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<連載> ダブル・フィクションとしての天皇 (第23回)
日本歴史認識
今回をもって、原作の5章すなわち第二部が終わり、次回からは第三部に入り、いよいよ舞台は20世紀へと移ってゆきます。
(第三部も、既存の邦訳では割愛されている部分で、そういう意味では、この訳読が日本での初 “翻訳出版” である状態はもうしばらく続きます。)
ところで、こうして日本の歴史部分を、著者バーガミニの視点を通し、そして改めて自分の考えも検証しながら、ひと通りの流れをふり返ってきてみて、私はある思いを固めてきています。
その思いとは、日本に天皇制がかって存在し、そしてそれを今日も保持しているということが、私たち個々人の意識や受止め方はどうであれ、この地球上の事実として、それがきわめて希有な歴史現象であるらしいという認識を、私として持たざるをえないという思いです。
私がシドニーに住み始めてまだ間もないころ、友人から日本の天皇制のことについて触れられ、それを自分が 「何をいまさらそんな古いことを」、といった意識をごく “自然に” 抱きながら聞いていたことがありました。それは、どこの国であれ、その歴史上、大なり小なり封建時代を経てきているわけで、それを今、あたかも現代にまでも尾を引いているかのように取り上げるのは、時代錯誤ではないのか、といった反発めいた気持からでした。
それに、言葉の問題として、 「明治維新」 を英訳した 「Meiji Restoration」 が、それを邦訳し直すと、 「明治王政復古」 となることがあります。私は、個人的に、この
「維新」 という言葉が、いったん行って帰ってくると、どうして 「王政復古」 となって戻ってくるのか、そのギャップへの疑問がありました。そして、この訳読作業も含め、歴史上に生じた諸事実をなんとか確かめた上で、それを、 「維新」なの か 「王政復古」 なのか、と改めて問い直してみると、その歴史現象はやはり 「王政復古」 と呼ぶのがより正確な捉え方で、それを 「維新」 と呼ぶのは、どこか政治的で、ある種の “操作” の臭いをかいでしまわざるをえない、ということなのです。
オーストラリアに来るまで、少なくとも私は、その 「臭い」 をさほど臭いとは感じずに、自然な空気としてそれを呼吸してきました。
私が上に、 「思い」 として意識せざるをえないことは、この 「空気」 つまりそうした環境がこそ、日本であるという認識です。ひとことで言えば、ある臭いのある空気を、どこでも、誰でも、自分と同じように無臭と感じているだろうと感じていること、そういう無意識の前提の存在です。
そういう前提をもって抱いてきている自分の国についてのこの歴史感覚を、タイトルのように 《日本歴史認識》 と呼ぶことにしましょう。
これまでにも触れてきている 「 『二元論』 の向こう」 を考えるにあたって、この 《日本歴史認識》 に意識的な照明をあてることは、ひとつの方法として有効かと思います。
そこには、天皇制を、過去のことと葬ることもせず、あるいは、現代の常識として無意識の前提ともせず、明らかな対象物として、意識の照明をあてることを含みます。
これから、原著者のバーガミニは、歴史的な振り返りをこうして終わらせ、いよいよ、彼の議論の核心部へと入ってゆくはずです。20世紀への変わり目を境界に定め、その前夜の記述が、今回の訳読です。
では、そうした歴史物語の結末へと、今回もご案内いたします。
(2010年5月15日)
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