「両生空間」 もくじへ 
 HPへ戻る

 もどる

 連載小説



メタ・ファミリー+クロス交換
――――――――――――――――――――
偶然






 以前、モトジと絵庭が二人で夕食を供にしている時だった。モトジが絵庭に、両親の離婚のことを尋ねたことがあった。もちろん、それはプライバシーに立ち入った話でもあるので、モトジもそれとなく聞くほどにとどめていたのだが、そのやり取りはこうだった。
 モトジの、 「それ以来、父親と会ったことがあるの」 との質問に、会ったことはないとの返答があり、それに続いて、「会いたいと思ったことはないの」 とモトジが問うと、絵庭は、「それは母親を裏切ることのように思えて、そんなことはなかった」 との、モトジには意外な返事が返ってきた。それを聞いてモトジは、そういうことなのか、と思いを新たにしたのだが、両親の離婚を体験した子供のひとりである絵庭は、傍目からではうかがい知れぬ内に閉ざされたトラウマを背負っているようだった。絵庭には、母親がひとりで一生懸命自分たち子供を育ててくれたのに、そういう自分が父親のことをたとえ考えるだけでも、それはいけないことと自分を禁止していたのだ。
 その自分たちを捨てたも同然な父親を、絵庭が恨んでいるのかどうか、そこまでモトジは聞けなかった。そうなのだが、離婚があった以上、母親がその父親を憎むに等しい気持ちでいたには違いない。それを子供たちにどう説明したのか知る由もないが、母親の気持ちは何らかのかたちで子供たちにも伝わっていたに違いない。絵庭にとって、自分の父を否定しなければならない思いには、そうした屈曲した働きが作用していたはずだ。それに、もう、顔さえ覚えていないという。
 ここのところの絵庭のモトジへの疎遠な態度の裏には、そういう彼女の知られざる世界が作用しているのかも知れなかった。


 それは注意深く観察していないと、あるいは、モトジのように 「偽」 であっても家族的立場にあろうとしている人でないとわかり難いことなのだが、絵庭には、二重人格のようなところがある。
 ただ、それを二重人格とまで言ってしまうと、ことは少々大ごととなるのだが、まあ、そこまで言わずとも、あるパーソナリティーの振れというのか、それとも、知らずしらずに身につけてきた振る舞いの傾向とでもいうのか、そのような、 “親身な距離感” にある者に、時に、おやっといぶかしく思わさせるところがある。

 それはたとえば、世界が湧いたサッカーのワールドカップが開催中の時のことだった。
 日本チームは、おおかたの本音の予想に反して、予選リーグ戦を突破してベスト16に入り、最初のトーナメントマッチを闘おうとしていた。
 モトジは、日本がまさかそこまで勝ち上がるとは予想しておらず、それまでの対戦も結果だけをチェックしてみる程度の関心にとどまっていた。これまでのワールドカップでも、自分が熱心に観戦した場合、必ず日本は負けていた。ジンクスとまでは言わずとも、そんな過去の経験から、応援しないほうが結果はいいようだと内心さとっていた。
 そうしたモトジに、その対戦の前日、ヒロキから電話が入った。
 「日本人なら応援に行きましょう
 彼はよく、そんな右翼的な発想をみせる。モトジから見れば、そうした発想は、彼のこれまでの生活体験のやむない産物だ。その繰り返されたやるせない憤懣が最後に頼る、せめてもの帰属意識の表れだ。
 その日は休みの日だったが、何しろゲームは夜中の12時半の開始である。終われば2時を過ぎる。しかもシドニーは冬のまっさかりで、どの国を応援しようが諸々のサポーターたちが集まる場所は、寒風吹きすさぶ戸外の特設会場であった。
 それにモトジはその時、副業の調査レポートの仕事も入っていて、その休みは夜も含めそのためにつぶす積りにしていた上、翌日は店の仕事も待っていた。そこでヒロキには、「残念だが無理だ。第一、俺が応援すれば日本は必ず負けるぞ」 と返事をしておいた。
 するとその後、今度は絵庭から電話が入って、「私も行くからどうしても来て」、と言う。たしか仕事が立て込んでいて休みも取れないと言っていたはずなのにと思う。ただモトジも、絵庭からそう懇願されると気持ちは変わってくる。そこで、「君がどうしても来てくれというなら、仕事を早めに片付けて、行ってみるか」 と、けっこう恩着せがましい返事となった。
 その日のシドニーは記録破りの寒さで、我々三人は、その特設会場に行ってはみたものの、日本人サポーターの数も少なく閑散としており、とてもじゃないがそこで二時間余りも過ごす気にはなれなかった。やむなく、応援客を見込んで大型テレビをいくつも備えた、その会場のとあるレストランに逃げ込むこととした。
 席におちついてひと息つき、
モトジは絵庭を、その夜では初めてまともな照明のもとで見ることとなった。
 普段、目だった化粧はしない彼女だったが、隣に座ったその夜の彼女は、どこかめかしこんだ感じがあった。よく観察すると、いつもの目元の魅力が何やら増強されている感じで、まつ毛にはマスカラがほどこされ、口には透明な口紅でその唇に妙になまめかしくつやが付けられていた。また、そのしなやかに細い指の爪には、手の込んだ細かい模様の爪先だけのマニキュアをしていた。いずれもモトジが初めて目にするメイクアップだった。
 いくらワールドカップとはいえ、たかだかサッカーゲームの観戦に、そんないで立ちはちょっと意外で不似合いだった。モトジは、その夜中の予定の前に、なにかパーティーめいた集まりでもあったのかと思いをめぐらしたのだが、たしかその日、彼女は夜まで仕事だったはずで、パーティーどころではなかったはずだ。したがって、彼女にはめずらしいそうした化粧姿も、どうやら、その夜中のサッカー観戦のためとしか解釈できなかった。
 モトジは絵庭のその不思議な異なり様に、それを、その夜の彼女の気分の現れ、ことに、どうしても来てくれと呼んだ自分へのひとつのサインかとも受け取っていた。

 日本チームは良く闘ったが、PK戦で惜しくも敗れ去った。そしてその延長につぐ延長のおかげで、三人が帰途につこうとする頃には、時は午前3時をまわろうとしていた。
 帰宅するにはもうタクシーを使うしかなく、方向もほぼ同じなので、モトジはタクシーをつかまえる際、絵庭に、いっしょに帰ろうと持ちかけてみた。モトジは、絵庭のその夜の変貌が、自分に見せるためのものであるならそれに応えたい気持ちもあり、二人でタクシーの客となるそのしばしの時間をつくろうとの考えだった。だが、その誘いへの彼女の返答は、「一人で乗る」 との、その日の気温のように、いかにも冷え切ったものだった。
 その夜のような、モトジにしてみれば矛盾したように受け取れる絵庭の振る舞いは、
必ずしもそれが初めてのことではなかった。
 それまでにも、たとえばほどんど毎週と化した彼女の売り場への立ち寄りにしても、モトジに言わせれば、来るのが多分に予想されるはずの日に、臨時の休みや早い時間の退勤となっても、無駄足を踏ませないよう、あらかじめ連絡をくれるような配慮は一度もなかった。しかも、いくらかなりの立ち寄りの要件を伝えようと彼女の携帯を鳴らしても応答はなく、後になって返答があっても、モトジの携帯に簡単な詫びのテキストメッセージが入る程度だった。
 それが女心と悟ってしてしまえばそれまでだが、モトジはこうした一連の振る舞いがそれぞれ孤立したものには見えず、何か相互に関連したものではないかと思えた。そしてそれを一括して、彼女による、理解しにくい一貫性を欠く行動と受け止めるようになっていた。そして、ある思いつくところがあって、そうした観点を、少々精神分析めいた手法をもって探索し始めた。

 もし彼女に確固で安定したパーソナリティーが存在しているならば、その人間関係がどうでもいいものではない限り、そうした矛盾やゆき違いが生じた場合には、通常、それを埋め合わせたり調整したりする、何らかの配慮・修正行動が示されるはずである。少なくとも、その必要の義務を感じるはずである。しかし、それがされないままに放置できるのは、その人のパーソナリティー内部に、一種の感度の劣化や人格的分化が存在し、きめの細かい一貫した思考や配慮が断絶しがちであるからではないかと考えられた。
 ヒロキはそういう彼女のことを、「絵庭って、ちょっと鈍いよ」 とストレートに言う。そういう配慮に欠けるという意味なら、それも当っている。やっぱり彼も互いに親身な彼女の 「家族」 のメンバーのようである。
 ただ、そういう彼女の特徴は、彼女の全人格がそうした分化したものであるのかと言えば、それは当っていない。もしそうであるなら、それこそ彼女は本当の二重人格の
持主ということとなる。そうではなく、彼女の自立した生活スタイルには目を見張らされるものがあるし、実務的な処理能力も優れたところをもっている。そうしたところは、貫徹しないパーソナリティーの持主になせる技ではない。
 だが、モトジにしてみれば、彼女には、二重人格というのは適切ではないとしても、片やでそうした実務能力に優れれば優れるほど、他方における、そうした鈍さや一貫性のなさが深刻に受止められ、そういうアンバランスなものに親身に焦点を当てざるを得ない。まさに、家族内年長者のごとき彼の立場である。
 そもそもモトジと絵庭の関係は、尋常なものでも並みなものでもない。それを、偽の親子だとか、あるいは、意識的誤認関係だとかとこじつけてみても、その両者の関係にそれなりの緊張がともなうことに違いはない。
 というより、そもそも二人には、そういう緊張関係があるからこそ、その関係が始まり、曲がりなりにも継続されてきたところがある。だからこそモトジには、それが、それこそ核反応的な発展となってきているのだ。
 モトジはそうした緊張関係と相互引力を、二人が偶然に背負うこととなり、また、偶然に遭遇することとなった、二つの欠落がゆえだと見ていた。すなわち、片やの子無し、片やの父無しである。その普通でないふたつの欠落が出会った時、その欠落がもたらす二人の渇望、あるいはそれを埋めようとする希求といった同質なものが運命的な接着剤となるのだ。この化学反応は、そういうものたちのみが体験できる極めて特異かつ成立もまれなものだ。だれにでもできるものではない。それにその引力は欠落を共有する二人にしか感知できない。あたかも愛の芽生えた恋人同士であるかのように、その欠落の共有がゆえに引き合うものが生じてしまうのだ。むろん、そういう接着効果は悪いものではないのだが、その関係を持続、発展させるには、ある並々ならぬ決意とエネルギーを必要とする。それが、緊張となって現れてくるのだ。まして二人は、夫やパートナーを持っていて、互いのパーソナルな日常を送っている。
 ただ、そこにおいて、モトジの子無しについては、モトジも自分自身で、すでに幾度にもわたり意識的にも考えてきており、潜在意識の奥底から不気味に不安が襲ってくるということは、もうほとんどなくなっていた。
 そこでモトジが考えたことは以下のような推論だった。
  •  絵庭の父無しについては、深刻で生々しいタブー作用が伴っているに違いない。つまり、彼女が言ったように、両親の離婚は、離婚後、父親と子供たちの面会の機会が一度も成立せぬほどで、それほどに相互に嫌い合い憎み合っていた離婚だったということが言える。そういう深刻なケースにあって、絵庭が父を偲ぼうとすることは、たとえイメージだけだとしても、一人で三人の子供を育て上げてきた長年にわたる母親の愛情や献身を裏切るのも同然な行為として受止められたし、そもそもそれは、たった一人の親となった母親の気持ちを尊重しない悪いことと絵庭には思えていたのだろう。
 しかも絵庭は、モトジが彼自身を子無しとして比較的スムーズに意識できるほどには、自分を父無しとしては意識できなかった。というより、彼女は母親のみの片親の生活を日常的には自然なことと受け止めて来ていたし、そうする以外にしようがなかった。つまり、絵庭の日常感覚では、父は無くて当たり前だったのだ。それなのに、そういう絵庭であった彼女の前に、モトジという自称 「父代わり」 が出現したのだった。しかもモトジが絵庭の前にそう現れたのは、絵庭が彼にどこか魅かれるところがあり、彼女自ら彼を引っ張りこんだも同然といういきさつがあった。そのため、そうしたモトジは、片や代理父親、片や興味ある年上の男性という、二者重複したミックスとして、絵庭の内に存在しはじめたのである。
 絵庭にとって、興味ある年上の男性として彼女が接する時のモトジは、自分の内からの率直な願望として素直に扱えた。しかし、モトジを代理父親として接しようとすると、絵庭には無意識のうちにそれはタブーとして働き、母親を意識したそれを禁じる思いが重たく生じてくるのである。そして、モトジと会っていると、そうした二つの思いの板挟みとなって、時として、彼女は深い不安や動揺にさらされてしまうのである。モトジから、会っていて本当に楽しいのかと尋ねられ、それにすげないくらいに簡単にただ 「楽しい」 としか答えられなかったのも、まさかそんな不安や動揺にさらされている自分があるとは信じられなかったからだ。
 モトジとの関係が、ただ大きく年の離れた男性との関係だけだというのなら、それは男女関係の年齢差に関する程度問題ということにすぎない。むろん、三十歳を越える差となれば、それは珍しいケースに属する話だろうが、ありえない関係ではあるまい。
 そういうモトジの年齢からして、そこに父のイメージを重ねるのも自然でもっともな心的発展なのだが、絵庭が彼に接し、湧き上がってくるその思いを意欲的に追おうとすると、この深層心理上のタブーが作用してくる。それに加え、モトジは自身をあえて 「親代わり」 とか 「誤認父娘関係」 とかといい、自分の父親的役割を強調もする。そのようにして体験させられるモトジがゆえの彼女の切なく苦しい思いは、絵庭自身を二分させるに充分な働きをしていたのである。

 おそらく、両親の離婚に伴い、絵庭に残された子供時代以来のその深層心理のしこりは、ことモトジとの関係に限ったことではないだろう。ヒロキが言う 「鈍い」 という形容も、絵庭に巣くうそうした問題に根をもつものだろう。
 幼い頃から、あることをあえて忘れるよう自分を強いてきたことが、彼女自身の心の回路に、ある種の切断を埋め込んできてしまったのだ。あるいは、そのしこりにからんで、深く安定した心からの配慮をつくろうとしても、心の回路のどこかにタブーが干渉し、心のスムーズな働きを阻害したり停止させたりするのだろう。だから、絵庭の態度や配慮のどこかに、ある無視や不足が生じてしまい、きめ細かい心配りが必要な人間関係の場合にはことさら、なにか一味抜け落ちるものが現れてしまうのだろう。モトジが絵庭に最初に出会った時に感じた 「ずけずけとしたいけ好かなさ」 も、そんなところに源を発していたのだろう。
 もちろん、タブーとは、その欲求や思いが真実であるからこそ生じかつ深刻に作用する心理現象をいう。だからこそそれは人の行動をぎこちなくもさせ、時には生きいきとした人間の感情の発露を壊してしまう。したがって、もし、そのタブーが取り去られ、本来の自分が率直に表現できようになれば、その後のその人は、その心底から湧き上がってくるその真実な希求に素直に百パーセント従うことができるようになり、それを追い求めること自体が、楽しいばかりでなく、大いに前向きで健全なものとなれるはずのものである。
 絵庭は、そういう自分の深いところでのぎこちなさを、全く自覚していないわけではない。いや、むしろ絵庭は、そういう自分の歪みは百も承知で、あるふりをし続けてきたところがある。それが父のない片親の自分の引け目を隠し、いかにも自然に振舞うことだった。言ってみれば、そのふりが、他人から見れば二重人格的でもあったのだ。
 モトジも一度、絵庭から、彼女と職場の上司との人間関係の困難さについて相談されたことがある。それもまったく、同質同類の問題だった。ただ、絵庭にとって、それがどういう種類のどう扱うべき問題なのか、捉えようもなかったし、まさかそれが、両親の離婚に根をもっていたとしても、いまさらどうしも解決のしえない問題であった。
 そういう絵庭の前にモトジが出現し、しかも、自分にとってのデリケートな問題である父親のことをあえて持ちだされて、どうする手立てもないままに、絵庭を苦しいジレンマに陥らせてきているのである。

 しかし、そこでよくよく考えてみれば、そもそもモトジと絵庭の実父とは、何のかかわりもない全くの他人同士である。むろん、互いに会ったこともなければ、互いにその存在すらも知らなかった関係である。その二人に共通するものがあるとすれば、共に同じ世代で男であるというただそれだけのことだ。
 加えて、絵庭にしても、もう、その実父の顔さえ覚えておらず、しかも彼は離婚後、絵庭たち子供に会おうともしなかった人物で、絵庭にとってはもう、憎むとかなつかしむ以前に、事実上、存在しない人間である。そうした亡霊のような存在のために、何をそれまで拘束され苦しまなければならないのか。
 つまり、たとえ絵庭がモトジの中に父への思いを求めたとしても、それは、母親が憎んで別れたその具体的 「だれだれさん」
その人への思いではなく人間として、そして生物として、誰にでも存在するそういう父親の、そのごくごく普遍的なイメージとしての父であるはずだ。なぜなら、顔すらも思い出せないのっぺらぼうの人物を、親しげに慕いたくとも慕いようもない。
 つまり、絵庭がモトジに父の代わりを期待したとしても、それは、そうした人の心の拠り所たる心的原像としての父であり、生命の源としての父性である。母親が触れたくもなく、思い出したくもない、その人物自体のことではまったくない。
 そういう意味では、現の母親にしても、別れた元夫を引き合いにしてモトジを嫌ったり避けたいとする理由
は何もないはずで、絵庭の母への気遣いも、何ら必要のない、絵庭自身だけの心の中に埋め込まれてしまった病んだ心的回路の問題であるだろう。したがって、絵庭がモトジを父代わりとして慕ったとしたとしても、母親が絵庭を裏切り者と思う理由はどこにもないはずのものである。

 絵庭が、自分にまつわる、こうしたタブーの働きを理解し、心理的不安がどうして自分を襲ってくるのかの心的メカニズムを把握できるようになった後では、絵庭は、自分を捕えて放さなかったそのタブーがゆえの拘束や苦痛からも、毒りんごの毒が解けた白雪姫ように、自由となれるはずである。少なくとも、そう捕らわれそうになった時、自分の力でそのタブーの作用をコントロールし、自分の心理のもつれを自分で解けるようになっているはずである。
 いうならば、両親の離婚に伴う子供の心の深層におけるトラウマは、そのようにして解消されるはずである。
 そしてそうとう確実に、そのようにして自分を縛るタブーから解放された時の絵庭は、そのために浪費させられ拡散させられていた自分の心的エネルギーを、ひとへの深い配慮は言うまでもなく、健やかで創造的な方向に向けて無駄なく集中でき、その後の彼女が発揮するであろう文字通りの目覚ましく溌剌とした生きざまに、大きな期待を寄せうるだろう。
 ひょっとすると、母親すらも、絵庭と同じように、そんなモトジを好人物と受け止めるかも知れないし、ましてや、自分がこしらえて子供たちに寂しい思いをさせ、また苦労もかけたその離婚問題の今だに残存し続ける余波が、多分その母親自身その余波の存在や深刻さをまさかそこまでとは知らずに過ごし来ているかもしれないし、もしそれを知りそのようにしてそれが解消されうることを覚るなら、母親もその解決法を望んで歓迎するに違いない。

 つづき
 「両生空間」 もくじへ 
 HPへ戻る
                  Copyright(C), 2010, Hajime Matsuzaki  この文書、画像の無断使用は厳禁いたします