をけれない自分の地のけり方を、暗黙然のうちにも、実行していたようである。言いかえれば、いわゆる 「旅」
の嘘っぽさを、自分なりに気付いていたようであり、そしてその 「けらないけり方」 とは、自分の 「矛盾」 を、いわば、そのままにさらし続けることでもあった。
1971年の12月、円の対ドルレートが、それまでの360円から308円に切り上げられて不況の騒ぎが広がっているころ、僕にもひとつの重大ニュースが伝えられた。彼女が妊娠したとの知らせであった。
12月19日の日付で、以下のような記述がある。
- 僕はこの上なくうれしく思うのだよ
だってそうだろう
僕らの命の高まりや、
遠い原始へ帰ったような深い自然のつながりや
そして、それほどまでにも僕たちが
嬉々としたよろこびと
助けあえる力とを確かめて
一歩、一歩ここまでやってきた
その新たな航路として
ただただ自然に
誰にだってよろこびでないわけのない
その、君の体の内の小さな芽を
僕は馬鹿みたいに素直に
うれしく思うのだよ
僕は君のそのよろこびをさえ
汚らしい手でもって奪いとり
まるでおぞましい者を見るような眼を向けてくる
それら全てが憎い。
ごまかすことを知らず
小さなことにも心を動かせる
そのやっと開いている繊細が、
それらの騒々しい僭越の前では
あまりに無力でありすぎる。
僕はやっぱり君を、無理やりに引きずってきてしまったようだ。
僕にとってこれは、ただの順番上のちがいだけれど、
君にはそうじゃないのだから。
これは半分、屁理屈なのだけれど、当時、僕は、世間で結婚というものが、結婚が先で妊娠が後という順番であることに、ことが逆のように思えてならなかった。愛情や親しみが、毎日、少しづつ増してゆくのは連続した変化で、そこに突然に取って付けたように、何をきっかけとして結婚という不連続な騒ぎが持ち込まれるのか、それが腑に落ちなかった。しかし、その連続した発展が、二人の問題から三人の問題へと変わるのなら、それは別の問題であった。そこに、結婚という巣作りは自然な発展と思えた。
ただ、そうと頭が考えても、当時の僕が、こうして自分の青年時代に終止符を打ち、その次の時代へと入ってゆくことに、それまでの自己分裂的状態がいっそう重篤化してゆくのではないかと、その回避を望みたい自分があったのも確かだった。たとえばこうだ。
- 僕は恐ろしかった。そんな僕に変貌してしまうことが。それは僕自身の僕への全面的な拒絶であり、挫折であり、崩壊である。
僕はもはや、僕の内からの声に一切耳を貸しはしないだろう。そして、虚無的に、惰性的に、さらに、その腐臭を発するただ欲望だけにあやつられる僕に、僕は剥離し、あきらめる。
僕は開き直る。キバをむき出す。
俺をこんなにしたやつは誰か。
一方、彼女は、順番が逆であることも含む、そうした事の進行すべてに大きく動揺し、生むこと自体にも決心がつかないでいた。そして、そういう自身を
「化けの皮がはげてきた」 と、自分自身をさいなんでもいた。当然、彼女にも、娘時代に別れを告げるため、安易ではない決断が求められていた。
そして、ふたりは、互いにそれを越えた。
これは、1月16日との日付のある記録である。
- 冬枯れ色の田のむこうに、娘を見送る両親の姿がある。
一面灰色の空から、雪まじりの雨が、日本海を渡ってきた寒風とともに、その両親の姿を打つ。背後には、幾代も受け継がれてきた黒く太い柱の家があり、そして、その家をこんもりと囲む森がある。白く浮き上がった両親から、一本のぴーんと張られた絆の糸が、細く張りつめられて僕らに伝わる。僕は娘を奪い去る運命の使者。そして、娘を嫁がせる親の使命の終焉の時。
走り去る車はあまりに速い。その遠ざかる両親の姿を凝視する娘の目に、にじみ出る涙がかげって光る。
山々は冷たく黒く、移る世代を黙して見下ろしている。
汽車の煙が風にとび、雪に変わった寒風を横切り、娘と僕を東京へと運ぶ。
僕はお前から故郷を奪う。お前は、その空も、川も、あぜ道も、スミレ草も、それらみんなより、僕を選ぶ。
喧噪と不安の東京へ、ただ、僕が居るから嫁に行く。
小さい頃から夢見てきた花嫁衣裳もダメになってしましそう。それでもいいとお前は言う。僕はお前を無残に切りさく。僕はこんな僕に過酷を思う。
僕はお前に何が与えられるのか。
氷のように正しいすじ道と、つらい二人のちがいだけ。
そして、乾き切った東京の、小さなアパートの一室に、僕らは希薄な寝起きをするのだろう。
その一ヶ月後の2月26日、新宿のなじみの飲み屋の二階の座敷で、僕らは僕らの友人たちの催す 「結婚を祝う会」 で結婚した。
僕は、彼女が希望する勤め先の上司の出席も断らせ、門出の彼女の衣装も、白のワンピースを新調するだけにした。こうして、僕だけでなく、彼女にとっての晴れの場からも、形式とみられるものは一切取り去ってしまった。
また、これは、僕の当時のノートのどこを探してもその詳しい日付は」見当たらないのだが、1月初めのどこかで、僕は、その妊娠が想像妊娠であったことを告げられていた。
しかし、その通告のもたらす事態の奇なる展開に、 「事実上、何かが試されていたのか」 とは受け止めさせられたものの、 「巣作り」 に雛がたとえいなくても、もはや僕にとっては大した意味の違いをもたらすものではなかった。僕は、決断に何ら変更を加えることなく、すべてをそのままに進めた。
かくして、東京中野の、小さな町工場に隣り合う家賃1万6千円の六畳一間のアパートで、僕らの新婚生活が始まったのだった。それは、僕にとってのそういう
「旅」 の始まりであった。
つづく
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