「両生空間」 もくじへ
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連載
1996年、僕らの両目標達成を待っていたかのように、オーストラリアの政治環境が変わった。
この年の末に行われた総選挙で、それまで13年間におよんだ与党労働党が大敗し、自由・国民党連合が政権に返り咲いた。当然、それまでの “労働者寄り”
の政策は転換され、新自由主義イデオロギーに基づく “ビジネス寄り” の諸政策が開始された。
ちなみに考えるのだが、僕は、12年間のオーストラリア 「導入期」 がこの13年間と重なっていたのは幸運だったと思う。もし僕がこの政権交代以降にオーストラリアに留学してきていたなら、僕がオーストラリア政府の奨学金を得ることは多分なかっただろうし、学ぶ環境も大きく異なっていたと思う。実際、12年前に、留学先をオーストラリアに決めた理由のひとつに
「労働党政権の復帰」 があったのは確かだし、陰に陽に、政権がいずれにあるかが、個人の人生に少なくない影響を与える国がオーストラリアであったとの体験をさせてもらってきた。事実上、無政権交代の国である日本からでは、この政治感覚や実益は感じ取りにくいだろう。そういう意味では、「所変われば品変わる」
というのは確かだし、国を変えてみることの意味も生ずることとなる。
ともあれ、現実に生じた僕の身辺でのその第一の影響は、エイブたちと始めていた会社の言わばお得意先であるTUTA (労働組合員教育機関) が、政府の外郭団体としての地位から外され、一民間団体に改組されたことだった。つまり、それまでの政府による財政援助は打ち切られ、営利目的はないものの、運営資金捻出のための金稼ぎに奔走せねばならなくなった。手短に言えば、TUTAは民営化された労使関係コンサルタントに衣替えした。むろん、その下請けである我々の会社も、同様な運命のもとにあった。
同時に、政府の労使関係政策も天地が逆転し、労使関係問題は理念的に経営特権上の事項とされ、そこに産業別労組や政府機関などの介入もあるべきではないとされた。そして、労使関係分野の法律規制も大きく緩和されて、雇用は競争と効率本位の環境にさらされるものとなった。ことに、労働市場の弾性化として労働者派遣業が自由化され、それまでむしろ労働組合が関与していたこの分野が、新たにビジネス活動の対象、つまり
「商機」 となった。
このようにして、労働組合にとってはいわば
“厳冬期”
が訪れ、やがて労働組合員数も激減して行く。
こうした時流の中で、一部ではあるが、それまで労働組合員への奉仕を標ぼうしていたはずの労働組合幹部が労働者派遣業を始めるケースも現われ、奉仕の相手である労働者が金儲けの対象とされ、ビジネスマンとしての能力を大いに発揮する元労組幹部も出現した。いかにも、さもしい時代が到来していた。
こうした潮流のなかでも、相対的かつ微々たるものながら、いい仕事ができたのではないか、と思われる経験がある。
我われは、自分たちの会社設立以前の労働党政府の末期、日本の大手自動車メーカーM社のオーストラリア子会社で、その労働組合員教育に関わり始めていた。当時、政府は、労働組合運動を、従来の産業別なものから、もっときめの細かい企業別なものへと切り替えさせる政策を採り入れ、その下で、この企業内では、労働組合とビジネスの両方を理解し体系立てて知識を与える教育訓練がめざされていた。その役の一端を我われの会社の前身が担い始めていた。
自由・国民連合政府に政権が移った後も、我われの会社は、同子会社の労使双方からの信頼を維持できて、同社の労使関係の、言ってみれば “企業別化”
を促進するコンサルタント役を任されていた。
僕は大学院生の時、その授業で、同社が、労使関係政策の転換のモデルとして取り上げられているのに接し、それに強い関心を持っていた。同社がアメリカのカーメーカーC社の子会社の時代、その手荒い労務政策が原因で労使紛争が絶えず、生産性が地に落ち、赤字経営を抜け出せないでいた。それを、1980年に、この日本のM社が買収して子会社にした際、いわゆる
「日本式労使関係」 を持ち込み、その荒れた労使関係を整え、黒字化転換を成し遂げていた。それが授業でケーススタディーとして取り上げられていたのだった。だがそうした成功談からほぼ十年を経過し、時代は厳しい国際競争に入っており、さらなる生産性の向上が課題となっていた。
僕は大学院生としてこの事例を学びはしたが、まさか後になって、その当の現場に居合わすようになるとは夢にも予想していなかった。だが、当時それを学びつつ、日本での
「日本式労使関係」 の実体験者として、それが良い例として挙げられているのは結構なことなのだが、文化も歴史も違うオーストラリアの生産現場に、東洋の後発資本主義国に育ったそうした労務管理方式の移植が、果たしてどれほど可能なものなのか、ある疑問を抱いていた。案の定、オーストラリアの労働組合は、こうした
「日本式労使関係」 を、労働組合の御用組合化の産物として見る傾向があり、その導入に神経をとがらせていた。
手帳によると、1997年5月には、同子社の工場のある南オーストラリア州首都アデレードに一週間ほど出張し、数日間にわたるセミナーを行っている。この時のことだが、僕はその
“有名な” 現場に自ら出かけるいきさつとなり、自分に何ができるのか、相当なプレッシャーを感じていた。そこで思案のすえ、僕がなすべき使命は、労使関係における、日本式の調和的考え方と、オーストラリア式の対立的考え方の、その双方の良さを生かしてどう融合させるか、そこにしかないのではないかと考えた。もちろん、日本の親会社は、日本式の輸出を理想としていたようだが、それでは現場が納得しないのは明白だった。大げさだが、この歴史的課題をどううまく説明し理解してもらえるのか、僕の使命はそこにあると狙いを定めはしたのだが、しかし、その実行の容易でなさに考え込まさせられていた。そして、いつかどこかで読んだ子供向け逸話を思い出し、それを使ってみることにした。
工場の集会室でのセミナーの初日、「カエルとサソリ」
と題したそのプレゼンテーションを、僕は内心不安を抱きつつ、集まった数十人の職場代表の組合員たちに行った。皆それぞれに、いかにもつわものの面構えをしていた。カエルはその日本式の考え方を、サソリはそのオーストラリア式考え方を暗示していた。僕はへたな英語で、用意して行ったカエルとサソリのイラストをプロジェクターで映しつつ、こんなストリーを話した。
- ある日、一匹のサソリが川のほとりで困っていた。川の向こう側に渡りたいのだが、自分は泳げず、どうしようもない。そこに、一匹のカエルがやってきた。サソリはカエルに尋ねた。
「カエルさん、お願いがあるんだが、私をあなたの背中に乗せて、川の向こう側に渡してくれないかね」。しかし、カエルは即座にそれを断り、こう言った。
「あなたに刺されて死にたくないから、いやだね」。それに、サソリはさらにいっそう丁寧にお願いした。 「いや、絶対にあなたを刺さないと約束するから。それに、そんな馬鹿なことをしたら、自分も溺れ死にしてしまう」
。 「必ず約束を守るなら、渡してやってもいいが、本当だね」 とカエルは強く念を押した。サソリはさらに重ねて約束した。
- こうして、二匹が川の中ほどに来た時だった。サソリはやはり、だんだんと自分が抑えられなくなってきて、ついに、カエルを刺してしまった。カエルはその毒で動けなくなり、サソリは川の流れに放り出された。サソリは溺れつつ、こう、自分に繰り返していた。
「これが俺なんだ、これが自分なんだ、なんてことだ」。
話を終えると、会場はシーンと静まりかえっていた。僕は、こんな子供じみた話が、そうした手ごわいつわものたちに通用するものか、半信半疑だった。しかし、それは杞憂だった。効果は予想以上だった。
その後のプログラムで、我われは歴史や文化や世界情勢についての詳細なレクチャーをしたのだが、話はスムーズに理解された。セミナーは成功だった。
この後、この子会社は、熾烈な国際競争になんとか生き残って頑張りづづけ、その後十年以上操業を続ける。しかし、その後のいっそうのグローバリズムの進展で、2009年3月、親会社はその工場の閉鎖を断行する。
今になって思えば、僕は、この子会社の労使関係の変化とその後の生き残りに、少しは貢献できたのではないかと自負している。そして、そういう意味では、オーストラリア政府より授与された奨学金も、それなりにお返しができたのではないかと、心ひそかに考えている。
僕は、我われの会社を通し、日本とオーストラリアの異なった労使関係の橋渡し役として、このM社の子会社だけでなく、食品関係のS社の子会社でも、ことに生産管理という面からのコンサルタントを提供した。また、日本資本ではないが、アメリカ資本のシリアル会社の日本子会社やオーストラリア資本の建設会社など、いくつか違った産業にもたずさわりながら、僕なりの微役を果たしてきた積もりである。むろんそれは、僕個人で果たせた仕事では決してなく、会社の仲間のチームワークとしての産物である。この点は言明しておきたい。また他方、僕の東京、高円寺のマンションを改装してそれを東京事務所とし、会社の国際性の体裁を整えるために一役をかったりもした。
そうではあったが、日本経済はすでに 「停滞の十年」 に入っており、たとえば、一時はシドニーのビジネス街の主要物件の多くが日本資本によって所有されていたものが、潮が引くように、相次いで損失覚悟で売られていっていた。つまり、日本の繁栄のおこぼれにあずかれる余地は、もはや消え去ろうとしていたのだった。
こうした変遷に合わせて、我われの 「労使関係コンサルタント」 事業の顧客も、次第しだいに、時流である人材派遣業者が中心となり、仕事としてのダイナミズムを減じてゆく。僕個人としても、そうした金勘定至上の風潮に、ある行き詰まりを見い出さざるをえなくなって行く。と言うのは、僕としては、自分はビジネスの手腕を欠きながらも、人材派遣とはやはり
“人貸し業” に過ぎないと見ざるを得ず、それに、もはやこの分野では、文化や歴史の差などは無視に足る誤差のようなものだった。そして、マーケットとしての過不足が問題とされているのみで、自分の出る幕はなくなり始めていると感じていた。
僕は、こうして一連の “使命的な” 仕事にたずさわりえてきたのだが、それが決して自分ひとりで成し得たことではなかったこととも絡んで、いつも頭から離れなかったことがある。
それにはまず、ひとつのエピソードから始めたい。それは、この仕事を始めてまだ早い時期、ある大学から招かれて、レクチャーをした時の話である。僕とエイブの二人ででかけて行ったのだが、我われを招いた担当者と面会したところ、その人がなにやら意味のある笑みを浮かべて我われを迎えた。そして、目的のレクチャーを終え、食事をしながらの歓談となった際、その笑みの意味が明かされた。その人は、オージーと日本人が来るということで、大柄なオージーと小柄な日本人のコンビを暗黙に想定していたらしい。それが、その逆の組み合わせのコンビが現われたのが、自分として、なんともおかしかったのだという。僕は180センチの身長があり日本人ことにこの年齢では長身だが、エイブは10センチほど背が低い。
確かに、僕とエイブの組み合わせは、外見としては一般的な予想を裏切るものはある。しかし二人のタイプ、ことにその内面においては、それが必ずしも日本人とオージーの違いというわけではないが、二人には対照的な得意、不得意がある。つまり、僕は、自分に事業や商売の才能があるとは思ったこともないほどに不向きなのに対し、エイブのその巧みな才には驚かされるものがある。それは、まさに彼がユダヤ人の血を引いているがゆえだと解った風にに表現できなくもないのだが、ことはそう単純に断言できるものではない。
ともあれ、会社において、事業を組み立てて行く必要と実務において、僕は彼に多くを負い、依頼してきている。おそらく、 「多く」 どころではないだろう。ことに、金銭をめぐる交渉にあっては、それが仮に日本語によるやり取りであったとしても、そこに僕の出番はないに等しい。そういう抜きんでた駆引きの才が彼にはある。少なくとも、僕にはそう受け止められる。
たとえば、お金の扱い――文字通りの手によるお札の扱い方――の話だが、彼が紙幣を扱う際、まるで手品師がカードを巧みに扱うように、いかにもスマートに扱って見せることがある。僕は、日本人で、お札をそのようにまるで玩具のように扱う人を見たことがない。これは僕の身内での経験だが、僕の家庭では、お金はたくさんの人の手を渡ってきていて汚いものだからと言って、むしろ、子供たちにそれを親しげに触らせるようなことはさせなかった。むろん、玩具にすることなどご法度だった。つまり、紙幣の扱い方ひとつにしても、僕と彼の間には、手にとっての慣れ親しみ方においてすら、それほどの違いとなっている。
これもエピソードだが、彼ともう一人の同僚との三人で、国際関係の現地見聞ということで、成長を始めた中国を旅した際のことだ。
西安の博物館を訪れた時だった。見学を終えて館内の土産品売り場に行った。さすがシルクロード東端の古都西安だけに、魅力的な骨董品が、しかも公立博物館ということで、鑑定付きかつ比較的安価で、所狭しと陳列されていた。そこで三人がめぼしいものを品定めした後、いよいよ値切り交渉となった。こういう場では、交渉下手な僕がやっても、強気をよそおって半額ほどの買値を提示して、せいぜい二割引きくらいで終わるのが常だった。それが、彼が乗り出して交渉をまとめると、なんとなんと、三人ともの品々が、いずれも三分の一ほどの値段にまで値切られてしまったのだった。それも、したたかな本場中国商人を相手にである。傍で見ていて、その駆け引きの巧みさに僕は目を見張らされた。
「定価売買」 などという単純な慣行に馴染まされた日本人に、とてもこなせる技ではない。
ちなみに、そこで垣間見た彼の交渉のこつの僕なりの理解は、まず、三人がばらばらに交渉するのではなく彼がひとりで三人分をまとめ買いする形にすることと、携帯電話で誰かに相談するふり (本当だったかも知れない) をしたり、元表示を米ドル表示で幾らかと尋ねたりまたその逆を求めたりするなどして、交渉を揺さぶり複雑にして相手の頭を混乱させることにあるようだった。いずれにせよ、その主導権を常にこちらが維持していなければ話にもならない。そうした頭のシャープさなくして出来る芸当ではない。しかも、相手を構えさせない、笑顔を絶やさない親しみあふれるかのやり取りを通して。
エイブが、日本を主題にテッドとの共著で本を書いたことは先に述べた。そして、ビジネスとしても、日本に絡んだ事業を主体に携わってきていた。また彼は、英訳版を通してだが、日本の文学についての読書量もゆたかで、その中には僕が読んでもいない作品も多い。つまり、彼にとって、日本は、あまたある諸外国の中から、ことさらに選択できる対象であるようだ。
たとえば、ほとんど毎年、彼は日本を訪ね、主だった名所旧跡をおとずれている。最近も、屋久島に行き、幸運にもその屋久島で晴天に恵まれ、感動してもどってきた。そこで彼がことに印象付けられたことは、島の自然もさることながら、日本人の他者への穏やかな信頼だという。たとえば、屋久島の宿屋を予約する際、日程と名前、連絡先をつげるだけで、予約金も要求されないで予約が成立する、そうした慣行の素晴らしさだという。オーストラリアだったら、あらかじめ払い込んだ手付金なくしては予約は無効だ。そうした、疑うことを前提としない人と人との信頼関係が、現代のこの世の中でも実行されている、そういう世界が実存していることだという。しかも、それが、いわゆる後進国にではなく、日本という先進国のひとつに存在していることだという。
僕にとって、そうした慣行は、空気のように当たり前のことで、いちいち感動するほどのことではない。つまり、彼にとって、そうした事々はひとつの 「無いものねだり」
なのだ。
彼の交渉上手は、まさに、相手をやすやすとは信用しないその周到さに基づく、容赦のない緻密な駆け引きにある。逆に、僕が交渉がおっくうで不得意なのは、適当なところで相手を信用して丸く収めたくなってしまうからだ。疑いつくす非情さに疲れてしまうからだ。彼のそういう人となりは、人をたやすくは信用せず、その確証をしたたかに求める慣行や文化にその所以があるのだろう。だからこそ、そうでない人々やその社会に魅力を見出し、それに触れて感激する。その
「無いものねだり」 が、日本への関心を生んでいる。 そういう意味では、僕のオーストラリアへの関心も、反転した 「無いものねだり」 と言える。つまり、僕とエイブの接点の深部にあるものは、片やにあるものが他方にはなく、またその逆も真で、互いに自己に欠くものを求めているという関係があることだ。
しからば、この相互 「無いものねだり」 は一体何を意味するのだろう。この相互性は、いろいろなことを意味していそうだ。それに、エイブと僕がオーストラリアと日本を代表してはいないことはむろん確かだが、そこに、オーストラリアと日本の、ひょっとすると西洋と東洋の、ある原型的な関係が潜んでいるかも知れない。
また、こうした二者間のギャップには、他方、一種の居心地の悪さがあるのも事実である。一緒に仕事を始めた当初、彼が僕の能力を過大評価している誤解があるのではないかといく度も感じ、一度ならず、僕はエイブにそう訴えたことがあった。その度、彼は解ったような様子で聞いていた。だが、だからといって、彼の僕への態度が改まったことはなかった。むしろ、時間の経過とともに、二人の間に、あるあうんの呼吸が出来てきた。ただ、そうであったとしても、僕は自分で意固地だとは思うのだが、そこにひとつのしこりを感じてしまうものがあるのだ。
僕は、ビジネスという自分の存在方法の実践において、この自分の他者への依頼関係に、現実的にはやむを得ないと思うことと、それでも自立を目指せと思うこととの間を揺れ動いてきた。 「ビジネスと友情を混ぜ合わすな」 との忠告もどこかで聞いた。ただ、この揺れ動きは、彼に疑いを持つというのでは毛頭なく、自分の依拠心が不甲斐なく、全体性を欠くという僕自身の問題なのである。
この、互いの 「無いものねだり」 と、そうであるがゆえの協力関係により、現実的には互いの補完関係が成立し、必要かつ有効なものとはなっている。他方、僕自身の全体性という一種哲学的な観点からは、この依存関係はいかにも居心地が悪く、どこかに出口を求めたい問題である。
「ダブルサクセス」 を達成し、オーストラリアでの真の生活を始めて、その体験から生じてきている産物のひとつが、このようにして、エイブとの関係を通して遭遇している、この、現実的には補完、哲学的には全体性を欠くという、どこか
“人間” 的な課題である。
これはむろん、単なる個人間の性格差の問題を越えたものであるだろうし、また、僕の取り組む人生の 「実験」 とも絡んでいる。
つづく
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