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第三期・両生学講座 第12回
別掲の 『私共和国』 に連載中の訳読 「ボケすに生きる」 は、今回、その第6章の末尾で、認知症患者をかかえる家族への、専門家からの助言が述べられています。
以下は、それに接した上の話なのですが、現実に認知症患者をかかえる人にとって、この助言は貴重で有用な情報とはいえ、読むのもつらく切ない話となっていて、深く考えさせられる箇所でもあります。
私たちの誰もが、もし選択が可能なら、自分の死に方として、 「ポックリ死がいい」 と考えているはずです。
何も、よりにもよって、配偶者や家族や知人に自分の醜い姿をさらし、そしてたっぷり負担をかけっ放しで逝く自分の最期を、選んで送りたいなどとは思えないはずです。
しかし、この本にも繰り返し強調されているように、認知症は、65歳で5パーセント、75歳で10パーセント、85歳で25パーセントの人にふりかかる、重たい現実です。
私の父も、85歳で、その25パーセントのひとりとなって他界してゆきました。
むろんこうした数字は、現在段階の医学的水準にあってのもので、将来、それがより小さな数字となるのは確かでありましょう。
つまり、たとえば85歳を自分の最期とした場合、上記のような願望は、言うなれば、残りの75パーセント――もしくは残された20年弱の期間に拡大するであろう、それプラスアルファーの部分――に、なんとか食い込みたいと望んでいることです。
しかし、自分が健康維持に努力し、その85歳の最期が90歳、あるいはそれ以上に伸びた場合、その罹病する確率は飛躍的に拡大するはずです。すなわち、そういうより大きな危険領域に好んで入り込もうと、私は日々努力している、ということになります。
つまりはここに、一種の自己矛盾を発見せざるを得ません。
そもそも、人間の生とは、その最後に、死というその生の完全否定が不可避に待ち受けているという意味で、矛盾そのものでもあります。
生物として自分が絶対に避けられない自分の最期に関し、それがたとえ認知症に捕らわれることから逃れられたとしても、例えば癌というさらなる強敵も待ち構えているわけであり、その時の到来にあたっては、やはり、大なり小なり、貴なり醜なり、その不本意な決定の奴隷に堕し、被介護者となる一時期くらいは当たり前、ということとなりましょう。
論理的かつ科学的発想としては、それでも、希少な割合のポックリ型、すなわち完遂型の安息を目指すことは可能ですし、むろん、そうすべきであるのでしょう。
だが、問題はそれではすまない、何ものかにわたっています。
すなわち、その最期のかたちはどうであれ、それを迎える以前から、それ以後と一体であれる、何らかの在り方がありうるのではないか。
(2011年10月18日)
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