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私共和国 第23回



最適配分


 先の 「私共和国 第21回」 に 「 じか播き』 という方法」 を書きました。
 それには、読者の方から、いくつかの反応をいただいたのですが、読み返してみるとやや舌足らずな感じもあり、また、そうした反応に答えたいとの希望もあって、述べたいところをもう少し整理してみようと思います。

 その前回の 「じか播き」 では、いったん、お金に変換することへの一種の用心を述べ、それが、一般に、定年退職とかリタイアに伴って顕著に遭遇する、いわゆる 「お金と時間」 に関する両立の難しい問題にからめてそう述べたわけでした。
 この問題をさらに整理してみると、それは要するに、自分の生活に関わる 《手持ち資源》 の配分問題だということができると思います。

 たとえば今、私の典型的な一日を取り上げてみますと、それは、一日を単位とするその配分の一実例であることに気付きます。
 つまり、そうした一日、私は朝、6時か7時ごろに起床して、すぐに机に向かい、いわゆる頭脳労働に取り組みます。それは、たいてい起床まで、ベッドの中で夢と目覚めの中間の世界で展開されてきた 「アイデア」 を蒸発してしまわないうちに形を与えようと、書き物に取り組む作業です。
 また、そうした 「アイデア」 に恵まれない日は、それを私は 「ルーチンワーク」 と呼んでいるのですが、継続してやり続けなければならない、いったん取り組み始めた仕事に向かいます。それはともあれ取り掛かった仕事であり、強制的にも続けなければならない仕事です。具体的にいうとそれは二つあり、ひとつは 『天皇の陰謀』 の和訳であり、他は、自分の 『相互邂逅』 の英訳です。いずれも、必ずしも自分の 「アイデア」 に頼らなくてもよい “元の仕事” のある翻訳の作業です。ただ後者は、ここのところ時間がとれず、休止状態が続いています。なお、朝食は、これらの作業の切りの良いところで、果物とコーヒーなどで、簡単に済ませます。
 そうした作業が11時まで続き、そこで昼食にして、その後は、30分から1時間位の昼寝をとります。
 その後は金稼ぎの肉体労働にあてる時間で、1時過ぎ、自転車に乗って店に出勤し、通常、店の仕事は、10時か11時までつづきます。したがって帰宅は、早くて10時半、おそい場合は、11時をまわります。それからシャワーをあび、冷たいビールで乾いたノドを潤しつつ――これが実にうまい!――軽い夜食をとります。その後、一日の出来事をネットなどで確認したりし、就寝するのは、いつも1時をまわります。
 以上が私の、典型的な一日の資源配分ということとなります。
 こうした一日を、現在、週に4日、行っているのですが、この一週での賃金労働の配分は、店の事情や私の体調などで調整され、週3日となったり、5日となったりしています。つまり、これは週内の配分ということです。休日での配分もさほど変わりませんが、午後の時間は、定期的に友人に会ったり、図書館に行って日本の最新の新聞や雑誌の記事に当ったり、ルーティン作業に当てたりします。夕方からの時間は、ジョギングか水泳にあて、夜は家庭料理とその味わいに精を出します。時には、それに、人を招いたりもします。
 月や年レベルの配分は、こうした週の累積ということとなりますが、賃金面を犠牲にしても、私はあえてパートタイムという身分を選択して、いざという時の休暇や辞職という長期的な対応をしやすくしています。
 また、収入という意味では、不定期かつ不安定ですが、以前から続けてきている、いわゆるビジネスコンサルタント関連の仕事があり、短時間の割には単価のいい仕事とはなってくれています。

 私は、先に、年金にはあまり頼れない条件を負っていると書きましたが、いまから思うと、それは、知らずしらずのうちに、自分の人生レベルでの 《手持ち資源》 の配分をそのように行ってきた結果なのだ、と言えるかと思います。
 通常の雇われ人の人生といえば、現役時代にフルに労働に従事し、その代わりに、退職後には、積み立てておいた自前年金や賃金の後払いである企業年金を、公的年金に上積みして受け取るという、いわゆるリタイア後の第二の人生が保障されている、あるいは、されていた、わけです。
 (余談ですが、5年前に、 「我、団塊でなし」 を書いて、当時喧伝されていたいわゆる 「悠々自適なリタイア生活」 にネガティブな予想を付けたのですが、最近の状況――たとえば 『中央公論』 今年3月号の 「大事なのは、持ち家、節約、自分を必要とする場」 といった記事参照――は、手前味噌ながら、ほぼ私の予想通りとなっているようです。)
 私がそこで、その変則な現役生活を送った報いとして、これからも生活資金を稼ぎ続けることが避けられなくなっているわけですが、その見返りに得たものが二つあります。それは、心身の健康と、これは自負に過ぎませんが、いろいろ異なった経験にもとづく、稚拙ながらの一連の見識です。そして、これまでにも幾度も述べてきましたが、その二つの成果とは、いずれも、お金では買えない、つまり、商品としては流通していないものであったことです。
 私はそのように、現役時代において、自分の 《手持ち資源》 をお金に換えることを最低限にしかしてきませんでした。むろん、こうした、世間常識的には馬鹿なことと映ることも、私にとってはそうせざるを得ない、決定的で切実な――少なくともそう思える――ことでありました。そしてそれがなぜ決定的なのか、それはそこに、お金というただの数字である抽象的価値に置き換えられない、直接の自己体験に裏打ちされた人の生の何とも言えない味わいを伴っていたことです。それは、私の頭や身体が覚えている限り、私自身の財産で、むろん誰も盗むこともコピーもできません。デフレやインフレとも無関係です。
 こうしたやり方を、私は 《じか播き》 の方法と呼んだわけでした。

 以上はおしなべて過去の経験にもとずくことなのですが、それでは、これからの、何事にも頼りの乏しくなる黄昏期の人生において、そうした 《じか播き》 の方法は、そこでも有用なのでしょうか。それとも、いよいよそこで、その報いが本格的にやってくるのでしょうか。

 私は、この自分の 《手持ち資源》 をなるべく換金しないという 《じか播き》 の方法の発見は、自分の人生の最大の成果であったと受け止めています。少々おおげさかつ皮肉って言えば、これは、今日の資本主義が密かに私に教えてくれた、それを切り抜ける裏技です。
 むろん私は、過去にそれを蓄積してこなかった分、今後、商品としてしか入手できないものを得るため、何がしかのお金が必要です。つまり、そのための換金労働の持続を必要としています。
 一方、すでにそれだけの投入は済まし、一定額の年金の受取りが確実である方々は、どうか、そのすでにお金に換えた自分の資源を、ゆめゆめ、巧みに持ち上げられて、どうでもよい商品の購入になど当てないように、あるいは、掠め取られないように、はなはだお節介ながら申し上げたいと思います。そういう方々は、一日、一週、一年そして今後数十年のフルの時間を手にされているわけですから、年金の使途は最低不可欠の商品購入にとどめ、むしろ、自分の 《手持ち資源》 を少しでも成長あるいは永らえさせることを主眼に、その潤沢な時間の最大活用に傾注されることが第一かと思います。そこで言わさせていただけるなら、 《じか播き》 の極意とは、年金の存在を忘れることです。

 最後に、私はこうして、日々、商品にならない何物かを生産しています。
 そこで、そうした生産品を商品化できれば、換金労働に当てる時間を短縮でき、その報いも回避できて、よりフルに自分の資源の活用ができるのではないか、と問う声があります。
 そこでの私の返答は二つ。
 一、現在私が従事している寿司職人の仕事は、上に賃金労働と書きましたが、ただそれだけではなく、私に修行の機会も与えてくれている仕事で、かつ、わずかながらでも賃金さえ得させてくれているわけです。従って、私はそれを、単なる換金労働とは考えておらず、 《手持ち資源》 をそう拡大させてくれる、内実ある人生体験ととらえています。
 二、むろん、自分の生産物に値が付くのは社会的にはたいへん名誉なことではあります。そうなのですが、もし万が一、そうなればそうなるほど、自分の資源の商品化の結果の影響が恐い。従って、むしろ、そんな恐さにさらされるくらいなら、現在のような、ただのウェブライターでいるほうが、心静かで居心地よいと思います。それくらい、臆病なのです。
 この二つが、現在、私の 《手持ち資源》 の 「最適配分」 要領であります。

 (2010年2月12日)

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