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連載
僕はかくしてその伝統誇る西オーストラリア大学――たとえば、当時のホーク首相は同学卒だった――の大学院生となり、留学計画の順調な進展にひと満足はしていた。だが、そうしていよいよ、人生で初めての大学院コース――しかも、これまでの工科系の人生前半から転じ、人文科系の後半への鞍替えを意味する――を、なおかつ外国語で学ぶという、その多岐に未踏な領域への立ち入りに、内心、不安と緊張にとらわれ、そうした満足感にひたる余裕など、さらさら残っていなかった。
その一方、僕の進展の順調さに逆行するように、妻の心理は沈みがちな様子を見せていた。それまで、僕ら両輪は、同じとは言えないまでも、互いにギャップを埋め合わせ、助け合いながら、曲りなりにも共に回ってきていた。だが、そうして、互いに別々の役割を背負い、加えて、二人の共の努力の、その結果の実りであるはずものが、あたかも独りばかりに集中し、しかもそれが顧みられず当然視されかねないような事の成り行きに、彼女は、その役回りの悪さ――少なくともそれへの疑問――を抱きはじめていたようだ。ことに、事の順調な進展とそれを満身で受け止められない自分との板挟み感に苛まれ、彼女の気持をますます暗くさせていたのだろうと僕は思う。
ただ、当時の僕は、自分のいよいよの本道に踏み出しつつも、彼女に現れはじめたそうしたふさぎ具合が大いに気がかりとなっていた。ことに、オーストラリア到着以来、彼女には、日本時代には見られなかった気力の回復が感じられ、それは留学実行の共の成果であると僕は考えていた。そうであっただけに、彼女の健康状態のかげり、ことにその精神的な落ち込みが見られることは、そんな楽観が誤りであるどころか、またしてもの病気のぶり返しかとも懸念させられていた。
それは、僕の大学院開始を直前にした二月始めのことだった。彼女がふと、 「もういちど 『智恵子抄』 を読んでみたい」 ともらしたことがあった。
この 「もういちど」 とは、日本時代、彼女がまだ職業病からの回復も浅く精神的にも安定していなかった頃、 『智恵子抄』 を熱心に読んでいた時期があったからだ。僕はそれを彼女に確認したわけではなかったが、彼女はその時、その智恵子――気をふれさせて世を去ったその純度高い自然さ――に、自分の何かを重ね合わせて読んでいるように見受けられた。そうしたその 『智恵子抄』 に、ここで再び、彼女の関心が向いているというのだ。
僕はその数日後、大学院の開始を前にして、早くも通い始めていた大学の図書館にいた。大学はまだ夏休み中で、館内は閑散としていたが、かえって落ち着ける静けさがあった。その図書館の定期刊行物セクションで、日本から到着したばかりの日遅れの新聞を読んでいた。その時、
『朝日』 (86年2月10日付) に掲載されている一つの記事に目がとまった。それは全く偶然の遭遇であったのだが、 『智恵子抄』 に新解釈を与えているある若手女流批評家についてのコラム記事だった。
- 高村光太郎と、智恵子の愛の伝説にあえて、異議を唱える。ともに古い役割分担意識の枠を超え得ず自滅に向かった女、無意識のうちに妻の自己実現の可能性をおしつぶした男。
『智恵子抄』 は二人の愛の墓標である・・・
昭和六年以降、智恵子は精神の均衡を失って狂気への道をたどる。 「私には、夫とのかっとうを自ら避けて自己実現の欲求を抑えつけた智恵子に、どうしようもなく現われてきた空虚といらだちの果てではなかたったかと思えてならないのです」
・・・
狂った智恵子に無垢を見ていた夫の愛を否定はしない。ただ、女性の側からの事象の見直しが始まった時代を生きる研究者にとって、光太郎はまさに、智恵子の自我を狩ったのである。
僕は、偶然とはいえ、そうして出会った同じ 『智恵子抄』 への改めての接し方に、冷やっとしたものが背筋をよぎる、ひとつの共通性を類推していた。ひょっとすると、この光太郎は僕のことで、一人の女を
「自滅」 に追い込んでいるのかもしれない。妻の落ち込みは、その前兆なのかも知れない。
ただ、今、あらためてこの記事を読み直すと、当時ならではの時代の匂いを感じるし、その女流批評家の我田引水の度が強い気もしないではない。また、その
「夫とのかっとうを自ら避け」 ようとしたのは共通していたとしても、その役割分担関係という面では、いわゆる 「新」 「旧」 が逆であったのではないだろうか、とも思う。というのは、そうした役割の位置関係で言えば、妻はそれまでも、
「私は古い女です」 とよく言っており、自分がどんなに多忙でも、僕が台所へ立ち入ることを嫌っていた。そういう意味では、この批評家の言う 「古い役割分担意識」
を彼女に命じていたのは、彼女自身だったかも知れない。僕は、むしろ、そこにとどまっていたい彼女を、異なった場――ある意味では 「新しい」 世界――に常に引っ張り出そうとしていた。そういう意味では、僕が妻の
「自我の狩り取り」 を行っていなかったとは断言できないのは確かでも、それは、逆方向の 「狩り取り」 であったのではないか。
今となっては、この記事に触発された結果であったのかどうか、定かには思い出せないのだが、その頃、いずれにしても、そうして自分にあった一種の罪意識から、僕は彼女に、
「大学院なぞブン投げて帰ってもいいんだぞ」 と提案してみたことがあった。
そこでの彼女の返答は、 「わたしはいつもあなたの足をひっぱっている」 であった。
それに、彼女自身も、しだいにオーストラリアに馴染み、もはや日本に戻ることをあまり考えていない様子もうかがえ始めていた。
こうして、僕らの車輪は、それまでと同じように一対の双輪ではあったが、地面との接し方という意味では、時には、相違った回り方を見せようとしていた。
つづき
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