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 老いへの一歩》シリーズ


第3回    「物忘れ」 大いに結構    


 前回は 「出力体」 への移行の試みを述べましたが、おそらく、私の誕生が十数年も早かったら、ほぼ確実に、私がこの 「出力体」 説を見出すことはなかったでしょう。つまり、私がこうした姿勢を持てるのは、サイバースペース、平たくは、 「ネットの世界」 にそれほど親しめていたがゆえにです。端的に、そのお陰です。
 言うまでもなく、そういう新たな次元のコミュニケーション手段がこの 「ネットの世界」 で、それがこの世界を急速に変えている有様は、ここで改めて指摘するまでもないことでしょう。今回の私のここでの提案は、そういう新たな武器が、 「老い」 という、その恩恵からもっとも遠いような世界でも、その効用はなかなかなものであるという、体験談もこめた推薦が、この第3回のテーマです。
 本来の 「老い」 の途上では、その生物的必然がもたらす現実上の心身諸能力の衰退によって、自分が対応しえる周囲の環境もそれだけ狭まり、最期への道筋を “順当” に進んでゆくことになります。それが、 「ネットの世界」 の登場により、そういう現実の老化にもかかわらず、バーチャルつまり仮想な現実が賞味可能となり、そうしたリアルな老化をある意味で和らげ、ある意味で “よそ事” とする、そうした現実側の “変質” とても言える機会と出会えることです。
 本稿では、そういう 《仮想世界》 の可能性について、それが社会を変えている社会現象面については、あえてここでは取り上げません。むしろ、そうした変化を所与の条件として、それが、私のような老化途上世代に、どういう恩恵を与えうるかといった、個人への影響の面から、取り上げてゆきたいと思います。

 ただ、まず初めに確認しておきたいことは、この 《仮想世界》 というのは、きわめてテクニカルな分野で、それに親しむには、それなりの手習いや奮闘を必要とします。つまり、自動車の運転と同じで、一定の技量を身に着けない限り、いくらその装置や環境が身近にあろうとも、それは絵に描いた餅に過ぎません。したがって、この分野に挑戦すること自体、新しいことに挑む発奮が、アンチエイジングにつながるという見方もできます。ですが、ここではそれは脇役で、主役は、そうした技量を用いて行う、その内容です。
 若い世代の人たちにはすでにそういう心配は不要でしょうが、私ぐらいのポスト還暦世代には、なるべく早いうちにその技量を習得し、そして親しみ、その恩恵の一端に触れえる下地を作っておく必要があるといえます。

 さて、こうしてコンピュータに親しめるようになったとしますと、その結果のこのエイジング世代への恩恵は、補助用具としての使い道です。そして、その最大の効用は、コンピュータが 「物覚えがよい」、ということです。
 実は、私はこのごろ、物覚えが日増しに後退する感があって、それが大いに気がかりとなっています。
 それに昔から、自分がいわゆる “記憶力がいい” 人間とは思ったことはなく、かっての大学受験の際、工科系の進路を選んだのも、受験科目が、数学だの物理だのと、暗記よりは理屈でやってゆける、そんなえり好みがあったことにもよります。
 まあそれでも、若い時分には、そんな自分の能力でなんとかこなしてはきましたが、やはり、歳を加えるにつれて心配が増すのは、その 「物忘れ」 です。
 よく、痴呆症老人の物忘れ対策として、何でもかんでも 「書きとめておけ」 という手があります。私がここで言うのも、まさにそれに並ぶものです。ただ、その書きとめる先が、紙の上にではなく、コンピュータの中に、ということです。
 以前、柄谷行人の本を読んでいて、彼は、自分は物をよく忘れ、自分が書いたものもよく覚えていない、といったことを述べている箇所に接したことがあります。まあ、その時は、彼でもそうなのかと、ある種の安心を得た記憶がありますが、彼もそこで言っていたのですが、書くことで逆に積極的に忘れられる、という効果は確かにあります。
 もちろん、ここでいう 「書きとめる」 とは、忘備録やメモ程度のそれでなく、書き物としてまとまった、いわば 「作品」 としてのそれですが、そういう自己の表出を、その時、その時に、記録として残しておくこと、しかもそれを、コンピュータのデータとして残しておくことの効用です。
 私にとって、そのようにして残された 「諸作品」 は、人生の日々その時々の、 “最大瞬間風速” です。つまり、自分を表出して物を書くというのは、一定の精神的高揚の結果です。何か、そのように、書きたいものが湧き上がってくるものがあって、それを自分の外へと引き出せた時の産物です。
 長年にわたって、そうした成果品を書き残し、蓄積してゆきますと、後になって、何かのきっかけでそれを読み直した時、その作品に “読者” として接している自分を発見します。つまり、以前に書かれたその内容は、時にはもうその存在すらも忘れられていて、こんなことを書いていたのかと驚かされることすらあります。あるいは、そこまで忘れられていなくとも、書いた内容の詳細が思いだせないことは、茶飯事におこっているわけです。
 したがって、それを書き残したその時点で達していたその高み、つまりその 「最大瞬間風速」 は、その時一回限りのものであり、その正確な再現はほぼ不可能ですらあります。
 そこでなのですが、このようにして、あるまとまった数の成果品が蓄積されたとしますと、今度は、その読者となることで、第一に、その時々の 「最大瞬間風速」 に接することができ、第二に、それらの通読により、そうした 「最大瞬間風速」 をいくつも体験することにより、一種の加算効果があらわれ、各瞬間の見方やアイデアの総合の上に立った、新たな高みといった地点への到達が可能となります。
 むろん、こうした著作品のもたらす効果は、コンピュータ化しなくとも可能ですが、それをデジタル・データ化しておくことで、縦横の 《検索》 や即時の取り出しが可能となることです。ここで、デジタル・データの醍醐味がまさに発揮されます。
 私たちはよく、あることをどこかで読んだのだが、それがどこであったのか思い出せないことがあります。そして、思い当たる文献をあれやこれやと引っ張り出して、少なくない時間を浪費させられます。しかし、そんな作業は、コンピュータにとっては、まさに瞬時の仕事です。
 また、各々の作品にこめられたそうした思考やアイデアの蓄積は、次にそれを発展させ、さらにその上に立つ見方を表現する時、あらためてその要約を述べたり要点をかいつまむ必要もなく、リンクを示すことで、効果的にその次の次元に移ることができます。つまりは、イメージとして、そうして築きあげられてゆく、自分をはるかに上回る “伽藍” といったものです。
 ちなみに、私は自分のサイト、 「<両生>歩き」 で、そうした 「伽藍」 の内容を三つのサブサイト、 「リタイアメント オーストラリア」、 「両生空間」、 「私共和国」 に分けて、それぞれ役割を変えた角度から、そうした作品を逐次掲載しています (詳しくは 「このサイトについて」 参照)。こうした “三位一体” な体系は、サイト構造上に必要であるばかりでなく、自分の中身を、そのように構成立ててゆく上でも、有効な方法となっています。
 そしてこのサイトでは、このようにしてデジタル情報化された作品群は、方や時間系列で羅列される一方、他方では、分野別にリストされて、さらには、そうした全体は、キーワードを用いれば、それぞれに検索やリンクを通じて、それぞれの思考のネットワーク構成をつぶさに追い、つかむことが可能です。そして究極的には、数々の作品間のそうしたネットワークがなす、あたかも脳内のシナプス連結のような総合化により、ある種の 《自分の化身》 とも言えるような、バーチャルな自己――ただしそれは 「最大瞬間風速」 の合算効果により、生身な自己をはるかに上回る容量にすらなりえる――といったような構築体が形成可能です。
 もし、私たちが、自分の生な記憶力にのみ頼って自己を表現した場合、それはどうしても、その時々の 「瞬間風速」 を越えたものにはなりえない制約を負います。まして私の場合、もともとその記憶容量は覚束なく、それに頼った “伽藍” は、みごとに貧弱なものにならざるをえません。
 それを、上記のようにデジタル化した全作品群をネットワークすることにより、言うなれば、そう顕在化された自分の過去の働きの集積を目の当りにすることができます。まず、それだけでも、自分にとっての有形な財産であることを実感できます。さらにそれは、そうした “見える化” により、自分が何であるか、その存在を明らかに表す具体的な形の現前ともなります。つまり、こうした 「伽藍」 を手にしえるか否かの違いは、想像するだけでも、膨大なものであることが推量できます。
 いうまでもなく、こうした作業は、年齢にかかわりなく実行できます。しかし、その作業とその効用が、記憶や発想力の衰えが始まっている世代で活用されたとすると、その効用は絶大です。そして、こうした作業は、どう控え目に見積もっても、自分のナルシズム(自己陶酔)を満足させるだけでも十分なものがあり、ポスト還暦世代の 「どのみち主義」 に立つならば、もはやそれで十分な働きと言うものです。

 以上、私は今回、 《仮想世界》 の可能性について、個人の内側での効用のみについて述べてきました。しかし、冒頭に述べたように、それが社会に及ぼす影響は巨大なものとなっています。ことにそれが、フェイスブックやツイッターにみられるような 「ソーシャルメディア」 といった機能と相乗効果をなした時、その社会的効用は乗数的です。
 私はその中でも、とかくリアル世界でのソーシャル関係の縮小が避けられない高齢世代が、こうしたバーチャルでもそうした現実の制限に縛られない可能性をもつことの効用に注目します。それは初期的には、 “新手の老人クラブ” でも結構でしょう。形はなんであれ、それらが顕在化することで、バーチャル――もはやそういう “現実” と化している――とは言え、過去には存在していなかった、まったく新たな社会関係の形成となることでしょう。それこそ、 “シルバー革命” もありえるかも知れません。
 また、前回にも書いたように、こうした世代が、その長い経験により、その蓄積した知恵をそうして 「見える化」 させた時、それに若い世代がアプローチできることの効果は、おそらく、予想すらできないものがあるのではないかと想像します。たとえば、後に続く人たちが、先人の失敗や成功の秘密を知るだけでも、その交流の意義は少なくないものと思われます。

 (2013年2月7日)
 
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