「両生空間」 もくじへ
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連載
看病と業務上災害認定獲得のための必要から、避けられなかった行動とは言え、僕が消極的にでも続けてきていた建設構造物設計の仕事を辞めるという決断は、僕の学生時代以来の建設業への関わりに、今から思えばそこが岐路であったような、職業上の決定的な転換をもたらそうとしていた。つまりそれは、近親者の影響もあり、また、時代の流れにも乗って、そうして身につけてきた建設の専門技術を、職業つまり収入を得る手段として、それに頼らないことへの転身を意味していた。
ただ、僕がそれまでに築いてきた人間関係は、建設関係の人達が主であったので、生活する世界は相変わらずその界隈であった。ともあれ、こうして僕がこの業界に関与する直接の接点は、工学系の分野からは離れ、それ以外の、どちらかと言えば人文学系の分野に移り始めていた。
もともと、僕の大学での卒論が土木工学の歴史についてであったように、僕の関心はとかく、工学から外れる傾向は以前からあった。それが、妻の病気という重い課題を与えられ、それに懸命になって取り組んでいるうちに、僕にとって、工学を身につけていることは、ただ一般的な金稼ぎには有用だが、看病とかその病因の追及といった目下の必要にはいっこうに役立たないことに、いやでも気が付かされてきていた。
ただ当時の自意識では、そうした自分の関心の移り変わりは、自分の主観サイドでの受け止め方が主体をなしており、そうした変化に、あたかも自己に原因があるかのような自責意識がどこかに存在していた。だから、そうして専門の域から身を引いてゆく自分に、ひとりの脱落者を見る気持ちも伴っていた。
しかし、いま、こうして 「三分の一世紀」 の時間的距離を置いて眺望してみると、僕をめぐる、むしろ社会的な――ある意味で客観的な――要因が決定的とも言える影響をおよぼしていたことが視界に入ってくる。言うなれば、もし妻がその職業病にかかっていなかったら――あるいは、医者に任せておける
“普通の” 病気であったなら――、たとえ僕がどんな変わり者であれ、ひとりの父親になっていた可能性は高いし、建設業界との接点も、そうした技術屋としての役割を持続してきていたに違いない。
つまり、もう少し踏み込んで言えば、当時の医療機関がこうした看病やその治療に真に役立つものであったのなら、その面はそちらに任せ、僕は、金稼ぎの役目をひたすら全うするという
“普通の” 社会的分業が成り立っていただろう。しかし、その期待は大きく裏切られ、本来なら医療従事者がなすべき役割を、全くの素人ながら、僕自身で負わなくてはならなくなっていた。それは、その病気が職業病という極めて
「社会的」 ――この用語は婉曲的で、明示的には 「階級的」 と言うべきだろう――な病気であったがゆえにである。つまり、僕が 「仕事」 を辞めざるを得なかったのは、そういう社会背景的意味が絡んでいたからとも言えるのだが、当時の僕はそこまでには目がとどかず、無職となることにどこか後ろめたい気持ちさえ抱きつつ、ただ、看病とか労働問題とかといった方面への差し迫った必要から、その程度の重要度の仕事とは、ともかく一線を画そうとの道を選んでいたのだった。
自分にまつわるそうした客観面は、今の僕にこそ明瞭な視点であるのだが、当時の僕の視界はむしろ主観面にしばられていた。だから、その主観的受け止め方を主な推進剤として、それまでの傾向をいっそう顕著にしたことがあった点には言及しておかなくてはならない。すなわち、そのようにして、主観的に、人並みではないと受け止められる、緊迫した生活に巻き込まれてゆけばゆくほど、僕は自分の安住できる居どころを求めて、もの書きの世界にその
「思い入れ」 の度を高めていた。つまり、確かに僕は環境の産物ではあったのだが、それでも、自分の働きかけが作り出す何か、つまり自分の主体性による産物でもあろうともがいていた。
今、手元に、例のノート類を詰めたミカン箱に発見した、 「野帳」 と呼ばれる――測量の際、現場で測定データを記録する――手帳型のノートがある。中を開けてみると、英語の単語帳ならぬ、
“日本語の単語帳” となっていることが一目瞭然で解る。それらの単語は、通常にはあまり使われない漢語や熟語であるのだが、ちょっと深い意味を表現しようとすると有用な言葉類の一覧をなしている。つまり、表現上のボキャブラリーを増さんとする工夫である。その当時、身の周りに見つけたそうした単語を、そのように一つひとつ書きとめたものだ。僕の遅蒔きな日本語鍛練の足跡のひとつだ。
また、そうしたもの書きへの努力の微々たる発展の印でもあるのだが、74年の春ころから、僕は自分の文章を “人目にさらす” 場として、 『元語』
とのタイトルの自己出版物――小さな新聞のような数ページの印刷物――を発行し始め、周囲の人々に配布しはじめた。実は、例のミカン箱にそれも収容されているものと大いに期待していたのだが、どういう訳がそれが一部も見当たらず、この点では大いに落胆させられている。
また、 「No. 14」 のノートには、74年9月16日の日付で、 「社会化する自我」 と異例にもタイトルを付した記入がある。それは、文芸評論家平野謙が書いた
『昭和文学の可能性』 (岩波新書) を読んでの記録である。平野が焦点をあてた昭和初期の日本の知性が、戦争へと向かって変化を遂げつつある社会に、どのように反発し、そしてまた、もみしだかれたのか、それを僕自身の卑近な体験と重ね合わせつつ、ひとつのシミュレーションを行うような気持ちで読んだものである。ことに、そうした知性の左傾化と政治化は、軍国右傾化する社会と激突し、逮捕、拷問、獄中死、転向といった壮絶な経緯をくぐっていた。
ノートにはこう記されている。
- 私の内で、いわゆる非政治的資質というものをめぐって分裂と混乱の極を呈しつつあったものが、〔一ヶ月半前の労災認定を境とした〕 上向きを契機として、一定程度の整合化の方向へと向いてきた。心情的には確かに安定と意欲向上の姿をあらわしている。私が通ったこの変化とは、一体何が実質であったのだろうか。
この間、私は平野謙の評論 「昭和文学の可能性」 を再度読みすすめることで、人間の持つ政治と非政治にまつわる両極を峻別しえる人間性に対し、その相方を基盤として、何とか平衡を保って立っていることが出来るようになったと感じられている。そして、この私のぶつかっていた壁の意識の実体は、個的自我が社会的自我に覚醒するその抵抗感であったと位置づけられよう。
- (中略)
- 「自我の社会化」 のひとつの視点とは、そうした断たれた空白区間に連続的つながりを伸ばして行くことだ。
- 改められるべきは、その臆病性ではあるまい。それを個的な病的資質として押し込められてしまうことだ。そして、むしろその飛躍を嫌う判断こそに、ひとつの積極的意味があるのだ。それがあってこそ、思想に血肉が付加されてゆくのだ。
つまり、ここ 『相互邂逅』 の文脈で言えば、 「主観面」 が 「客観面」 へと孵化をとげつつあるその過程の一断面が、この74年9月16日付けのノートをもって、そう描写されていた。言い換えれば、僕はその職業病をめぐる体験により、そう鍛えられていたのであった。
だが、人の生には皮肉かつ冷徹な実相がある。
というのは、こうした僕の 「自我の社会化」 は、戦後の “平和” 時、ことに当時の順調な経済発展をとげる日本社会にあっては、社会との 「激突」
に向かうまでの経路を産んではいなかった。しかし、生活のための 「金稼ぎ」 という鉄則をめぐっては、ならばこそ、何らかの “平和的” とはゆかぬ姿勢とならざるを得ない。つまり、その
「鉄則」 に楯突いて、僕は相変わらず無職を続け、認定の獲得という目的達成を得て “非常事態” の終結を見たにも拘わらず、いまだその “異常態勢”
を解いてはいなかった。つまり、妻の職業病にかこつけたその鉄則回避はその隠れ蓑を失い、今は自分の “持病” ――あるいは 「思想」 ――のもろな表れとなって、僕ら自身の生活を脅かし始めていた。
こうした僕の持病を 「実存病」 と呼ぶとすると、この病気には、頼るべき医療機関も処方される薬もない。まして、 「人生業務上疾病」 なぞとの視点など論外である。それに患ったものは、ただただ天災のごとくその病苦に耐え、その家族はそれがある日奇跡のように治癒されることを祈るしかない。唯一の救済は、社会では間々、その病苦の表現とかが、ほとんど偶然か戯れかのように、芸術として商品扱いされることがあるだけである。
こうした脈絡で、僕は、当時の僕を傾けさせていた、もうひとつの方角にも触れておきたい。それは、夭折した画家、ビンセント・ゴッホとの、ことに、弟テオに宛てた彼の手紙との出会いである。
認定から2年ほど経た、75年9月末の 「No. 19」 のノートに、ゴッホの手紙からの抜粋が書き写されている。小林秀雄の 『ゴッホの手紙』
に触発されたもののようだ。
- 籠の鳥も、春になれば、何かの目的に仕えねばならぬところだとはよく承知している。何かする事があるとは良く感じているが出来ないのだ。それは何か。彼ははっきり覚えていない。彼は漠然とした考えを抱き、独語する。他の鳥達は、巣を作り、卵を生み、子供を育てると。そして頭を籠の横木にぶつけてみるが、籠は相変わらず眼の前にあり、彼はその苦しみの余りに気が変になる。通りかかった他の鳥が言う。この怠け者を御覧、気楽にやっているらしいと。さよう、囚人は生きている、死にはしない。彼の内部に何が起こっているかは、外から見ては解らない。彼の健康は大丈夫だし、陽が当たれば、多少は元気にもなる。が、やがて、渡りの時がくる。メランコリアの発病――籠の世話をしている子供が、何でも欲しいものはある筈なんだ、と言う。だが、彼は籠を透かして、雷雨をはらみ、暗雲低迷する大空を見据えているのである。
ゴッホは、二十代の半ばで画家になる決心をし、三十七歳で自分を撃って自殺するまで、千点を超える絵を残したものの、売れたのはうちたった一枚のみだった。僕はどうやら、そうしたゴッホの生涯に、何か、自分が共鳴する何ほどかのものを感じ取ろうとしていたようだ。この頃のノートには、たくさんのゴッホの手紙が書き写されている。そういうゴッホにとっての絵と、僕にとっての書き散らかされた文章には、一抹の相似した役割があったのかも知れない。
そのように、もの書きへのつのる思いはひとしおであったものの、僕が人の認めるいわゆる文才ある文学青年であろうはずもなく、学校時代も自分の作文をほめられた覚えは一度もない。ただ、自己内部の思いの発露をひたすら自求していた度合いが人一倍強かっただけであるのだろう。
このようにして、工科系の人間でありながら、少々は意味なす文章がつづれるようにはなり始め、また、周囲の人たちからは、僕らの生活を慮ってか、たとえば、親しかった卒業大学の教職員組合の委員長が、自分の文章下手を理由に、僕に代筆業をやらせてくれたりもした。また当時、その大学の卒業生組織の運動にかかわる機会があり、そこでもいろいろ文章を書いていたのだが、そうした関わりから、先輩卒業生との接点も広がっていた。
そうした折、一人の一世代上の先輩から、労働組合の専従職員の仕事があるのだがやってみる気はないか、との話があった。それは、結成されてからまだ数年の若々しい組合で、土木分野の設計技師たちを組織した企業別組合の上部団体であった。その組合は、ほぼ僕と同じ世代を中心に八千名ほどの技術屋をその組合員としていた。
その先輩が書記長をつとめるその組合の事務局長――筋金入りの労働組合運動家だった――にも面会し、僕はその仕事につくことに決めた。何か新しい世界がそこにあるように思えたからであった。1976年の梅雨時であった。
つづく
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