「両生空間」 もくじへ
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連載
僕が、この旅立ちによって、それまでの何かを 「切り捨て」 たのは確かだったが、それはそれなりに長い時間を要しながら行われたことで、そう足場を固めながら進められたことだった。つまり、この旅立ちのとっかかりの数年では、むしろ、その旅立ち自体が一種の
「保険」 を必要としていた。
「保険」 というのは、とにもかくにも、こうした僕らの試みが、たとえなにがしの動機や意欲を伴っていたとは言え、失敗に終わるかもしれない可能性もそれ以上にあったことによる。実際、志なかばで脱落して行った同僚たちを少なからず知ることとなった。だから、そうした場合に備えた
「保険」 が必要で、そういう意味では、“二股賭け”、今の言葉でなら “リスク・ヘッジ” が避けられなかった。つまり、そうして、失意に打ちひしがれて日本に舞い戻ってこざるを得ない時、住む場所もなく、働く当てもない、といった無残な結末は避けたかった。自宅を期限付きで人に貸したのはそういう
「保険」 のためだったし、組合の仕事を三年間の休職としてもらったのも、そこに戻れる安心を得ておきたいからだった。むろん、成功したならしたでその成果を生かす場にもなるはずだった。妻の実家のお蔵に僕らの家財道具を預けたのも、そういう出直しの場合への備えからだった。例のノート類が、それから四半世紀、無傷で保管されていたのも、そうした備えが、直接の役目を終えていても、そう、永らえていたからであった。言い換えれば、そのような後ろ盾があったからこそ、そうした危険への挑戦も、気力や生活資源を集中させて行えたのだった。
このように、僕らの旅立ちは、その先25年にもわたるオーストラリア在住をその当初から想定していたわけでは決してない。はじめは、 「戻る」 ことを暗黙の前提としていたのであり、そういう意味では、オーストラリアはひとつの旅先にすぎなかった。
そうして始まった僕らの初歩段階のオーストラリア生活は、オーストラリア側からすれば、僕らは外国人で、あくまでも臨時の入国者だった。つまり、僕らの
「ビザ人種」 が学生とその配偶者と言うように、入国の手続き上、僕の立場が基準となっており、言わば脇役にされた妻は、制度上、夫の扶養家族であることが想定されていた。言い換えれば、僕と妻はそれぞれ別個にビザを申請し、各々独立して得たのではなく、戸籍主のように、僕が
“ビザ主” となり、妻はそれに付随していた。
ところが、僕らの現実は、必ずしもそうした想定には合致していなかった。というのは、僕らの生活源はなけなしの持参資金のみで、およそ二年間で尽きる運命にあり、しかも、僕らの三年計画には
「現地調達」 の稼ぎが当てにされていた。ゆえに、何もしないで持参資金に手を付けるくらいなら、今のうちから少しでも収入を得て、その延命を図るべきだった。そしてこの穴埋め役は、時間もあり、ましてそういう場ではじっとしていられない妻が、ビザ上では脇役ながらここでは主役となって、それを担うこととなった。僕はともかく計画通り一年で語学学校を終わらせなければならなかったし、また、なんとかなるだろうと楽観視もしていた。つまり、生活現実上、僕らは一対の車輪であった。
ただ、彼女がこうして制度的枠を越えてオーストラリア社会に出てゆこうとすると、彼女には、僕に与えられているような “学生人種” としての特別扱いはなく、言葉の上でも生活常識の上でも、いきなり、オーストラリア社会一般の波風にさらされることとなった。そこは、まぎれもない、外国だった。
彼女は日本出発以前、先の役に立つだろうと日本語教師のコースを受講してきており、さっそく、現地の学校などの関連した仕事に応募してみた。しかし、そのコースは民営のもので、公的な教員資格を与えるものではなかった。だから、資格を持たぬ彼女は、その応募先の学校からは門前払いをくらってしまった。やむなく、最寄のスーパーの掲示板に、日本語教師の張り紙を出したりもしてプライベートな機会を得ようとしたが、これまた、公的教育サービスが行き届いているオーストラリア――日本でいう各種学校が公立で、しかも授業料は当時は無料――では、自前で日本語を習おうとの常識は存在していなかった。やがて、パース市内の小さな日本食レストランにウェイトレスの仕事を得て、最初はランチの時間帯のみ、後になっては夕食時も加わって、ようやく少々腰を落ち着けられる働き先となった。だが、そうして働き口が得られれば得られたで、今度は、週20時間以内というビザによる労働時間制限の問題が浮上してくるのだった。それに、今でもそうであるように、そうした飲食業関係、ことにアジア系レストランの仕事は、低賃金で労働のきつい、今でいう3K職種のようなもので、
「差別」 されないオーストラリア人たちなら決して寄り付かない、そうした種類の仕事だった。
一方僕は、語学学校では最年長の学生で、若い世代中心のクラスの中では異例な存在で孤立しがちだった。僕としては、独りでいることはいっこうに構わなかったのだが、その年くった自分の、下降に差しかかった能力、ことに語学習得に必須な記憶力の覚束なさに、場違いなことに頭をつっこんだものと、自信が揺らぎ始めていた。何しろそれはまるで、ざるで水をくむような徒労の作業に思え、時には、もはやこれが自分の限界かと、気も沈みがちだった。また、学校のクラスメートであるインドネシア人の小娘から、僕が語学を習うのは
「too late (遅すぎ)」 などと面と向かって言われたりもしていた。ただ、その一方、たとえ言語上の意味がわからなかったり発音が聴きとれなかったりした場合でも、言葉というものは極めて常識的なもので、前後の文脈や場の状況から、自分のそれまでの社会常識を発揮してその隙間を埋めるという
“裏ワザ” が有効なことを発見し、その点では誰にもひけをとらなかった。さすがに、 「年の功」 は生きていた。
僕らはそうして、片や市内のレストラン、片や語学学校と、場所的にも心理的にもビザ的にも、互いに隔たった場で一日を過ごし、夜になってようやく二人共通の場に戻れた。夕食を共にしながら、その日一日の苦労や辛さを語り合うということが日々の生活の糧となった。ことにその際、二人して飲むカスクと呼ばれる箱入りの格安ワイン――4リットル入りで
“蛇口” 付き――が潤滑油となって、一日の疲れをいやし、互いの役割の違いがもたらす間隙を埋めてくれていた。もちろん、日本でも、形としては同じような二者二様の生活はあった。だが、僕らが選んだオーストラリアという
“人為的” 環境にあっては、二人の対関係という許されたわずかな “自然的” 要素に、他には代えられない切実なものが、期待され担われていた。
パース到着以来、真夏の当地は、日によっては気温が40度なかばにも達した。ただ、湿度は極端に低く、空気は乾燥しきっていた。ノートの紙は焼き海苔のようにぱりぱりで、鉛筆を使えばそれはやすりのように芯を減らせた。乾燥のあまり、のどの渇きが恐怖にすら至るとは、日本では想像すらもできぬ、この地に来て初めて味わう体験だった。
そうした非情な “熱乾燥” もひと段落した四月、つのった自分自身への不甲斐なさの思いから、僕は彼女にある提案をした。そうやって一緒に楽しんできた酒をひかえたいと言ったのだった。その時、僕は、アルコールが自分の記憶力減退に拍車をかけていると信じ、少しでも、ハンディーのもとを、減らせるものなら減らしたい、と思いこんでいた。
当時のノートに、こうした記録がある。
- 昨夜、酒をひかえたい旨、彼女に話す。(中略)
彼女には、一種の裏切りに映ったようだ。 「4年でも5年でもかけて、グータラやろう」 、そう切り出そうとしていたところだったと言う。そう話かけようとしていたやさきに、その相手から、
「酒は飲めない」 と宣言されたのだから、その拒絶にも受け止められたことだろう。
実は、僕の 「酒断ち宣言」 は、これで終わったわけではなかった。それから二年半後、その頃は、目的とした大学院に無事入り、文字通り、その院生生活に苦心惨憺させられていた時だが、今度は、自分は四十を回ってもう年だという理由も加えて、同じ宣言をくり返した。その時、彼女が僕に書き残したメモ状の手紙が、僕のノートに貼り付けられてここにある。
- これから先、二人の人生がどんなになっても、昨日の屈辱とみじめさとショックは決して消えないでしょう。あなたとの、清く、正しく、りっぱで、そしてとても冷たい人生の中に、私には、私のいこいの場を見い出すことができません。
あなたによって (カンタンにあなたの思うがままに) 作られ、変えられてきた私。でも、あなたがさかんに言うように、私達はもう年です。私にとってこれからの人生のチェンジはどんなにか大変なことか。
二人だけで楽しくお酒を飲むこと、大好きだった。とっても楽しかった。それを教えてくれたことに感謝したかった。もし、こんな結末にならなかったら。
そうした宣言が二度も行われたように、この後も、僕らの飲酒の習慣が完全に終わったわけではなかった。それに、そうして一緒に飲むことは、僕らが日本に居た頃からの就寝前の習慣でもあった。その馴染んだ生活に、僕が、そうした宣言を一方的に行ったという行為は、二人の間に、後味の悪い刻印を残した。だが僕にとって、たとえ名目とはいえ学生としての使命を果たすことは、
“ビザ主” たる僕の責務で、終始、その重さを意識させられていたし、本来の目的であるオーストラリア生活の持続という意味でも、その定期的手続き上の条件に是が非でもパスしておく必要があった。それに何よりも、僕は、その自ら取り組む自らの試みに、自ら墓穴を掘る愚行は避けたかった。
さらには、言葉の問題があった。英語は、来豪当初、僕らの関係において、彼女が明らかに優位を持っていたことだった。それが、片や、専門の学校に通ってフルタイムの教育を受け、片や、職場でオーストラリア人のお客さんとの直接の接触はあるとはいえ、日本食レストランという限られた機会と程度においての体験的学習だった。僕は、言葉の習得には生きた現場での経験も重要と考えていたのだが、僕の受ける学校教育が次第々々にもたらす実際的成果は、二人の間の心理バランスを変え、少しずつ彼女の自尊心を蝕んでしまう効果をもたらしていた。
僕が語学学校での一年を終え、大学院入学の許可も得て、オーストラリア留学の最初のステップの成就を見た1985年の末のことだった。
まずここで、少々詳細に触れておきたいのだが、僕がこうして入学許可をえた西オーストラリア大学は、西オーストラリア州で最古の、もっとも伝統と権威を誇る大学である。ちなみに、パースで
「The uni」 と言えば幾つもの大学の中で同大学を指した。それに、同大学のキャンパスは、パース市がそれを囲むようにして広がっている湖のほとりに位置し、深々とした樹木に囲まれたもろもろの建物は古式に統一された意匠が施され、その木々の間を放し飼いの孔雀が優雅に散策するという、まさしく公園のような環境を成していた。そこを訪れた人なら誰しも、一度はそこで学んでみたくなる、そうした優れた雰囲気に包まれていた。僕もそうしてその大学の学生となってからは、たとえば、その中央図書館の、窓を通して絵のような風景の見渡せる最上階の一席をまるで自分の常席とし、あるいは、勉学のあい間その湖水に飛び込んでひと泳ぎするのを日課とするなどして、同大学ならではの学生生活を存分に享受したものだった。
そういう同大学に、はるばる日本から、しかも中年になってやってきた英語を最も苦手科目とする者が、一年余りの予備履修をへて、希望通りの入学を果したのであるから、その喜びも人並みではなく、それがまた
「小学生への退化」 をくぐるそれ相応の苦労の成果でもあっただけに、その達成感にはひとしおのものがあった。
加えて、そうした僕の同大学院への入学許可の通知と前後して、知人の薦めで、率直に言ってまったく期待はしないながら申請だけはしてみたオーストラリア政府支給の奨学金が、なんと
「授与する」 との決定を知らせてきたのであった。
僕にとって、その大学院への入学さえ――僕の日本での労働運動の経験を斟酌し、ことに、通常ならそれが条件にされる語学試験を免除した特別な許可だった――、オーストラリアならではの計らいと感心させられていた。それが、その上にこの奨学金の授与決定である。つまり、オーストラリア政府がそれを僕に与えるというのである。僕はこうした二重の僥倖に、喜びを通り越して、心底、驚かされた。そして思った。
「これは何を意味しているのだろうか。」
日本にいた頃、労働組合の仕事とは、肩身の狭さの体験ぬきにはできないことであった。ましてや、その労働運動の勉学に――入学したのが労使関係学という労・使双方を学ぶコースであったとしても――、一国の政府が奨学金を支給してまで援助することなど、僕にとっては到底ありえないことであった。それがオーストラリアの場合、現実に起こったのだ。 「所かわれば品かわる」 どころでなく、 「所かわれば天地もひっくり返る」 であった。むろん僕への支給決定理由を確認できたわけではない。だが、同国政府が、自国の最大の輸出先である日本に、ことさらな関心を寄せていたことは当然だろう。ちなみに、その奨学金を扱う 「豪日交流基金」 は、二国間関係に特定した政府出資団体だった。さらに、政権を奪還し、かっての労働運動リーダーが首相を務める――当時のホーク首相は全豪労働組合評議会の元委員長だった――オーストラリアで、その日本出身の稀有な労働運動経験者がオーストラリアの労使関係を学ぼうとしていることに何らかの支援を与えようとすることも、そうした労働党政権なら考えられないことではなかった。
つまり、そのようにして僕は、世界では他にも留学先は考えられた――アメリカは念頭になかったが、ヨーロッパやソ連は考えた――が、それらの中からオーストラリアを、しかもこの時期に選んだことに、ただの偶然とは言い切れない何かを感じざるをえなかった。
それは、今から思えば、僕の側の事態の煮詰まりといい、オーストラリア側の情勢といい、それを必然とは呼べないにせよ、両者が放置されていれば何も生まなかっただろうものが、僕の選択によってその両者が出会わされることで、そうした僥倖を引き出している――少なくともそのきっかけにはなっている――とは言えた。言うなれば、それは、僕の
「実験」 ならではの一成果と言えた。
最近になって発見した言葉だが、偶然な幸運に出会う能力をセレンディピティーというらしい。そういう意味では、こうした僥倖は、そのセレンディピティー現象のひとつと言えるかも知れない。
そういう僕の成果に、その足元から、思わぬ異議申し立てが入った。
というのは、目的としていた大学院入学の決定と共に、奨学金という思わぬ援軍獲得の知らせを、両親にも喜んでもらおうと手紙を書いた時のことだった。書き上がったその手紙を妻に見せると、それを読む彼女の表情がみるみる曇った。翌朝、僕の机の上に、次のようなメモが残されていた。
- あなたの両親へあてた手紙をよんで涙がとまりませんでした。そしてあなたの気分を害することなく私の気持ちを伝える方法を一晩中考えました。そしてこの方法をとりました。お父さん、お母さんに奨学金の明細をことこまかにつげなければならない義務と必要性があるのでしょうか。
(中略)
それから奨学金をことわることも考えました。できることなら、あなたと二人で生活していくにはその方がいいと。でも残念ながら、くやしいけれども、自信がありません。外国でお金をかせぐことのむずかしさを、いたいほど実感しています。なにより、もうつかれました。
その奨学金は、大学院授業料の免除とともに、研究および生活費の支給も含まれ、その総額は年に1万6千豪ドル、当時のレートでは約220万円 (今なら約100万円)
相当にもなり、それが二年間支給され、事情によっては三年間への延長も可能という。そしてそれは全額、返済の必要のない授与であった。この実に気前の良い奨学金により、僕らの経済事情は一挙に好転しようとしていた。つまり、それまで、持参資金からの持ち出しや妻の稼ぎに頼っていた諸支出項目が、その奨学金支給によってほとんどがカバーされ、それらに頼る必要がなくなろうとしていた。ちなみに、僕は結局、それを三年間にわたって受け取り、合計すれば当時で660万円相当にも達したのであった。
僕は、その彼女の手紙を読み、さすがにその気持ちがくめなかった。というのは、なによりも、その支給により、彼女をその割の合わぬ労苦から救い出せると思ったからだった。それに、これで僕の留学計画は資金的にも穴のないものとなり、その成功の可能性は高まったと考えていた。つまり、彼女の健康、留学資金計画、そのいずれにおいても、その奨学金支給は朗報中の朗報だった。まさに、僕の
“ビザ主” たる面目は天にも達しようとしていた。そして僕は、強く、それを受け取るべきだと彼女を説得した。
実は、この奨学金の問題は、今から思い浮かべても、僕らの留学計画に深刻なインパクトを与えたものであったことは間違いない。単純に考えれば、それなくして計画の成就はなかったかも知れない。仔細に考えても、奨学金を受け取らない場合の成功もありえなかったわけではないだろう。そして何よりも決定的なことは、その奨学金の登場によって、僕のオーストラリア旅立ちの目的が、本来のぼんやりとしたものから学位の習得というクリアーなものへと、眼がくらんでしまったかのごとき振れをもたらしたことだ。
そこでなのだが、そうした新環境に遭遇した際に僕が表した、興味深い反応が観測できる。というのは、当時、僕はこうした連続した成果に恵まれ、それに満足しきる自分に、ある種の違和を見出していた。当時のノートの12月26日付けの記述である。
- 今、私の体の内を、あるくすぐったさが頭をもたげている。
今まで何でもなかったただの書類が、言わば有価証券のそれにでも変じたかのように、何か私にとって重大な価値があるかのように感じられはじめている。
あるいは、ただの渦巻く自我意識の固まりだけであった内界が、突然に何物かによって価値づけられて、あたかも高価な値段を付された商品のように捨てがたい何ものかに変じようとしている。
これは実体ではない。一種の化構だ。トリックだ。まして信ずるに足る自己の内実とは、全く、無関係のものだ。
彼女は、きっと、働くことをやめはしないだろう。彼女は知っている、その実体が何物であるかを。だから、彼女は見失わない。
今、この表現に改めて接し、僕はこの記述を、その被験者である僕が表している極めて重要な反応と見る。すなわちそれは、そうした僥倖――という環境条件――を得たことに、僕の自意識が何を捉えていたかを表しているからである。そこには二種異なる反応があって、一つは、自身に値段が付けられること――たとえそれが大きな経済的恩恵であったにせよ――への違和感である。他は、妻は――僕に
“同伴” することで――自分に与えられた環境に、どこまでも真実味をもってのぞもうとしていることを認識していたことである。つまり、それらを合わせて、僕は確かにその時、自分のしたいとすることがそうしてあらぬ方向に向かおうとし始めていることを、感知はしていたようだ。
ともあれ、僕は今から振り返って、そうした僕自身の一連の行為全体を、自分自身に対する、そういう 「実験」 だったととらえている。言うなれば人生そのものも、その一刻々々が初体験であり、広義の
「実験」 とは言えなくもないのだが、やりっ放しに終わらしがちなその刻一刻を 「実験」 と呼んで、その再吟味をしてみたいのである。、
当時は、かく尋常ならぬ行為を始めていた時であり、そういう僕であったからこそ、年が明けた86年の1月、彼女から僕はこう言われたのだった。
- 「こじき」 になったり 「金持ち」 になったり、いつも追っかけていなくてはならない。
つまり、大振れする僕に、 「一体、どっちになりたいのよ」 、と言いたかったのだろう。
また、上にのべた、僕の二度目の 「酒断ち宣言」 の際に彼女が言った、 「とても冷たい人生」 とか 「作られ、変えられてきた私」 との表現も、そういう
「実験」 に引っ張り込まれている彼女にとっての正直な反応であり、その非常識さへの異議申し立てであったのだろう。
しつこいようだが、僕が過去のこうした行為を 「実験」 視できるのは、今だからこそだ。その当時にあっては、それを一つの 「試み」 とは考えていても、それが
「実験」 とまでは捉えていなかった。つまり、その 「実験」 に際し、それを計画しそれを命じている僕は僕によってさほど認識されておらず、大半の僕は実験されている被験者たる僕になり切っていた。つまりは、そのように、主客を明晰に分化させて見れているわけではなかった。だが、今や、それをこうして
「実験」 視でき、当時の自分をそういう環境に放り込み、自分自身を探知器化させ、それがその環境にどう反応したか、そうしたその実験の一部始終を、今ならここに、こうして見渡せている。
そういう意味で、木ではなく森を見ているのだが、ここで言えるのは、やはりこの奨学金問題が告げているのは、金の魔術には引っ掛かり安い、ということだろう。それがあたかもゴールのように見えてしまうのだ。
つづき
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