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 連載

相互邂逅 第三部




 我われの会社は、オーストラリアと日本を拠点に、アジア各国を多国籍にビジネス展開する企業に、最新かつ詳細な現地事情とその分析を提供することを旨としていた。
 アジア各国の訪問も、そうした現地調査を兼ねていたし、むろんそれぞれの現地では、客先の現地事務所を訪ねたり、現地企業や政府の関係者と面会したりもした。ただ、そうした行動がビジネスとして直接に役立にはまだ時期尚早で、それら一連の行動は、将来への種まきとなるはずのものであった。
 しかし、情勢は運悪く流れ、97年のアジア金融危機、さらには、日本の不景気の長期化とも重なり、アジア云々どころではなくなろうとしていた。さらには、90年代の末を迎えるころには、オーストラリアから撤退する日本企業も相次ぎ、日本絡みの仕事も、かろうじてながら自動車のM社、食品のS社を除けたものの、他には期待できなくなる状況となっていった。
 他方、1996年末の保守政権への移行を契機に、オーストラリアのビジネス環境、ことに労使関係ビジネスの枠組みが大きく変わり、いわゆる労働市場の自由化の時代が到来しようとしていた。そして、我われが大きく依拠していた労使協議し合う機会や制度は、市場メカニズムに置き換えられようとしており、労使の問題は、市場における労働力の需給変動の問題として、人材派遣ビジネスに置き換えられようとしていた。

 日本と比較して、オーストラリア社会の変化は、はるかに速い。
 イギリス譲りの二大政党制が機能していて、そうした変化をリードし、演出する。
 僕が来豪以来に経験した間でも、自由党系の政府と、労働党の政府が、およそ十年少々で交代した。むろん、それは総選挙の結果で、そういう意味では、それを国民が選択しているということになる。日本の感覚で言えば、政治的天地がひっくり返るような変化が、このようにほぼ十年ごとに起こった。そして、その結果がもたらす身の回りの変化に、人々も柔軟に適応しているかに見える。言い換えれば、そうした変化に不満な人は、次の政権交代に望みをかけ、社会の風向きの変わるのを虎視眈々と見つめることとなる。
 これは、MIR (労使関係学大学院) 時代に気付いたことだが、ことに労使関係方面の法律をよく見ると、その個々の条項に、自由、労働の両党によるそれぞれ逆方向の改正が働きかけられた結果が読みとれ、法的効果として行ったり来たりの足跡が見られる。法律的にも、制度的にも、オーストラリアの現行システムは、一世紀以上にわたるそうした綱引き運動の結果であり、今もその運動は行われている。そういう意味で、オーストラリアには政治的ダイナミズムが確かに働いている。むろん、オーストラリアだけという意味ではないが。
 政治慣行上でも、二大政党制が定着すれば、野党は常に 「次」 の政府を準備し、その首脳陣は 「影の内閣」 を形成することとなる。そして時には屁理屈とも見えるようなものも含め、独自の対案を執拗に表明し続ける。つまり、有権者にとっては、別の選択肢が提示される。また、何らかの国家的行事に際しても、そうした 「影の」 立場が与えられている。たとえば、誰か国賓を迎えた際、野党々首も 「影の首相」 として、その式典に座が確保されている。
 そうした政治環境も影響していると思うのだが、オーストラリア庶民の生き方は、多分に機会主義的で、身変わりが早い。日本人、というより僕の目から見れば、それはけっこうご都合主義的で無原則とも映る。ただ、そうでもしなければ、世の中の流れに置き去りにされることとなる。
 加えて、 「機会主義的」 か 「ご都合主義的」 かとの呼び方はともかくとして、そうした柔軟な適応の仕方自体にも、オーストラリア的なところがある。全体としては、そのように変化に敏感に適応するのであるが、日本のように、一斉に右にならえ、ということにはならない。一人ひとりの対応が、けっこう個々まちまちで、それぞれな生き方を選んでいるように思える。だから、その結果に起こる個々人の間の差もその幅が広く、そうとう極端な生き方をしている人も少なくないように見受けられる。また、社会も、そうした 「極端」 にどこか寛容で、いわば、法に触れさえしなければ、どうぞご勝手に――どころか、創造性のよりどころとも見られている様子もあるし、他方、冷たく放置している面もある――、という姿勢である。
 オーストラリアでは、自分の会社が倒産しても事故をおこしても、あるいは、自分の家族が犯罪を犯しても、その当事者が、 「ご迷惑をおかけしました」 と神妙に頭を下げるシーンなどはまず見られない。そもそも、そういう意味での 「迷惑」 という言葉も、心理もない。日本からのニュースが伝えられる時でも、問題を起こした企業幹部陣がそろえて頭を下げるシーンを、 「日本的儀式」 と報じて、どこか、からかい風だ。むろん、日豪共にそんな企業幹部にずるさは共通するものの、そうした形での責任の取り方は見られない。失敗を犯したオーストラリアの企業幹部は、明解に、監獄生活をさせられる。

 我われの会社については、ビジネス環境の変化やアジア経済の停滞により、当初の狙いは、早くも行き詰まり始めていた。そこで、そうしたオーストラリア的柔軟性が発揮されたのだが、その自由化に合わせて、労働市場の戦略と解決法を提供することを旨とする第二の会社を作った。いわば、労働力つまり人間という商品が売買される労働市場の先読みとその適用実務の提供である。ただ、そうなると、仕事の中心はもはやオーストラリアのローカルな知識と人脈に置かれざるをえない。日本絡みの経験の出番はそこにはない。それに、どこか観念的な固執をもつ僕は、人間の商品化そのものを商機とするそうしたビジネスにどうしても真剣になれなかった。そういう次第で、この第二の会社とは、しだいに距離を置くこととなった。
 そのようにして、経済的にも仕事の選択としても、僕の対応する領域は縮小していった。そして、さらにいっそう自分を追い込むようにして、2003年、自分の会社を設立した。成功する予感はいささかもなかったのだが、自身の考えとその納得に立とうとする限り、そう進んでゆくしか道はなかった。
 その個人会社は、日本の団塊世代が大勢としてリタイアに入り始める時期に、二年ほど先立った当時のタイミングをねらい、オーストラリアへの移住や長期滞在の希望を持つ退職者へのいろいろなサービスを提供する趣旨のものだった。独自のウエブサイトを立ち上げてそれを宣伝の主媒体とし、また、日本に度々出張して、旅行会社や関連する団体にプロモートした。オーストラリア政府の出先機関を活用もした。
 そうした努力の甲斐あって、最初の一年ほどは、問い合わせや引き合いも結構あって、少ないながら、実際に顧客を獲得することもできた。ただし、事業が黒字になるには程遠く、内実は、自前の運転資金がいつまでもつかの問題にさらされていた。
 それでも、、こうした些細な試みがなんとか転がり始めたと思える頃、大波が僕のビジネスを襲った。日本の大手の旅行会社が、このビジネス分野に参画し始めたからだった。各社がそれ専門の部門を設立し、本格的な取り組みと宣伝を始めた。そうなると、もはや勝負は決まったも同然だった。僕の会社のような無名のものを頼ってくる人はいなかった。そして時間の問題として、資金の枯渇に至っていた。

 そんな頃、僕には、そうした自分のビジネスの至り行きを、必ずしも歓迎していたわけでは勿論ないが、どこか、来るべきものが来るのを待ちうけているような、それを受容する自分があった。それは、開き直りあるいは理由作りなのかもしれなかったが、やることはやり、手を尽くした結果がそれなのだと、内心、それこそが自分にとっての正解なのだとでも主張できる気分があった。言い換えれば、そのようにして、あたかも消去算式に、自分に不向きな部分をそぎ落とし、コア部分を選り分けていた。
 ただし、そうして至った自分らしき領域とは、いってみれば 「自滅路線」 も同然で、少なくとも、他からの理解が得られるようなものではななかった。
 つまり、僕は、そうして幾つかの角度で自分の見栄や当面の必要すらも潰し去り、演繹された気負いそのものと化していた。苦労して手に入れたはずの学位も、その場に至っては、固執に足る持ち物でもなくなっていた。思い起こせば、初めて仕事を辞める決心をした二十代の自分の思いつめた決心と、どこか通底し合うものがあった。そして、いよいよ、とどの詰まりがやってくるのか、 「来るなら来てみろ」 と、覚悟めいた意識にも捕われていた。
 そうして、僕が続けてきた 「実験」 は、現世的には 「失敗」 の憂き目、実験プロセス的には決定的な 「変曲点」 に到達しようとしていた。
 そうした折、シドニーでの僕の独居生活に同伴するようになり、もう数年にわたり僕の暮らしを身近で目撃してきた同居人より、涙ながらに、 「何とかしてほしい」 との訴えがあった。
 それと同時に、そうして至り着いた結末を、自分でも、何かさばさばとした気持ちで受け止めるものがあった。何と言うのだろう、生きて行くことにまつわるうさんくさい表層が剥ぎ取られたような、いよいよこれで、何でもできるなとでもいった、自分の原点に回帰するような気持ちだった。
 僕はその時、59歳、還暦まで、あと一年の年廻りとなっていた。その、東洋的な人生上の節目感覚も、僕に、何かの 「パラダイム変化」 を促すものがあった。
 それまで、精神的にも物質的にも、前進や成長、ある意味では肥大を遂げてきた自分の人生だったが、もう、その線的な延長を図る気持ちはなくなっていた。

 つづく
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