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<連載>  ダブル・フィクションとしての天皇 (第36回)


ミッシング・リンク

昭和天皇をめぐる 「ダブル・フィクション」 を解明してゆくにあたって、そのダブル・フィクションのひとつ目のフィクションは、その天皇裕仁という人物自身についてのフィクションの解き明かしにあります(ちなみに、ふたつ目は、戦後の米国の “属国化” 装置としての天皇制です)。

 これはたとえ話ですが、オーム真理教事件の麻原彰晃に関して、その裁判で、彼を何とか死刑に科することはなしえているようですが、そうした法的手続きとは別に、人間にまつわる事実分析として、彼自身の人としての性質や能力として、彼がどのようにしてそういう 「犯罪」 行為を組み立て深めえて行けたのかという人間分析――家族や育ちや社会的背景を含めて――は、まだ手つかず、あるいは、ごくごく表面的にのみしか、触れられていないように見受けられます。
 ところで、日本という国は特殊な国で、歴史としても、文化としても、社会風習としても、国全体の 「一家意識」 が今でも生きている国です。少なくとも、そうした意識の比較的強い国です。(オーストラリアで生活していると、それをひしひしと感じさせられます。)
 言いかえれば、日本という国は、世界の中でも、相当に均質性を持った国です。
 そういう、強い一体性を持つところからくる、反面性もあわせて指摘できます。それは、そういう一体性の強さがゆえに、 (a) 国や社会全体の持つ特徴と、 (b) 個人の持つ特徴が、時にして、ごっちゃになってしまうことです (オーストラリアに来たばかりの頃、日本について何かが語られると、私は、あたかも日本の代弁者になったかのように、いちいちそれに応えなければならないかのような義務や錯覚におちいったものでした)。
 そうした場合、前者(a)を指摘されると、あたかも自分のことを指摘されたかの心理に捕らわれてしまい、時にそれが何らかのネガティブな特性に関わっていた場合、それについて考えることを回避したり、それがあたかもタブーのようにも扱われがちであることです。
 麻原という人物が、解明されているようで多くが謎のままなのは、この事件に、そういう 「均質性」 の一端をかいでしまう日本人の多くが、どこか踏み込み切れない同質なものを見、自分と無関係とは区別できず、いわば “自分の身を切るような何か”、を感じさせられるところがあるからではないでしょうか。
 そこで、たとえ話から本論に戻るのですが、昭和天皇をめぐる第一のフィクションについて、それを解明してゆく際にも、そういう同質なものと裏腹な、自分の身を切るような何か”、を覚ってしまうがゆえに、それをタブー視してしまう傾向、あるいはそこまでではないとしても、踏み込むことに気の重い意識、が伴うからではないかと思われます。
 ひとつの国に 「一家意識」 が存在していると言う場合、そういう 《危うさ》 が同居し、あれこれが絡み合った、コンプレックス状況を形成しているように思えます。

 さて、そういう危うさを内在させている心理にとって、なかなか重たくおっくうな課題が、天皇という 「一家の大父」 が、肉親意識をもって見れる人物として、どうしてそういう大それた行為――国際的犯罪行為として取り上げうる――をなしえたのか、という開明です。
 本訳読について言えば、そういう開明に関して、著者バーガミニが、状況的証拠と裕仁個人をも結ぶリンクの決定的証拠に挙げていることは、やはり一家的な関連があったのかと改めて感心されるのでですが、皇室の親族者たちが一丸となって取り組んだ血縁的組織――本訳読では 「特務集団」 と呼ぶ――行動です。彼はそれを、実に克明に調べ上げています。
 これまで日本で広くそう理解され、信じられてきている、いわゆる 「軍部の跳ね上がり行動」 だけで、どうして国家を挙げて取り組んだそうした総動員体制が組みえたのか、ことに、国民全体の精神構造までも含めて考えた時、それだけでは説明しきれない、 《ミッシング・リンク》 を想定せざるをえないわけです。
 そういう、謎の欠落をつなごうとしているのが、だんだんと佳境にさしかかってきている、著者バーガミニの探究です。


 では、今回もその探究にご案内いたしましょう。
 
 (2010年11月29日)


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