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敗戦
(その4)


宮廷人質

 日本人は、贈り物と懇意を提供しながらも、それによって買収できたものは、いくらかの情報――第一生命館内部でのもめごとについてのゴシップや財閥解体についての通告内容、そして最も重要な戦争犯罪人の最新リスト――くらいであった。法律は米軍占領の後に廃止は可能で、財閥も再編ができ、資産も正当な持ち主に返還が可能だった。しかし、絞首刑となった人が生き返ることは不可能だった。裕仁とマッカーサーは、十、十一月の二ヶ月間に三度会見し、戦争犯罪の問題について、完璧に極秘のうちに話合った。マッカーサーは、疑惑を受けた数人の指導者の処罰について、日本に対する全体的計画の中で、いくらかは考え直すつもりだった。一方、裕仁は、自分以外の者らが責任を負わなければならないという考えに、切実に面目なさを感じていた。マッカーサーは、9月27日の裕仁との最初の会見のあと、その会見についての見解と、天皇が戦争についての告発をすべて受け入れている以上、その他の者の罪を問うのは賢明なことではないと、統合参謀本部(JCS)に電報を送った。ワシントンからの返答は、幣原首相が組閣を始めた10月6日に届いた。それは、簡略かつ明瞭に、「戦争犯罪人の処罰はただちに行い・・・ さらなる検討の余地なく、天皇には何らの行為もとらない」、というものだった。
 不承々のうちにも一連の復讐の責任を負わされたマッカーサーは、逆境の中でも最善をつくし、また、戦犯を逮捕すると圧力をかけて、他の領域で裕仁からの譲歩を引き出そうとしていた。まず最初に、マッカーサーは裕仁に、日本の協力しだいでは戦犯の処罰を見せかけ上のものとしえるかもしれない、と持ちかけた。この餌に、辞任した東久邇前首相が直ちに食いつき、 「日本はすでに戦犯の裁きをすませており、その処罰は実行されたと認められる」 とその退任会見で述べ、あたかもその釣り人までも飲み込もうとした。彼はこの主張の根拠として、ビルマ・タイ間鉄道建設での残虐行為の罪で投獄を命じられた二人の日本軍将校の名をあげた。この延長200マイル
〔320km〕の鉄道敷設の際、奴隷同様に扱われて1万6千人の連合軍捕虜と6万人の現地人が死亡しているだけに、さすがに東久邇としても、それは余りに鉄面皮な主張だった(100)

 この東久邇の主張にも拘らず、連合軍総司令部は、A級戦犯のリストに容疑者の名を加え続けていた。ただしそれは、捕虜虐待がゆえではなく、「侵略戦争の計画」と「平和に対する罪」を犯した「謀略」がゆえであった(101)。それはまた、日本人をして軍国主義から目覚まさせるための、見せしめの裁きの眼目でもあった。アメリカのねらいとしては、裁きにかけられる者たちが、戦争開始にあたって最も罪深い者である必要はなく、典型的なものとして十分証拠立てられるならば、どんな指導者であってもかまわなかった。その者が、たとえ立派な日本紳士であったとしても、神格化した天皇に盲目的に従った者であるなら、あるいは、たとえ独特な楽観主義者であったとしても、裕仁の野心を己のために利用しようとした者であるなら、いずれも問題ではなかった。そうした十分使いうる者たちが、総司令部リストに羅列され、裕仁には、そこから一体、幾人かを排除できるかが問われていた。木戸内大臣の秘書、松平康昌はこのリストを精査し、そうした戦犯容疑者に裁判にのぞむ決意を打診した。そして、どの者が信頼でき、どの者が、望むべく、裁判から除かれるべきかを、木戸と天皇に報告した。マッカーサーも裕仁も、こうした取扱いの各々の煩瑣な詳細に関わり合わなければならないわけではなかったが、その結果に目を通し、それに同意しなけらばならなかった。連合軍総司令部は、数週間ごとに、収監のために出頭すべきものを挙げた新たな名簿を公表していた。(102)
 そうしたリストは、裕仁にとって、以前のものよりいっそう受入れ難いものとなっていた。最初のものは、東条とその閣僚からなっていた。第二のものは、以前首相をつとめた広田弘毅――黒龍会の一員だったが、1936年に仲間を裏切り、その反体制者の支持を裕仁に投じた――が含まれていた。11月3日の第三のリストには、1944年当時の小磯首相、1941年当時の松岡外務大臣、そして、1934年までは裕仁の全幅の信頼を得ていた北進つまり征露派の三人の主要大将が挙げられていた。そのうちの一人、本庄繁大将は、満州の征服者であり、1933年から1936年まで、裕仁の侍従武官長をつとめた。北の対露戦か、南の対西洋植民地戦かをめぐった論争で、1936年、裕仁と不和となり、本庄大将は、法廷での被告としては、心中から天皇に仕えることはできないと感じていた。巣鴨刑務所への出頭を命じられた際、彼は切腹という彼の知る唯一の方法をもって、自ら沈黙した。
 12月3日に公表された第四のリストは、59人もの名を挙げていた。それは裕仁にとって極めて異議のあるもので、宮中と第一生命館との関係が一時的に途絶し、日本側の口添えによる救済抜きに作られなければならなかった。その結果、このリストは何人かの的外れな人物を含んでいた。たとえばこのリストは、南京強奪を防ごうと空しく奮闘した副参謀長、多田駿大将の逮捕を命じていた。あるいは、南京攻略計画を推し進めた下村定大将を、幣原政府の戦時体制解除局長のまま、無逮捕に放置していた。このリストはまた、博学な大川周明博士を、1920年代には裕仁の若手将校団に思想教化をほどこし、1930年代には銀行・産業人や裕仁の政策に反対する人の暗殺を組織した罪で投獄されたことを証拠にあげ、危険人物として裁きにかけることを命じていた。さらには、このリストは、「社会主義者伯爵」こと有馬頼寧を挙げていた。有馬は、近衛の戦時一党体制への左翼勢力を結集させていたが、皇后の義理いとこでもあった。
 この12月リストが最も堪え難かったのは、皇室の最高齢者である、71歳の梨本宮守正の名が挙げられていたことだった。裕仁の策謀にたける二人の叔父、東久邇宮と朝霞宮の兄として、梨本は四人の日本陸軍元帥のうちの最高位についていた。彼はまた、日本の主柱の神社であり、天照大神――その先祖である太陽神――の魂が宿った伊勢神宮の祭主でもあった。梨本はまた、1937年6月、満州に出かけ、東条とともに中国との戦争を始める工作を行った。この意味で、彼は8年間の地獄のような戦争の計画者であったが、連合軍総司令部の捜査官はそれを知らなかったのか、それは一切明らかにされることはなく、梨本への告発も行われなかった。彼は、日本に対するマッカーサーの法制度改革を裕仁が承認するまで、5ヶ月間巣鴨刑務所に収獄されたのみだった。日本国民にとって、皇族の一員が戦争の処罰のいくらかを負うことは、天皇のイメージにとって良いことだった。しかし、不面目は巨大だった。梨本は、敬うべき皇室子息でありかつ
〔伊勢神宮の〕祭主で、他のA級戦犯容疑者とともに、巣鴨刑務所で便所を掃除していた。やや豚に似た陽気な顔つきのこの高齢の重鎮は、その信用のもとでもある哲学的なユーモアをもって、卑しい雑用に精を出したのであった。(103)
 12月リストが公表されて三日後の12月6日、連合軍総司令部は、さらに二人の名をそのリストに付け加えた。その二人とは、裕仁にもっとも近い助言者である、木戸内大臣と近衛公だった。彼らを加えるとの判断は、11月の初め、総司令部の戦争犯罪局においてなされていた。その公表までに、裕仁はそれを黙って認めていたが、征服者との関係の悪化が予想されていた。木戸の日記によれば、彼の逮捕は絶妙な配慮と儀礼をもって行われ、裕仁への最大の気配りを示したものであった。(104)
 10月、木戸は天皇に、戦犯として罪に服するつもりであると伝えていた。その際、木戸は、内大臣府を彼とともに廃止してはどうかとのみ尋ねた。10月14日、彼は、残された自由の身を過ごすため、富裕な実業家から郊外の瀟洒な別荘を借りる手配を整えた。しかしながら、それからの一カ月、彼はそこで過ごすには余りに多忙で、毎日、1~3時間、裕仁との私的な会見についやしていた。11月10日、ついに彼は、総司令部捜査班による明治ビルでの3時間にわたる査問に臨んだ。そののち、彼は皇居に戻り、裕仁のお供をして、伊勢神宮と古都京都に向け出発した。(105)
 伊勢神宮は、その屋根は、南洋の島のシュロ葺き小屋の屋根のようで、古代皇室様式の尖った切り妻を持ち、垂木が交差して、空に向かってV字型に突き出している。裕仁はひとりで、彼や彼の家族の聖職者のみがそれを許される、内宮に立ち入った。彼はそこで一時間ほど過ごし、今回の敗戦を伝説の祖先、天照大神に詫びた。京都では、祖父の明治天皇と神話上の始天皇、神武天皇をまつる神社で詫びをくり返した。木戸は、大きな安堵をもって、天皇の通過を見守る見物人たちが、戦前のように、うやうやしく尊敬を払うようであったと記録している。戦前にそうであったように、警官によって整列させられた子供や工場労働者の群れは見当たらなかったが、年とった男女が線路脇の敷物の上に座し、通り過ぎる天皇の列車に向かって頭を下げていた。
 それに続く日々には、皇族が、これまでに日本を統治してきた121代にわたる天皇たちの墓にお参りした。11月20日には、木戸は、天皇にお供して、東京の靖国神社――祖国を離れた戦場で死んだ兵士の霊を祭る英雄記念堂――を参拝した。その四日後、最後の無数の雑用を片付けて、木戸は、最終の勤めを果たすために宮中に参じた。彼は天皇とともにシャンペンを飲み、一箱の缶詰、一樽の酒、骨董の硯石、花瓶、掛け軸、そして総額八千ドルの小切手などといった、あまたの餞別の品への感謝を述べた。
 11月27日、火曜日、木戸は自分の金庫の中味を一掃した。水曜日、彼は伊勢神宮と京都に再び出向き、自らの報告を神に行った。翌週の月曜には帰京し、ようやくにして、借りていた郊外の別荘に落ち着いた。翌火曜、水曜の両日、彼は、過去二十年間、念願してきた趣味、読書に没頭した。12月7日、木曜、総司令部が木戸と近衛を逮捕するとのラジオ放送があり、16日、それは実行された。「予想していた。ラジオの放送を冷静な気持ちで聞いた」と彼は日記に記している(106)。その後の十日間、最後の自由の身にあって、彼は敢えてそうしているかのごとく、静穏に過ごした。別荘の庭園を散歩し、詩を書き、クロケーに興じ、そして、神棚の守護神に、新たな仮の住処への移動を報告した。
 逮捕の放送のあった翌日、一人の侍従が宮中からの知らせを持ってその別荘を訪れた。天皇が侍従長に「木戸との最後の面会をしたい」と述べているとのことだった。
 海軍提督である侍従長は「木戸は今や戦犯容疑者ですので、礼儀上、参上には躊躇を感じているものと思われます。陛下におかれましては、今の時期に彼に会うのはお控えた方がよろしいかと存じます」と述べた。
 「アメリカ側の見方では、木戸は戦犯かも知れぬ。しかし、我国での見方では、彼は絶賛されるべき者だ」、と天皇は言った。
 木戸はこうしたやり取りを遣いの侍従より聞き、深く心を動かされた。そして、「もし、陛下が私をお呼びであるのなら、進んで参ります」、と彼は返答した。
 12月10日、朝6時、木戸はその日の夕、宮中に出向くようにとの通知を受け取った。彼は従前の服務服、縞柄のズボンとモーニングを着け、祖父の墓で立ち止まって敬意を表し、午後5時、宮内省のかつての職場に出頭した。一人の侍従が、「陛下がお待ちです。ただちに皇室図書館にお向いください」、と彼を迎えた。
 彼は、楓の落ち葉が散り荒れたままの庭園を車で通り抜けた。「いつものように、私は書斎で陛下にお目にかかった」、と日記に記している。
 裕仁は感傷的になっていた。「この時期はいつも、私は悲嘆に駆られます。どうぞお体に気をつけてください。私たちはいろいろと話し合ったので、私の気持ちを貴方はよくご存じのことと思う。ですから、刑務所では、他の者たちに、よく説明してやってください」、と彼は言った。
 「陛下のご意思に従うことを誓います」、と木戸はうやうやしく言った。そこで裕仁はたちまちに、とてもいじらしい様子をもって、なつかしい追憶のわき道に会話をそらした。それを木戸は「あらゆる事々を思いのままに」、と記している。二人だけの話が終わったところに、皇后良子
〔ながこ〕が入ってきて、貴重な骨董テーブルを木戸に贈った。かつての木戸の同僚たちがそれぞれの贈り物を持ってそこに加わり、ワインや晩餐がそれに続いた。8時ごろ、皇后は皇后自身の手製のドーナツを、最後のお別れのプレゼントとして彼に贈った。ほろ酔いとなったころ、天皇のもとを辞して宮内省に戻り、その他の侍従たちに別れの挨拶をした。その夜は、彼は友人の愛人宅に引き上げた。
 就寝の前、義理息子
〔正確には木戸の弟(和田小六)の娘婿〕でハーバード出の米国法の専門家、都留重人が訪ねてきて、「もし内大臣が戦争責任を引き受け、その責めを負うならば、アメリカ人は天皇を有罪とみなすでしょう。逆に、もし内大臣が無罪を言い続ければ、反対の見方がおこり、アメリカ人の目には、天皇は無罪と映るでしょう。これがかれらの考え方で、あなたも、自分の弁護士のことをよく考慮する必要があります」、と語った。木戸は義理息子に謝意を表し、最上の弁護士を得られるよう依頼し、そして、もし可能なら、アメリカ人検事長と話しができないかと頼んだ。12月15日、都留はその検事長と昼食をとることに成功した。木戸は、その報告を聞きながら、翌朝の、かって連合軍捕虜が収容されていた大森収容所へ、収獄のために出頭する準備を、 心おきなく進めていた。
 木戸と並んで出頭するはずであった近衛公は、その夜、豪華な郊外の別荘「荻外荘」――丁度8年前の上海強奪時以来住んできている――で宴会を催した。そこに同席した近しい友人や親戚は、後に、近衛公はいつものように、ものうく、冷笑的で、考え込んでいたと述べている。宴客が帰った後、彼はパジャマに着替え、絹の部屋着をはおった。ベッド脇のテーブル上には、彼の愛読書と、彼が和平派のために天皇を擁護して書いた論文集を並べた。その中には、モロッコ革で製本したオスカー・ワイルドの 『獄中記』 もあった。その書中、彼が後世のためにマークを付した個所に、「私が自分自身に言わねばならないことは、自分で自分を破壊したこと、そして、偉大であろうが卑小であろうが、自分自身の手以外にそれをなせたことはないということだ」、とのくだりがあった。(107)
 連合軍総司令部が報道陣に公開した書面には、近衛の自殺の動機としてこう告げられていた。「私は、支那事変の勃発以来の国政の取扱いにおいて、確かな間違いを犯してきたということに、深く憂慮している。その真のねらいについては、私の友人たちや、少なくないアメリカの友人たちにすらも、理解され認められているものと確信している。勝利者はあまりに高慢となり、敗北者はあまりに卑屈になっている。現在、過度に歓喜している世界の風潮は・・・ そのうちには沈静し、公平を取り戻すだろう。その時にこそ、審判は下されるべきだ」。その数時間後、近衛は毒を飲み、その生涯のように、奢侈逸楽のうちに死んだ。彼は、裕仁をその実りなき戦争から脱出させることに失敗した。彼自らも、敗戦の策略に失敗したことを証明した。彼は、法廷における反対尋問において、天皇を守り切れるとは確信できなかった。そして、もっとも重要なことは、彼はおそらくお高くとまった俗物で、東条のような平民と牢獄を共にすることに耐えられなかったのだろう。
 眼鏡なしでは盲目同然なほど近眼の内大臣木戸は、大森収容所の医務室で、アメリカ人医師の前に、裸で立たされた。殺菌剤が彼のうえに散布され、彼の衣服、所持品はアメリカ人MPによってカタログ化され、そしてようやく、服を付けることが許され、仲間の戦犯容疑者に加わることができた(108)。その際、近衛公の夜の宴に出席していた男爵や侯爵たちは、あらかじめ電話でもって、近衛公が誇りをもってこの世を去ったことを連絡し合っていた。そして今や最後の逮捕がなされたところだった。かくして、百人以上の裕仁の家臣たちが、アメリカ人の手の内にあった。そのうち、何人が法廷にかけられ、何人が絞首刑となるかは、今や、裕仁と幣原内閣がいかに迅速に日本を変革する法制を作るかにかかっていた。マッカーサーは、戦犯リストの交渉にあたる宮廷人にこう告げた。「いまやその取り巻きは除去され、天皇裕仁はかくして、真の天皇となった」(109)


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