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敗戦
(その3)


最初の争い(92)

 裕仁がマッカーサーとの会見で得た心地よい安心感のいかなる意味も、10月4日、ワシントンの米陸海空軍統合参謀本部(JCS)から発せられた指令――JCS10号との呼称で知られる――によって、粉みじんに吹き飛ばされてしまった。この指令は、日本の警察組織の改革――政治犯罪を所轄していた思想警察の解体、共産党員を含むすべての政治犯の釈放、出版の完全自由化(天皇批判の自由も)――を要求していた。裕仁は、傍受したその指令を受け取り、無任所大臣である近衛公はただちに、第一生命館のマッカーサーを尋ね、その意味が何であるのかを問うた。近衛は、マッカーサーが、共産党員も、刑務所からの釈放も、街頭演説も、何ら有害なものはないと見ているという、不安をかぎ立てる情報をもって帰ってきた。さらに、マッカーサーは、「思想犯」の予防拘禁を許す1936年法〔治安維持法〕と、日本人キリスト教信者に神道への従属を求める1939年法〔護国神社令〕を廃止するつもりでいた。加えて、すべての日本と外国との間の商取引は、連合軍総司令部の許可を得なければならなくなった。また、東久邇内閣の内務大臣は、元思想犯警察官のため、閣僚のポストから外されなければならなくなった。同4日の午後、JCS10号文書の公式写しが、首相官邸の東久邇宮のもとに届けられた。
 マッカーサーは、その日、夜遅くまで勤務し、密使が、首相官邸、皇居、第一生命館の間を往復した。東久邇は最初、この指令に抗議して内閣を解散し、新たな内務大臣が政権をひきつぐことをにおわした。しかしマッカーサーはそれに仲介を通してこう告げた。「私は東久邇宮に最大の配慮をしており、私の指令項目を実行するにたる資格ある者は彼以外に居ない。しかし、もし、内閣が明日、総辞職するのなら、それは内閣が私の指令を実施できないからだと日本国民は解釈するだけだろう。今後、東久邇宮は天皇よりその首相再任を受理されるだろうが、私は受け入れられない」

 そこで近衛公は、外務大臣の吉田茂に内閣を組閣するようにほのめかした。だが吉田は、和平派の一員として、そして特高警察による投獄によって、その地位を獲得してきた男である。裕仁とそのお気に入りの顧問、木戸内大臣は、今、吉田内閣を作るべき時かどうか、確信がなかった。67歳の吉田は、首相職用にと、それまで何年間もとっておかれた男で、ここで彼を浪費してしまうのは愚かなことだった。日本の誇り高き兵士がアメリカの威信に慣れ親しむまで、あるいはマッカーサーが戦犯を逮捕し終わるまで、あるいは占領の最初の屈辱的季節が過ぎ去るまで、消耗可能な男にそれやらせておく方が好ましかっただろう。裕仁と木戸は、その日の就寝時間までには、それに最適な人物は幣原喜重郎男爵、73歳、であるとの合意に達した。1920年代、幣原は、日本の外交の前面に一人立たされ、苦労させられていた。ある時は外務大臣として、ある時は「弱腰外交官」と軍からこき下ろされながら、彼は、日本が平和的な国であると世界に訴え、だからこそ、満州征服の後はお払い箱にされていたのであった。
 翌10月5日、天皇とその顧問の全員が、何をなすべきかについて合意に達っした際、東久邇宮は宮中に怒鳴り込み、前夜の無礼な連合軍指令を受け取った上は、もうこれ以上政権にいられないと宣告して、彼の面子誇示劇を見せつけた。吉田外務大臣は、直ちにマッカーサーに会い、旧「弱腰」の幣原卿を首相候補とすることについて探りを入れてみた。「高齢すぎないかな」とマッカーサーは尋ねた。「英語は話せるのか」とさらに聞き、話せることを確認してマッカーサーは首を縦に振り、そして、日本の国内政治に介入するつもりはないと言った。
 このようにして、日本の次期首相を幣原とすることは決った。だが、彼に首相就任を受け入れさせることは別問題だった。彼にとって、マッカーサーのもたらす幸運に乗ることは不本意であったし、数年前の卑劣な扱われ方に、裕仁を良く思っていなかった。10月6日の午前中を通し、宮内庁舎の侍従や閣僚たちは幣原にただ懇願するだけだった。裕仁は、木戸の進言をうけて、宮中の厨房より特別の昼食を彼に送り届けた。昼食後、通常の皇室儀礼を捨て、個人として彼と会った。そして、君主としての地位からではなく、一対一の人間として彼に話しかけた。一時間の後、幣原はこの受け入れ難い職務を引き受けることとなった。
 日本の新首相はいずれも、鮮明な成し遂げるべき使命を常に持っていた。裕仁とその顧問たちは、通常、数週間、時には数ヶ月前から、その使命を組み立て、そしてそのための首相候補を決めていた。実際、皇位に近い人々は、ともあれ、次期首相が誰であるかを知ることによって将来を見通すことができていた。東久邇宮の首相としての使命は、日本の武装部隊を天皇の意思に従わせ、平和的に戦時態勢から解くことであった。加えてその辞任は、それにより、マッカーサーの計画から皇室が自らを分離していることを、国民に示しうることであった。これに対し、幣原の使命は、「若竹のようにしなやかに」マッカーサーに従うことであった。つまり彼は、アメリカ式変革を実施するふりをし、同時に、熱心でもなく、名目的にそうしていることを明らかにすることであった。首相就任の初日、彼はマッカーサーを支えることを約束し、そして皮肉っぽくこう述べた。「私は自分が戦争犯罪人でないことを望むが、もし、その一人として自首すべきであるなら、それも結構なことだ。我々はみな、戦争に加担してきたのだから」。その三日後、彼はアメリカとの戦争を「とるに足らないことに関わってきた」ためだとした。七週間後、国会議員による戦争開始の責任を究明する委員会を設置する請願が行われた際には、彼は、「私はむしろ諸君に、敗戦の原因を究明し続けることを問いたい」と言って、その請願を拒否した。
 幣原首相の内閣は、降伏後、形骸だけの組織を維持してきた特高警察を公式に解散することで、マッカーサーへの当てつけな協力を開始した。日本の刑務所から政治犯を釈放せよとのマッカーサーの指令に応ずる前に、幣原の側近の一人は、95万7千人の囚人が日本社会に野放しにされようとしているとの警告を受け取っていた。だが、それを調査した結果、この数字は、裕仁の統治下で逮捕されたあらゆるタイプの犯罪者の総計であることがすぐに判明した。次には、一万名の強硬な左翼が釈放されるとの警告だった。これも、1929年4月の左翼の大量検挙の際の数字だった。その一万人のうち、1935年以降、わずか1200人が刑務所に入れられていただけだった。そのうち、7名は相応の措置の後に処刑され、200名は殴り殺され、200名は栄養不足と病気によって死亡した。戦時中、700名強が、労働大隊に送られるか、空襲が始まったために執行猶予として帰宅を許されていた。そうした事実の中で、25人の政治的扇動者が釈放され、うち16名が共産党員だった。
 その16名の共産党員は、マッカーサーの窓の下の宮城広場――第一生命館と皇居の間に位置している――で騒々しいハンガーストライキを行っていた500人の失業者を指揮し、その解放を祝った。翌日のコロンブス
〔が米大陸を発見した〕記念日、マッカーサーは幣原新首相との初会見を持ち、他の改革を推進することを彼に強いた――国民に基本的人権を与える、婦人参政権、労働組合の組織化を許可、教科書からの虚偽と神話の撤去。その翌日、長身の近衛公は、天皇の顧問としての世襲の権限において、天皇は立憲君主となることに反対はしないだろうが、提起されている憲法上の変更には反対するだろうとの意の声明を行ってそれに対峙した。近衛は、退位は、裕仁が対象外とはしていない、選択の一つであると述べた。10月14日、閣僚は婦人に参政権を与える年齢を25歳から20歳に引き下げることを決めた。その二日後、日本の参謀本部が解体された。その翌日には、陸海軍の臨戦態勢の解除が終わったことが宣言された。海外に居る退役兵は、日本の港に到着した時点で、除隊となった。
 幣原首相の改革計画は、少なくとも、二つの良好な結果をもたらした。数千人の政治的に疑わしい日本人は、一級の市民権の保持がゆるされ、家系上の名誉を明瞭とすることができた。翌年春の選挙では、38人の婦人が国会議員に選ばれた。天皇の顧問、木戸の義理息子は、ただちにマッカーサーに呼ばれ、新たな議員の一人が有名な売春婦であると、機嫌良くからかい風に尋ねられた。「何票を彼女は獲得したのかね」と聞かれた彼は、「25万6千票です」と溜息をついて答えた。それにマッカーサーは、「きっと彼女は働きものの婦人に違いない」と笑って言った――後に彼は、この返答に別の言い方をしたのであったが。


                     
ロマンスの開花

 幣原首相率いる「改革」内閣が発足して一週間たった時、連合軍最高司令部は、占領軍の大半を、歴戦の精鋭兵士から、米国からの新兵に置き換えると発表した(93)。占領はもはや軍事作戦ではなく、社会的実験の執行だった。マッカーサーは、占領が最大の試練に立たされていると緊迫していた。彼は、第一次大戦後、「レインボー師団」を指揮してラインラント
〔西ドイツの一地方〕を占領し、歴史上かってない平和時の占領軍を成功裏に維持した。そこで彼は、戦闘態勢のもとでは、兵隊は規律を維持し敵に敬意を払ったが、平和時のゆるんだ任務のもとでは、征服者は傲慢となり、退役兵は厳格さを失うことを味わっていた。本国から来た新兵はすぐに、未体験の実戦闘による英雄談に代わり、女たちを征服しようとする危険を、彼は察知していた。(94)
 日本は、マッカーサーが自分の兵隊たちに予測していた気の緩みにつけ込むための準備を万全に整えていた。和平派の特殊慰安施設協会は、まさしくその目的のために、国をあげての娼婦力を動員していた。最初に米軍の機動部隊が東京に到着し、所定の兵営や工場に収まり、そこに検問所を設置した時より、兵員たちは、幾台ものトラックに満載されてきた女たちが検問所前で下車して準備が整い、通訳から「特殊慰安施設協会からの御挨拶です」と説明されてびっくり仰天した。この最初の進呈は受け取りを拒絶され、そのトラック満載の贈り物は未開封のまま返品された。だが数週間のうちに、それが日本側の騙し打ちではないと判ると、アメリカ人たちはそれに打ち解け始めた。そしてすぐににマッカーサーは、「広がっていると報じられる占領軍メンバーと不品行な日本女性との間の乱れた関係に大きな懸念と深い困惑」を表すこととなった(95)
 戦前、日本の売春婦は、その小柄さ、その恥じない快楽主義、そして彼女たちの自尊と誠実さを込めた甘美なサービスで、国際的な評判を得ていた。彼女たちは、主要都市の街外れにある、壁で囲まれ、飾り立てられた街区に住み、働いていた。その最も著名なものは、東京の吉原で、きらめく提灯とごった返す小路を持つ40エーカー
〔16万m2ほどの治安の良い一画を形成し、金張りの龍と朱塗りの門、着飾った客引きや曲芸師と砂糖菓子売り、格子を通して垣間見える池や庭と縁側や格子窓の向こうの女たちといった、集積された東洋の魅惑と悪徳の場であった。マッカーサーのMP(憲兵)は吉原のことをあらかじめ通知されており、東京に着任した最初の日、「立ち入り禁止」の告知板を立てるために、その地に直行した。だがそこには、焼夷弾で焼き払われた廃墟があるのみだった。(96)
 空襲を生き延びたそうした女たちは、首都圏全体に霧散していた。少しでも英語が話せるものは、特殊慰安施設協会に雇われ、郊外の古びた宿屋や、同協会が下町に作ったキャバレーや売春宿で、そのサービスを提供するのを待ち構えていた。アメリカ人による需要は、ついには、横浜の「ビック・ティッツ
〔「大きなおっぱい」の意〕・バー」や、東京の「ハード・オン〔「勃起した」の意〕・カフェ」のような目立った歓楽場所を生みだし、占領が始まって1ヶ月も経たない時点で、歓迎されるとみられる所では、目立たないようにながら、あたかも偶然を装い、そうした女たちが商売を始めていた。
 米兵のうちには、まるで麻薬の幻覚であるかのような、そうした初期の出来事を経験したものがいる。日本の地方で、武器の隠し場所を捜索していた元第8軍団の軍曹が、1945年10月末のある日の経験を述べている。
 彼と同僚は、その日、東京の東方にある小さな海辺の町のほこりっぽい広場に、彼らの乗るジープを止めた。そこで彼らが、昼食のためにK号携帯糧食を開こうとしていた時、シルクハットを被り、黒く盛装した一人の紳士がやってきて、たどたどしい英語で、粗末な場所だがその屋根の下で、食事を摂ったらいかがかと申し出てきた。彼は、ジープの後方バンパーに立ち、海を見下ろす崖の上へと、砂利道を案内した。竹藪の前で車を止めさせ、崖の淵にある、古い宿屋へと小道を下った。その玄関では、着物を着た四人の麗しい娘が、彼らの靴を脱がせ、二階の、漆塗りの食卓の置かれた畳敷きの部屋へと通した。座布団が差しだされ、ふすまが開けられると、素晴らしい景色がそこに広がり、眼下では波が磯に砕け散っていた。女中が、K号携帯糧食に加えるべく、ビール、おひつに入ったほかほかのご飯、数々の前菜を持って入ってきた。娘たちは、間違った英語をにぎやかにしゃべり、はしを使って米兵たちにそれを食べさせた。そして、指やマッチ棒やビール瓶をもちいた接客ゲーム――言葉を超越した遊び――を彼らに教えた。とっくり入りの燗のついた酒も出され、それを杯で飲んだ。やがて、食事と歓談に満腹したところで、娘たちが言った。「お風呂に入りましょう」。
 折り返した階段を下りて、崖下のほら穴状の部屋へと案内された。その岩の床はおだやかに傾斜し、一方の壁は海に向かった開口部だった。その床の中央に、タイル張りの湯気をあげる浴槽があった。娘たちは着物を取り、男たちの服を脱がせ始めた。娘たちは、手おけで火傷しそうなその熱いお湯を自らあびた。その行為は繰り返され、兵士たちは大喜びしてそれをまねた。皆がそうして洗い終わった時、娘たちは浴槽の中に身を沈めた。男たちは、それに従い、その40度を越える熱いお湯に体を入れ、ゆっくりと首までつかったが、火傷はしないようだった。彼女たちは、兵士たちの顔を手ぬぐいでふいて、女中が運んできたビールを小さなグラスで飲ませた。遠くでは、崖の影が、海面の上に長く延びていた。
 皆がよく浸かった頃、女中が清潔な木綿の浴衣を持ってきて、男たちはそれを着て、その帯を前で結び、その結び目を背に回すことを教わった。そして娘たちは、彼らを、二階の個室へと案内した。そこでは、畳の床の上に厚い布団が敷かれ、またしても、ビールが幾本か、食膳の上に並べられていた。一人の娘が、「アメリカ風の愛し方をして」と、軍曹に手を巻きつけながら言った。軍曹は、一瞬息をのみ、圧倒され、夢中となって、そして、それを拒むには自分が余りに誇らしくなっているのを感じていた。翌朝、彼は一人で眼を覚ました。隣の部屋の仲間を起こし、そのぜいたくな遊びの代金を請求された場合を心配して、彼らの手持ちの金をかき集めた。女中がお茶とご飯をもってきた。朝食の後、彼らは、その黒の盛装の男にそれでよいかを尋ねた。その男は、その代金は、一人につき、煙草二箱で結構と言った。玄関では、昨夜の相手をしてくれた娘たちが、靴べらを手にして待っており、満面の笑みをうかべて礼をして、彼らが帰途につくのを見送った。(97)
 そのような、初期の接触がもたらした体験や物語は、親密関係無しといった公式占領政策をアメリカのMPによって徹底させることを不可能にした。ジャングルで闘ってきた精鋭部隊が、すべて「米国内」に帰還し終わるまでに、そうした女たちは、米国人宿泊所や定期的な一掃取締についてのあらましを知っていた。連合軍隊員によって占められたかつての日本軍兵舎や武器改造工場は、消灯時ともなると、ヒールの音や漂う香水の香り、溜息や何かのきしみ音などが響く、不可思議な時間帯となった。マッカーサーの部下職員の宿泊所として徴用された旧東京記者クラブでは、22人のメイドと電話交換手が、夜、そうした職員の部屋で過ごしているところを発見された。占領後半年までに、少なく見積もっても、半分以上のアメリカ軍将校たちが日本人の愛人を持つと見られていた。
 10月、幣原内閣が発足しようとする頃、特殊慰安協会はその供給について、下士官と将校を分離し、50万人の占領軍全体がすべて同じように魅力的なサービスが受けるのは難しいと強調し始めた。そしてその日より、下士官には下級のホステスバーが、兵卒には「ウィロウ・ラン」となり、上等な老舗旅館は将校向けとなった。つまり、もはやだれもが十分に満足しえるものではなくなっていた。みごとな庭園を持つ豪奢な別荘の幾つかにはアメリカ式浴室が設けられ、そして人々の視界からは消えた。米軍士官にもっとも人気のあったのは、東京中心部のネオン街にある、招待客のみを受け入れる、プライベートクラブだった。
 そうしたクラブの筆頭が「大安」で、裕仁の弟、海軍大佐の高松宮の親友、安藤明が経営しており、戦時に便乗して暴利を稼いできていた。トラック運送あるいは建設業界のボスとして、最初の占領軍の着陸に際し、厚木基地のまたたくうちの修復工事を成し遂げて名を売っていたのが安藤だった。そのクラブ「大安(だいあん)」では、米軍の高級将校に、活発で英語の話せる貴婦人を紹介し、夜ごと、その記念にと、御木本の真珠のネックレスが贈呈されていた。彼の気前の良い商風は、幾度も彼を倒産の崖淵に追い込んでいたが、地下商売で大当たりを上げては再起していた。そして最後に短期の刑務所暮らしをした後は、引退して安楽な生活を楽しんだ。(98)
 そうしたクラブとは別に、内閣官房楢橋渡や東久邇元首相の別荘では、極めて興味深い享楽が繰り広げられていた。東久邇のパーティーの様は余り記録に残されていないが、楢橋のそれは、見るからに露骨な誘惑そのもので、今日。老いたアメリカ人将軍たちが当時を思い出して顔を赤らめるものとなっている。楢橋は熱海に別荘をもっていた。熱海とは、風光明媚なビーチリゾートで、南京攻略の後、松井大将による観音像が建てられた場でもある。熱海の入江や山々、そして名高い温泉やホステスたちと、当地はその持ち味をあえて強調する必要もなく、かつ、楢橋は名うてのもてなし上手だった。その裕福な弁護士は、戦争中、北京で最大かつ最も儲けの良い情報収集源ホテル
〔北京飯店〕を経営していた。その彼の部下の鳥尾〔鶴代〕子爵夫人が、コトニー・ウィットニー准将に仕える将官〔民政局次長チャールス・ケーディス〕の愛人となった。ウィットニーは、連合軍最高司令部民政局を動かし、日本の法制改革の草案作りをしていた。その元ホテル経営者の楢橋は、自分と自分の「貴婦人」たちが、最後にはウィットニーの部下たちすべてを「とりこ」にするだろうと豪語していた。
 性的わいろに加えて、さらに特異な投資機会も存在していた。マッカーサーの会計担当ハロルド・R・・ルース大佐は、占領軍将兵たちは、毎月、支払われる給料より800万ドルも余計に故国に送金をしているとの報告を行った。日本人が中国から略奪してきた数々の骨董品は、日本産の秘蔵品とともに、米国へ送られる雑のうの中に入れられていた。天皇の叔父、東久邇宮自身も骨董業を手がけ、後になって、要職にあるアメリカ軍士官たちに安売りし過ぎて破産したと、よく語っていた。数年後、国会がアメリカ軍士官たちによる「財宝泥棒」疑惑より政治的利得を得ようとしていた際、それが、誰が何のためにアメリカ人を助けているのかをめぐっての議論に終始し、その試みは失敗に終わっていた。(99)

 つづき
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