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<連載>  ダブル・フィクションとしての天皇 (第10回)

《疑似体験》: もしも私がバエさんだったら


 こうして 「訳読」 を再開し、それを続けていて、ひとつの発見をしていることがあります。
 それは、原作のストーリーが戦中から敗戦そして戦後へと、舞台が次第しだいに変転してゆく中で、 「訳読」 作業にたずさわりつつ、自分も、そうした時代の経過を生きている体験を、空想上ながら 《疑似体験》 していることです。
 もし自分がその時代を生きた一人の人間だったら、いったい、どんな生き方をしたのだろうか。ことに、降伏によって戦勝者の占領下に入った日本社会において、いわば、かっての敵の価値観を強いられる体験をしたとすると、自分なら、どんな反応をしたのだろうか。
 たとえば、翻訳の作業中、固有名詞の確認などで、当時を扱った歴史書を参考にすることがあります。今回も、岩波新書の 『昭和史』 を開いたりしているのですが、この1960年代に出版された本が、そうした時代の変遷の中で言えば、大なり小なり定着した、そうして占領米軍の価値観を反映したものであったのは間違いないでしょう。同時代に自分も生き、そうした価値観を共有していたわけなのですが、私の場合、戦後生まれで、物心ついた時は、そうした戦後社会の一員となっていました。そしてその戦後社会は、ほぼ安定して、今日まで続いてきています。
 そこでなのですが、この 《疑似体験》 において、1945年8月15日をはさみ、その前とその後の両方を体験したとしたらどうだったのだろう、と考えさせられます。
 母も、父もそうだったのですが、もうこの世にはいません。
 身近で、しかも、寡黙がちな日本人とちがい、その日本を充分対象化して話せる人として、バエさんがいます。
 もし、私がバエさんだったら、と考えるしだいです。
 では、その 《疑似体験》 の場へとご案内します。

 

 

 (2009年10月25日)

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