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連載
自分の居所を、どこかに作りたくなったのはこの頃だった。
と言うより、どこかに居場所を作らなくては、自分の立つ瀬がなかった。
二十代の時は、それはノートだった。それから三十数年を経て、今度のその場も、何かを書く場であった。ただ、ひとつ、違っているところがあった。昔の場は、公表を前提としない自分だけの場であったが、今度の場は、特殊な方式ながら、一種の出版のかたちを伴っていた。
その頃、自分の会社のPRをウェブサイトを中心にしていたことがあって、ウェブの世界が、ある意味で現実の世界となっていた。いわゆる 「バーチャル現実」
の世界である。そして、何かの直観のようなものが働いて、その 「バーチャル世界」 が自分にとって最適な居場所なのではないかと思えた。そして、自分のウェブサイトの中に、
『両生空間』 というサブサイトを作った。2005年の8月、自分の59歳の誕生日にも絡めてのことだった。
「両生」 とは、自分のビジネスの謳い文句に、オーストラリアでのリタイア生活を、 「 『両生類クラブ』 への仲間入り」 として売り込んでいた、その
「両生」 を発展させたものだった。
しかし、この 『両生空間』 の創設は、自分の人生路として取り組んできた日豪間の地理的移動に、なかば重心をすえつつ、そういう 「地理的両生性」
に、想念的重心をさらに加えるという発想だった。つまり、自分が体験してきた地理的移動による 「両生生活」 に、何か哲学的、思想的意味が見出せそうな予感を実体化させたものが
『両生空間』 という場だった。そしてその予感の対象を 「両生学」 と呼んで、さまざまな角度から、その内容を探ったりもした。
そうした、新たに設けられた部屋とも言うべき 『両生空間』 だったが、むろんそれは虚構の世界であり、その道の言い方でも、 「バーチャル現実」 に過ぎない。しかし、架空でも、そしてそうだから、こうして創り出された新たな存在の場のお陰で、僕は、第二の命を得た。というのは、さまざまな限界に拘束される現実をひとつの世界とし、それに加える、この確かに存在する 「空間」 を得たことで、新たに、そういうメタ次元にわたる 「両生」 界を見つけたことだった。言い換えれば、それは、自分の身体界と精神界にまたがる 「両生」 とも言えた。僕は、そうしたいとおしい自分の身体性を一方に、それとまぎれもなく共存する、自己たる精神性の場を改めて発見し、確かに、生き返った。そしてそれが、僕の還暦と時期的に重なろうともしていた。僕の取り組んできた 「実験」 は、そのようにして、次元の枠を越える 「変曲点」 を通過していた。
ゆえに、僕は還暦以降を、 「人生二周目」 と呼ぶことができた。自分を捕えて離さなかったある “憑きもの” が降りた感じだった。解放された気持ちだった。
そうしたさばさばとした気持ちの中で、僕は 「おんぼろアパート」 に引越しをし、自分の生活スタイルを質素化した。そして、新たな職に就いた。寿司職人の見習いの仕事だった。そこでの僕にとって、職人業に自分自身を任せてゆくことも、いとも自然な選択であり、発展だった。つまり、
「両生類」 たる自分をあるがままに反映させ、毎日の午前中を精神界つまり 「両生空間」 にひたらせ、午後を身体界に委ねる職人見習いの生活だった。幸い、この午後の取り組みは、ささやか程度ながら生活費を生みだしてくれるばかりでなく、心身の老朽を和らげてくれるかの身辺の活性化をももたらしてくれた。さらには、エイブたちとのビジネスも、必ずしもそれにすがらなければならないものではなくなり、求められる時に応えられる仕方に限って、それに従事することができるようになった。
また、この寿司シェフという職人業は、オーストラリアという外道の地で、見習い修行から始めるものだったが、以来、もう三年を越える経験を積むまでになった。ついでながら、この職人業とは、よく言われる
「体で技を覚える」 もので、まさに身体性の世界である。しかもそれが、資本主義的雇用関係以前の、労働の原点の在り方を今も残す伝統職種である。興味深い世界である。人生の
「一周目」 で、さんざんにこの資本主義的雇用関係に悩まされてきたものにとって、その 「二周目」 においてこうした原点に帰って行くことは、ある意味では、すがすがしい要素をもたらしてくれるものとなった。むろん、現実の仕事としてのざわつきを伴うのは言うまでもない。
こうして、 「両生空間」 という生の装置を編み出したのではあるが、そこにも限界がある。つまり、そうして、自分の人生の新次元の 「両生性」 を追いかけることが出来てはいるのだが、この文章が日本語でつづられていることが明示しているように、それは、表現手段としては、日本語内の世界である。つまり、
「両生性」 の原点である地理的移動が、言葉の壁を克服する必要があったように、本来なら、この 「両生性」 は、言語上も 「両生性」 ――ひとことで言えば
「バイリンガル」 力――を伴わなければならないはずのものである。しかし、自分の 「第二言語」 にまつわる技量は余りに貧しい。だから、僕は確かにそれを意識して、この
「両生空間」 の英語版の出版も試み始めてはいる。しかし、僕の表現が、日英両方向に、遜色ないレベルに達している事実などまるでない。まして自分がバイリンガルなどとは、口が裂けても言えるものではない。英語版の出版など、明らかに、児戯的試みである。
こうした言語上の限界をまずもって、先に 「語境」 という新語を作ったのだが、僕は、この造語をもって、単なる言語問題としての境界以上の何かに触れたいと思う。
これは、自分の語学的な力不足による、一種の妬みかとも思うのだが、深い人格的発展を伴ったバイリンガルが、果たしてあり得るものなのかと、どこか疑問視したくなっている。というのは、人の思考は、いずれかの言語を用いた自己内会話を通じて深められ、そういう意味では、自我の発達も、そうした言語上の発達とも歩みを共にしていると考えられる。つまり、バイリンガルという二つの言語をまたいで自分の能力的資源を分散させた場合、自我や人格の発達という意味で、バイリンガル者は、それも分散させられ、虻蜂取らずに終わるのではないか、と思われるからだ。従って、バイリンガルといっても、せいぜい、実用上程度の能力のみをもって両用できるほどのレベルを越えられないのではないか、とも考えたりもしている。言ってみれば、半分の人的深さが二つの言語を通じて表現されるものなのではないかと。
むろん、これは僕の誤解だろう。二つの言語をあやつると深い人的発展がありえないなどと、どうして言えるのか。むしろ、複数の言語環境に根差す、複眼的な人格発展は、僕の移動体験からも、あるいはそれ以上に、バエさんの被植民地体験からも、類推できるものではないのか。
しかし、一般論としてはそうなのだが、自分の体験から、自分を形成するのは、唯一の言語体系――僕の場合は日本語――を通じてのもので、言葉としての英語はあくまでも脇役だ。
つまり、ひっくるめて言えば、生まれ育った環境の産物であるはずの言語特性――たとえ単独言語だろうが複数言語だろうが――と無関係の自我や人格はあり得ないはずで、僕の言う
「語境」 とは、そうした言語特性によって規定される、 「人境」 とか 「自境」 とかとも言い換え可能な、人や個人のもつ限界性、特殊性、逆に言えば、人々の多様性を示唆するものである。だとすると、理想的なバイリンガルであったとしても、それは、単独言語による
「語境」 が二言語による 「語境」 に増しただけのことで、 「語境」 そのものが働いていることには変わらない。世界の全言語に通じるようにならない限りは。
僕の場合は、37歳まで日本語を所与環境とし、それを基盤に自我を発達させ、そこに、遅まきながら英語という選択環境を付け加えた。そこに、言語能力上のアンバランスが生じたとしても、それは余りに当然なことだ。つまり、僕の場合、たとえオーストラリアに帰化して国籍的に日本人ではなくなったとしても、日本“語”人であることには変わりない。そして、ここで言う
「日本語人」 とは、在日“朝鮮”人作家である金石範氏が言うところの、日本文学に対置する 「日本語文学」 ――日本語で書かれてはいるが、いわゆる日本人性に包摂されるものではない――という脈絡においてのものである。
そういう 「日本語人」 であることから抜けられない僕なのだが、それでも、37年間の日本環境に、25年間のオーストラリア環境を付加した複合環境を経験してきている。つまり、僕の日本語人性も、これだけの長さのオーストラリア環境による非日本語人性を持てば、それによって影響される部分も、それだけ増しているということだ。
すなわち、こうして書きつづっている日本語も、通用上、もはや純正な日本語ではない、異化した日本語となっているものと思う。それは、文法的な日本語という意味ではまだ正規としても、それが訴える内容に至っては、多分に非日本的あるいは脱日本的となっているはずだ。
そういう異化日本語をあらわし、さらに、そういう言語によって考え、自らを支えている僕自身は、確かに、大分類としては日本語人ではあろうが、細分上はそうでなく、おそらく、
「変種日本語人」 とでも呼んでよい何者かに変じているのであろう。
そういう意味では、僕はへたな英語を用いる日本人としての対オーストラリアでの境界に加え、変異した日本語を発する日本人としての対日本での境界という、二重の
「語境」 に囲まれている。
この、新たに出現してきている諸境界に包囲される、もはやいずれにも帰属しえないという孤独感あるいは独自感は、思い起こせば、日本に居た頃の孤絶感、村八分感にも通じるものがある。
こうして、どこへ行こうとつきまとうこの無帰属感、あるいは “ふるさと” 喪失感は、いったい何を意味し、何によっているのだろうか。
つづき
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