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連載
僕らの新婚生活が、誰ものそれと、大きな違いのあるものであったとは思えない。同じように、人生至高の春陽を満悦し、同じように、はじめての他者との同居生活に悩んでいたのだと思う。人にそれぞれの個性があるように、僕らにも少しのユニークさはあったのかも知れないが、それがことさらに取り上げて言うほどのものであったとは思えない。まあ、ふつうのありきたりの生活であったと思う。
それは、情緒的には、当時ヒットしたフォークグループ 「かぐや姫」 が歌う 『神田川』 の世界であったかとも思う。ただ、歌詞にある 「三畳一間の下宿」 暮らしではなかった。だが、 「横丁の風呂屋」 が不可欠な生活ではあった。
詳しくは思い出せないが、それからいく年かして、何かの飲み会の二次会の席だったかと思う。大学の後輩たちの世代に混じりカラオケにくり出した時のことだった。僕にも番が回ってきて、不得意ながら、『神田川』 をことに風呂屋のくだりに妙に感情をこめて歌ったことがあった。だが、後輩たちには――まだひとり者が多かったが――通じぬものがあったのか、彼らからどことない反発の空気を感じさせられた。彼らとはすでに、流行歌レベルにおいても同世代ではなかったようだ。それに、彼らの目からは、僕らは、いい気なボス猿たちの世代でもあった。
そのようにして、二人での一対の暮らしが日常のものとなってしまうと、僕のノートのトーンには、再び、一人称の世界に戻ってしまったような変化が認められる。独身のころ、両親とともに家族の一員として生活していた時代、ことに母親に対しては、つよく自我を張ったところがあり、他人行儀な観察の目を向けていた。だが、なじんだ親のもとを巣立ち、こうして、自分で自分たちの巣を構えてしまうと、今度はそこがまた、新たな観測の対象となりはじめていた。何と言うのだろうか、「肉親」 とか 「肉体」 とか、自分の 「肉」 の部分に対しては、こうした冷ややかな視線が避けられないのかも知れない。
それに加えて、ノートの表現形式において、以前のような詩篇の形がおおむね姿を消し、散文形式のものへと変じている。ひとめぐりの、ほとばしりの季節が過ぎ去ったのであろうか、ある、間延びした時間が漂っている。そして、文章体の表現は、それだけに、起伏に富まず、迫る気概に欠けるものがある。短距離ランナーがその挑戦の場を長距離レースに切り変えたような、何か、跳躍するものが薄らぎ、守りのレースに入ったような平坦さが見出せる。
それが似つかわしい呼称かどうかは別として、どうやら、こうして僕の “詩人” の季節ははかなく幕を閉じ、長い凡人の時代に戻っていったようだ。
そうした散文形式の表現のひとつに、結婚から四か月ほど経過した頃、こんな記録が読める。それは、山好きで遭難死から紙一重で生還し、今度は牢獄を体験してきた友人と、夜を徹して語りあった後のノートだ。彼から――それは先にも
「世界無賃旅行」 に出た別の友人からも指摘されていたことだが――、僕のもつ発想法の特徴を 「没感覚的」 と批判的な意見をもらったがゆえでもある。ノートはこう記している。
- 私は確かに、彼らの人格に接していて、ある深い異質として感じてしまうものがある。同じもの、同じ情況に対して、とっさに感じ取るその取り方そのものの差異である。
私にはやはり彼らより、ものの感じ方に細かさがある。それは一種の弱々しさと連動する。 “動揺” といわれるものと表裏一体を形成するものでもある。それは意識並びに意志以前の私自身の動きはじめ方がそのようなものであるところの構造
(と私は定義づけているのだが) である以上、それは修正不能、あるいは、やむをえないものであると、半ば容認してきている。
私は、まずある仮定をここに考えてみる。即ち、それを、何か一連の質を感じ取るその能力の差異、つまり繊細性の問題と仮定できるとしたらどうなのであろうか。
- (中略)
それが私にとってまず 「動揺」 として取り入れられるが、そうであるが故に不確定素因として、その扱いは黒白、あるいは諾否の判断への段階へとは進められずに、留保的段階にさしとめられる。解らないとされたものは解るまで、黒でも白でもない干渉しあう圏内にそれは置かれる。
しかし友人たちは、事態をこうとはとらえずに、 「やるかやらぬか」 あるいは 「断つか断たぬか」 と、二者択一的にとらえているのだった。僕は確かに、そうした批判をもらい、自分の生ぬるさを認めざるをえなかったが、そうした二元論に還元できない何かにとらわれていた。
こうした時期をカバーする、「No.9」 と標記されたノートは、その最後の記入に、「7月3日」 との日付のみを残し、それ以降、空白のページで終わっている。さらに、次の 「No.10」 のノートが始まるのは翌年1973年の4月である。この間9ヶ月、ノートへの記入は中断している。この間、いったい何があったのか。
ノート上の形態のみでいうと、この中断期間中、ポケットに入るような小型のノートが使われたらしく、幸い、それらが三冊、合わせて残されている。ただ、その小型ノートも、その最初の記入は72年の10月で、ここでも、3ヶ月ほどの空白期間がある。
この72年の夏に何が起こったのか、もちろん僕は、ここではっきりと思い当たることがある。思いあたるどころか、忘れようとしても忘れられない体験がある。だがしかし、こうやって、あらためて、綿々と連続してきた僕のノートをひも解いてきて、それがこうした顕著な中断現象を起こしていたことの発見に、意外な思いを抱く。
それは、ノートに向う時間までなくなるほどに物理的な制約が僕を襲っていたのであるか。それとも、書く意欲をなくすほどの精神的な衝撃が、そうした空洞化を起こさせていたのであるのか。
それはそれほどに、日常の習慣をくつがえすまでものことだったのか。それとも、それをきっかけに、僕にあらたな 「構造」 が構築されはじめたのか。
もちろん、今の僕は、そのやってきたものがどういうことであったのか、しかも、その結果が何をもたらしたのか、それを熟知している。だが、当然、当時の僕は、それを全く知らない。知る由もない。あたかも突然に降ってわいたかのごとき出来事として、ひとつ、ひとつ謎解きをし、模索し、足場を求めながら、一歩一歩、にじりよってゆくしかなかった。
ここで、そうした僕を思い起こすと、当時の僕にとって、すべての結果まで知っている僕が、たとえ将来にでも存在するという次元に、想像をめぐらすことすらできなかった。当時、僕は年のいった人を嫌い、耳すらかそうとはしていなかった。時間を敵のように思っていた。だから僕はしだいに孤独化し、そうした自分を、たとえその後何十年も後のことでも、誰かが思い起こしてくれることがあるなどとは、思いもよらぬことだった。いわんや、そうした当時の僕にとって、その僕と、今にいたったこの僕という二人の僕が、互いに認識しを交わし合えるなどとは、まるで、あの世の話か、神の世界の話だったろう。当時の僕には、自分は、重みに耐えきれず、潰されて、こと消えて無くなるかもしれない、前途不安の真っただ中にある存在だった。そこに、たとえ一言でも、この今の僕からの声が聞こえたなら、それはまさに神の声に等しいし、それはどれほどの励みになっただろう。そういう意味では、今のこの僕は、その
「神」 の位置にいる。そして、長い時間の延長線上にあって、過去と未来を見通せる立場にある。年を経るとはそういうことのようだ。むろん、自分が神だとは秋毫も思ったことはなく、今の自分はただ、そうした思い出話にひたる初老の輩にすぎない。だが、それでもなお、こうした、二人の僕を認識するこの感覚と体験は、日常意識、物理的常識を超えるものがある。
そうようにして、そうした小型ノートの使用を始めたのは、思いついたときにいつでも取り出して書き込めるその携帯性のゆえのようだ。またその背後で、この時期あらためて、ものを書くことへの投入に一層のよすがを見出そうとしていたようでもある。そしてさらにその背後では、新しく始まったばかりの二人しての生活にもかかわらず、その新妻に起こり始めた不可解な現象が、何かとてつもなく不安な時期の到来を予感させており、自分をなんとか照らし出そう、自分の道をなんとか見つけ出そうとする、一人称の度合いをさらに深める、自己開拓、自己叱咤の作業に没入しようとしていた。またその作業は、作品を書きそれを発表したいという文芸的動機とは対局に位置するような、ともにものを書くという姿勢に変わりはないのだが、他者の存在には何ら頼れぬ、“孤”人称な作業の始まりだった。貧困が閉じた人格を形成するように、精神的に追い詰められた環境がいこじな構造を作りだそうとしていた。
つづく
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