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 連載小説



メタ・ファミリー+クロス交換
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偶然






 異様に寒かった冬もようやく過ぎ去り、春らしい日々が戻ってきた頃だった。
 絵庭からはもう数週間、連絡も、まして夕食を共にすることもなく、モトジは、彼女がどうしているのか気にはなりつつも、無接点のまま過ごしていた。
 モトジは、店で働いている間、ふつう携帯を常持しない。その日も、仕事を終えて帰宅して携帯を見ると、久々に絵庭からのメッセージが入っていた。電話してほしいとある。
 翌朝、さっそく電話を入れた。すると、どこか取り込んだ様子で、会って話を聞いてほしいと言う。
 どうしたのかと尋ねると、祖父が亡くなって、一週間ほど日本に帰っていたのだが、葬儀を終わらせてオーストラリアに戻って来たものの、なにか自分の腑が抜けたようで、仕事もろくに手がつかない、と言う。
 モトジは、ただ会って話を聞くより、彼女をリラックスさせる必要があるとも考えて、「二人の休みの今度の月曜日に、ハイキングにでも行ってみないか。歩きながら、たっぷり話もできるし、気分転換にもなる」、と誘った。

 以前、モトジのアパートで食事をした際にも、歓談の中で、モトジの山好きや、絵庭も小さい頃に、父親も一緒の家族連れでキャンプに行ったことがあるなどの話が交わされて、一度みんなで行ってみようとの話にはなっていた。
 シドニーでハイキングといえば、まずブルーマウンテンズが上がる。モトジは絵庭を、シドニーのセントラル駅から電車で西へ2時間ほどの、その山間地帯に連れてゆくことにした。
 朝早く、セントラル駅で待ち合わせして、予定していた長距離電車に乗り込んだ。天気も上々となりそうだった。月曜日でしかも通勤とは逆方向の電車のため、乗客は各車両にまばらに席を取っている程度だった。
 モトジはすでに、その地帯のさまざまなコースを歩いていた。その際、ことに車でなく、まるで貸し切りのような車両で、ゆっくりくつろぎながらの電車の旅は、連れがある時は会話を楽しみ、ひとりの時は読書や思考にふけり、疲れれば気楽に眠ってもいられる。目的の山歩きための移動手段とは言え、それをモトジは好んでいた。
 久しぶりの絵庭は、ともあれ沈みこんだ風で、今までに見たこともなく生気のない彼女だった。
 車中では、モトジが用意してきた熱いコーヒーを飲みながら、まず、絵庭のあわただしかったはずの日本滞在の話を聞いた。
 健康だったおじいさんがこの夏の異常な暑さで体調を崩し、急性の心不全で亡くなったということだった。
 離婚後の母子家庭で、仕事に専念する母親を助けて子供たちの面倒を見たのは祖父母だった。絵庭もそうした祖父母を語る時は、「おじいちゃん、おばあちゃん」 と、まるで子供時代そのものの言葉使いで彼らを呼んで、その愛着の程を今だに表していた。
 その祖父の死は、父を欠く絵庭の、その心中の空隙を長く埋めてきた存在の喪失だった。
 むろん、絵庭はその祖父を、その呼び方の通り、「おじいちゃん」 との意識ではいた。しかし、彼女にとってのその実相は、祖父というだけにとどまらず、父をふくむ男親全般のことでもあり、今回の突然で悲しい体験は、いわば、父と祖父を二人同時に失った悲劇に等しかった。
 それに、子供三人を育てる母親は文字通り生活の維持に忙しく、家族の暮らしの担い手ではありえても、余裕や潤い、まして父親的包容力の演出者であることはいかんせん困難だった。従って、いわゆる子供が甘えうる対象は祖父母に限られていたようだ。と言うより、子供心に、甘えるといった感情は祖父母にのみ向ける感情とすら思っていたようだ。
 絵庭にとって、そういうぎりぎりの心の拠り所のような存在が逝き、祖母にしても、同様の事態が近い将来にやってくるのは明らかだった。そして絵庭は、亡くしてみて初めて、祖父が果たしていた自分にとっての深刻な意味を、いま、自分のなかの空洞として体験していたのだった。
 そしてその空洞とは、通常、父親が実在して、その父性を体験しながら子が成長する場合、幼い頃の自分を庇護してくれる父から、大人になって自立して親離れ後の父にいたるまで、父の存在の意味の変化を自ら段階的に体験してゆく。それが絵庭のように、その父が禁じられた存在として意識にまともに取り上げられないままであった場合、そうした成長過程を踏みようがない。つまり、最後に体験した父のイメージ、つまり、自分を庇護してくれる存在がそのまま凍結され、成長とともに変化することなく、幼児状態のままで永遠に保存されてしまう。それが祖父の死によって、そういう庇護する存在として心理の底で彼女の安心感を満たしていた “代替装置” が、祖父の死もろともに無効となってしまったとしたらどうなるのか。
 絵庭はもちろん大人なのだが、その彼女の喪失感は、子供が親を亡くす喪失感にも相当するものと考えられる。それが、絵庭のいう空洞だった。

 観光地として名高いカトゥンバ駅で下車し、駅前のしゃれた通りのベーカリーで昼食用にサンドイッチを買い、景勝をほこる眺望台へと向かった。
 空は晴れ上がって春らしい日差しが燦々と降りそそぎ、さすがの絵庭の沈んだ気持ちにも、爽やかさと明るさを注入し始めていた。
 その眺望台には、平日の午前中だというのに多数の観光客の姿があった。そのほとんどが中国からの団体旅行者だった。というのは、その甲高く騒々しい話しっぷりで、彼らが誰かはひと目で判る。かってはそこは日本人旅行者のメッカだった。だが、今や日本人の時代は過ぎ去り、あえて捜してみなれけばならない程に減っていた。
 二人は、その眺望台にはひと時立ち寄るのみにして、そこから分かれるハイキングコースに入った。落差二百メートルにもおよぶ切り立つ崖に、幾折りにも架けられた梯子段を下って谷底の遊歩道に入ると、もう人影も人声もなくなり、静かで落ち着いた山歩きが味わえた。
 絵庭は、自然が与えてくれる安らぎに心を癒し、散策とともに、口数は少なげながら、自分自身を語り始めた。
 絵庭は、自分に残されたその空洞を体験することで、父無しという、自分が知らずしらずに無視し、避けてもきた自分の欠落を、いよいよ、そしてようやくにして、真実にかつ極めて深刻に噛みしめさせられているようだった。
 「私、モトジさんに謝らなければいけないんです」 と、絵庭は改まった口調で話しはじめた。
 「確かにモトジさんからは子無し、父無しの欠落者同士だとは言われていたんですが、実は、自分の欠落については、結局、よく解っていなかったんです。それが、今度のおじいちゃんの死で、私にも確かに欠けていたことがあったんだってことを思い知らされたんです。それで、モトジさんはそういう意味で言ってたのかってようやく解ってきて、あなたが私に会って楽しいっていうのも、そういうことだったのかって、今さらになってようやく理解できたんです。私はそれを知らずに、これまで、失礼にもただ聞き流してきたみたいで。だから今、あなたに本当に申し訳なくって。ごめんなさい、モトジさん、本当にごめんなさい」 。絵庭は、その清涼な両目をうるませてモトジに言った。
 「ありがとう、絵庭。そう言ってもらえる僕は幸せ者だね。でもよく解ってくれたね、絵庭、その悲しみの中で。そしてね、そこなんだよ、絵庭。僕らは年からいえば三十以上も離れた、それこそ親子のような間柄だけど、どうやら僕らは、君がそう解ったように、そういう痛みや辛さを互いに共有でき、共に支え合える者同士らしいってことなんだよ」 と、モトジはちょっと先を急ぎ過ぎるかなと思いながらも、そう彼女を受け止めて言った。そして彼女をともかくその空洞の淵から救い上げたく、モトジはさらに続けた。
 「絵庭、いいかい、ゆっくりでいいから考えてほしい。君の大事なおじいさんを亡くしたいま、君のその空っぽな心を理解できる人は誰かってことを。」
 モトジには、彼女に話してやりたいことは山ほどあったが、その日、時間はまだふんだんにあった。
 二人が歩きはじめた遊歩道の一帯は、標高もあってしかも春まだ浅く、深々と樹木にも覆われていて、寒々しかった。
 そうしたハイキングコースの途中に、広場状に樹木が切り開かれて陽だまりとなり、食事用のテーブルとベンチが用意されているキャンプ場があった。そこで二人は昼食にした。モトジは、持参した携帯ガスコンロでお湯を沸かし、熱い紅茶を入れ、ミルクとちょっと多めの砂糖を加えた。その紅茶の温かさと甘さが、互いの会話のやり取りのように、二人の身にしみわたった。
 そのハイキングコースは初心者向きで、さほどハードなものではなかったものの、昼食と休息を終えてしばらく歩くと、いよいよそのコースの終盤の難関に差し掛かった。先に下った落差だけをそこで上りなおさなければならない、連続する梯子段のきつい登りの個所である。
 最初のうちは頑張って歩いていた絵庭だったが、休みなく続く登りに息をはずませ、やがてへばりはじめた。いや、それは体がへばるというより、そういう気分にひたりたかったのかも知れない。絵庭はとうとう立ち止まって手を差し出し、モトジの助けを求めた。モトジは彼女の手をとって引き上げたり、後にまわってお尻を押し上げたりしてやった。絵庭は、幼い頃の、父といっしょにキャンプに行った、おぼろげなシーンを思い出すと、モトジの手を握りながら話した。
 その難関を登り終えて別の眺望台に立った時、絵庭にはどこか晴ればれとした表情が浮かび、同時に明るさも取り戻しているように見えた。そしてひと息入れた後、下車した駅へと戻るほぼ平坦な道をたどりはじめた。モトジは、そのそぞろ歩きを二人並んで味わいつつ、かって楽しんだそのあたりのいろいろのコースやキャンプの話をした。絵庭は、また連れてきてほしいと、そのはじめての “ブルマン” 体験が気に入った様子だった。

 帰りの電車もがらがらだった。その日の数時間、一緒に歩き、共に語り合った効果のせいか、二人は座席に隣り合って座っている以上に、互いの距離感が接近したように感じていた。
 電車がうねった線路を下りきり、山間部からまだ緑地の広がる平野部にさしかかった頃だった。絵庭が突然、思い切ったような口ぶりで言った。
 「私、今の結婚、きっと長続きしないと思う。」
 モトジはその言葉を、以前にも一度聞いたことがあった。だがその時はただ聞き流しておくしかないほどの突飛な話題だった。しかし今回は、同じ言葉でも、真実味も話の流れも異なっていた。
 「モトジさん、私には、どこか壊れているところがあるの。今の結婚をする前にも、私のことを好きになってくれる人がいて、私も彼が好きで親しくつきあっていたの。それが、ある日彼から結婚したいと言われて、急に不安になって、そう言いたいのに『イエス』 って言えなく、それ以上、前に進めなくなってしまった。結婚して、子供が生まれて、家庭ができても、それを私が壊してしまうんじゃないかって。よく、親が離婚した子供は自分も同じ道をたどるって言うでしょ。私もそうなって、自分の子に、私が味わったような父のいない淋しさと苦しさをさせてしまうのではないか、そんな怖さがおそってきて、そこに立ち止まってしまったの。それでその彼との関係も、やがて終わるしかなかった。」
 「でもね、私は結婚したかったし、特に、おじいちゃん、おばあちゃんが生きているうちに、自分の幸せな姿を見せてやりたかったの、本当に。そうしたところに、今の彼が現れたの。彼は私より十歳年上で大人で、私のそうした願望をかなえてくれるような人に思えたわ。そうしてね、彼を好きになるというより、結婚がしてゆけると感じて、彼に 『イエス』 って言ったの。」
 「そうして結婚はしたけど、でも、子供は生めないというか、やっぱり、どこか怖くて。それ以上が。もちろん、結婚したから彼とのセックスはあります。でも、どこか他人行儀というか、別のことというか・・・。」
 「彼は、君のその空洞をうめてくれないの?」、とモトジは尋ねた。
 「だったら、あなたに電話しなかった。」 
 「今の彼は、自分の年齢もあって、ビジネスを成功させることを急いでいて、私ももちろん彼を成功させてあげたい。でも、彼にとって私との結婚は、どこかビジネスをしてゆく上のステータスシンボルのようなところがあって、心底私が必要で私を大切にしてくれているというんじゃない。成功したあかつきのビジネスマンの妻として、どこか似合ってるみたい。だから、子供も要らないって。責任は私にもあるけれど、そんな、お互いに、結婚を形としてだけ手に入れておきたい、そういう結婚なの。」
 モトジは、彼女の過去のトラウマが、彼女の性的関心にまで傷をつけているのではないかと気掛かりとなり、彼女に尋ねた。
 「立ち入ったことを聞くけど、君って、セックスに親しめないほう?」
 「ううん、いやなんじゃないの。でも、どこか踏み込み切れないようなところがあるの。」
 「ロマンチックになれないの?」
 「どこかで割り切ってるの、そんなものかなって。」

 流れ去る車窓の風景はすでに夕景に変り、電車は住宅の建て込む市街地を走っていた。
 モトジは驚くほど率直に自分自身を語ってくれる絵庭に応えて、自分の体験を重ねるように話しはじめた。
 「君が、自分が壊れているって言うこと、どういうことかよく判るよ。実はね、僕も同じことを、絵庭は二重人格的だって、ちょっと苦しい思いをしながら、そう考えてきたよ。そしてそれは、両親の離婚のために、幼い君の心に残されたトラウマが君をそうさせた犯人だってね。それが君の心にどれほどか辛いことだったか。そして、自分の結婚も壊れてまたもう一人の辛い子供をつくるのかもしれないと、ひとを愛することにも自信がもてないってこともね。」
 そうモトジが言うと、解ってもらえますかと言うかのように、絵庭はモトジに心なしか体を傾け、そして、今まで誰にも一度だって話していないことを、自分でも不思議に、口にしはじめた。
 「子供のころ、自分の体に、そう母親が憎む実父の血が流れている、半分はその血だと思うと、自分の半分を憎まなくてはならないような、あるいは、自分の半分が他人で死んだも同然なような、苦しい思いがこみ上げてきたわ。そして、そういう体験を幾度かするうちに、だんだん、そういう自分をもう忘れよう、考えないようにしようとするようになったの。そして、大人になるにつれて、割り切ることも覚えた。」
 モトジはそう自らを明かしてくれる絵庭に、なんとか自分の同情の気持ちを伝えたく、絵庭の手の甲に自分の手を重ねようとした。すると、絵庭は即座に自分の手を反してそのモトジの手を受け入れ、そしてそれを握り返した。
 「だから、今の結婚も、何かを忘れさせるためというか、きっとその延長なの。だから、何かが抜けていて、形ばかりで中味はなくて、もともと壊れていたの」、と絵庭は声をつまらせて言った。
 「絵庭、これはね、僕が君の本当の親父ではないとしても、そのくらいの人生の先輩として言うことなんだけど、ひとの生き方に、皆がそうでなきゃならないモデルなんてないんだと思うよ。まして、あることがダメだとか、あることが出来ないなんて言う失敗や欠陥は、誰にでもあることで、それで自分が嫌いになるとか、自分で自分を責め続けなければならないと言うことじゃないと思う。結婚だって同じだと思う。だいたい、人を見る目もろくにない若い時分に、最初の一回きりの結婚で、それが生涯で最適の選択になれるなんてことは極めてまれなことだと思う。だから、多くは、そういうトライアルだっただけなんじゃないか。そういう意味では、結婚なんて初めから不完全なんだし、壊れたっていいんだよ」、とモトジは自分の体験をなぞるように話した。
 絵庭は納得したような表情を浮かべつつ、それでもモトジにこう問いかけた。
 「私、子供はほしい。でも、一度目でも二度目でもその結婚が壊れたとき、その子はやっぱり、苦しむことになるでしょう?」
 モトジは絵庭の手を取り直して答えた。
 「捨てる神もあれば拾う神もある。自分がいる与えられたある狭い範囲で考えちゃうと、確かに自分は欠点だらけだし、失敗をしてしまうかも知れない。そして、父のない子にしてしまうかも知れない。だから、自分が味わってきた苦しみを自分のせいで誰かには絶対させたくないと思う。それが捨てる神。でもね、僕もね、結果的に結婚はうまくゆかず、それに、親にもなれなかった。必ずしもすべて自分のせいではないけれど、そういう欠陥男、失敗男として何とか生きてきた。それが偶然、君と出会い、何かが互いに響き合い、ひらめき合って、今、こうして君といっしょに話している。それが拾う神さ。解るかい」、とモトジは絵庭の顔をのぞきこんで言った。
 「僕は、若い時に失敗と思えたことでも、後になってそれが失敗なんてものでは決してなかったと思える体験をいくつかしてきたよ。人生ってね、決してそれほどシンプルなものじゃないし、結構、時間てね、自分の味方だってね。だから、君がほんとに辛く苦しく、行き詰まっている時、そんな自分の体験も生かして、いっしょに突破口を見つけてあげれると思う。それにね、そういう僕は、君とこうして話してることが実に楽しくてしょうがない。この楽しさは、もう君も解っていることだよね。そうして君は、僕の人生にすごい活気をあたえてくれている。この互いに交換し合えるものがある組み合わせって、捨てる神と拾う神の、二重の意味での神業だって思わないかい。きっと、結構すごいことなんだと思うよ。」
 絵庭は、「時間って私の味方だったの」 と一瞬驚き、「むしろ、逆だと思ってた」 と言った。そしてその瞬間、あるひらめきを感じたかの表情を走らせ、同時に自身に問うようにも、こんな質問をした。
 「それは、私たちが家族になるだけじゃなくて、私が自分の子を怖がらずに生めるようになれるってこと?」
 「だから言ってるだろう、それらは別々のことじゃなく、互いに埋め合わせが出来るひとつのことだって。 『子あり父』 と 『父あり子』 にそれぞれなり合えるし、なり合おうよ、ということさ。そして、君の死んだも同然な半分を生き返らせてあげれるかもしれない。むろん、父親もどきとして、君がそうしようとすることの困難さは百も承知しているよ。でもね、単純すぎるほどに言える真実は、ごまかしやふりの上塗りは、もう、何もこしらえないということなんだよ。子供すらもね。」
 それを聞きつつ絵庭は、自分の指とモトジの指を互い違いに組むようにからませて、強い力で握りしめていた。

 やがて電車は、そう語り合い、手を取り合う二人を運んで、終点のセントラル駅に到着した。
 ターミナル駅はちょうど退勤時間帯で、大勢の通勤客で混雑していた。
 ホームに降り立った二人は、それ以降はそれぞれの自宅へと帰路をとらなければならならず、乗りかえホームに向って、人で混み合う駅構内を歩きはじめた。
 互いに何かを言い残しているかのように、どこか後ろ髪を引かれる思いでしばらく黙って歩いていた二人だった。
 そういう二人を、絵庭が突然に立ち止まって停止させ、モトジにくるっと向き直って言った。
 「モトジさん、私、ごまかしじゃない自分になりたいし、子供も生みたい。それがほんとにできるのか、それも怖そうだけど、これからよく考えてみたい。そして、もしも、もしも決心がついたら、今度もういちど、あなたのところに行きたい。そうしていい?」
 モトジはそう言う絵庭の目をあらためて見つめた。そしてその彼女の目に答えて、「君の決心を待っているよ、心からね」、と微笑に込めて言った。すると絵庭はさらに近づいてモトジを見上げ、互いの手が触れあうほどの近さで言った。
 「今日は本当にありがとう、モトジ。私の人生を変えることになるかもしれない一日だった。」
 そう言う絵庭のきりっと背筋を伸ばした姿は、その朝、同じ駅を出発した時の彼女と同一人物とはとても思えない変り様だった。そして、絵庭はさらに背を伸ばすようにして、すばやいキッスをモトジに与えると、くるりと向きをかえ、軽やかな足取りで自分のホームへと階段を上がって行った。


 それから幾日かをへて、モトジは、 「次の月曜日をその日にしたい」 と伝える、絵庭からのしっかりとした声の電話をもらった。

 つづき

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